火災
2.
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遥か彼方の地平線から、燃えるように赤い月がじわじわと登ってくる。シルクは夜風にゆられながら、待った。それは夢の景色と似ていたが、全く同じでは無かった。
遠くに白い山脈なんて見えないし、第一……いつまで経っても、咆哮など、まして影など現れる気配がない。
月が天頂近くに登ったがまだ何も起きず、シルクが痺れを切らし家に帰ろうとしたとき、爆発音と共に左手で火の手が上がった。あれは……集落の位置だ!見る見るうちに炎は広がっていき、草原は炎に飲み込まれていった。
シルクは何もできず呆然と立ち尽くしていたが、はっとして自分の家へ駆け出した。近くまで来たが、それ以上は熱気でとても近づけない。灰に肺をやられ、咳き込む。シルクは涙目になりながら故郷から、これまで人生を捧げてきた地から逃げ去った。
grok
シルクは息を切らし、熱と煙に追い立てられるように草原を駆け抜けた。背後では炎が唸りを上げ、かつての集落を飲み込む赤い波が夜空を染めていた。彼女の心は恐怖と混乱で張り裂けそうだった。マゼルダの言葉、護符、そして「古の守り手」の夢――すべてが頭の中で渦を巻き、意味を失っていく。なぜこんなことに? あの影はどこに? 「時は来た」とは何だったのか?
足元の草が焦げる匂いと、遠くで響く崩れる家々の音がシルクを現実に引き戻した。彼女はツリーハウスを目指していたが、炎はすでにその方向にも広がり、道を塞いでいた。熱気が顔を焼き、肺が締め付けられるように痛む。護符を握りしめ、シルクは進むべき道を失い、ただ本能のままに森の奥へと逃げ込んだ。
森は暗く、月の赤い光もほとんど届かない。木々の間を縫うように走りながら、シルクは自分の荒い息遣いと、心臓の鼓動だけを聞いていた。やがて、彼女は小さな空き地にたどり着き、膝をついて倒れ込んだ。咳が止まらず、涙が頬を伝う。すべてが燃え、失われた。故郷も、マゼルダも、答えも。
その時、背後の木々がざわめき、低い唸り声が響いた。シルクはハッと振り返り、闇の中に光る二つの目を捉えた。夢で見た巨大な影――だが、今度は月の光ではなく、遠くの炎の赤い輝きがその姿を浮かび上がらせていた。それは狼とも熊ともつかぬ、異形の獣だった。鱗のような毛皮が炎の光を反射し、牙の並んだ口から白い息が漏れる。体は丘のように大きく、しかしその動きは不自然なほど静かだった。
「シルク…」
しわがれた声が、再び彼女の名を呼んだ。夢と同じ声。だが、今度は現実の空気を震わせ、彼女の骨まで響いた。シルクは後ずさり、護符を握る手に力を込めた。護符が熱を帯び、まるで脈打つように振動している。
「お前が…古の守り手?」 シルクの声は震えていたが、目を逸らさず獣を見つめた。「なぜ…なぜ集落を燃やした? 私の家を、マゼルダを…!」
獣はゆっくりと首を振った。「我は燃やさぬ。炎は人の業だ。均衡が崩れ、欲と憎しみが火を呼んだ。お前が見た夢は、その警告だった。」
シルクは言葉を失った。人の業? 集落にそんな争いがあっただろうか? 彼女の知る限り、皆が穏やかに暮らしていたはずだ。だが、獣の目は嘘をついていないように見えた。深い、哀しみに満ちた光を湛えている。
「では…なぜ私を? なぜ私が選ばれたの?」 シルクは立ち上がり、声を張った。「私はただの猟師の娘だ! 何もできない!」
獣は一歩近づき、地面がわずかに揺れた。「お前は選ばれたのではない。自ら選んだのだ。護符を受け取った日、運命を受け入れた。お前の血には、かつて均衡を守った者の力が流れている。マゼルダはそれを知っていた。」
シルクは護符を見下ろした。石の紋様が、炎の光を受けてまるで生きているように蠢いている。「マゼルダ…彼女は生きてる?」
獣は答えず、ただ空き地の中心を指し示した。そこには地面に刻まれた、護符と同じ紋様が浮かんでいた。まるで光を放つように、赤く輝いている。「お前が求める答えは、そこにある。踏み込むなら、覚悟を決めなさい。均衡を取り戻す道は、炎よりも苛烈だ。」
シルクは息を呑み、紋様を見つめた。背後では炎が森に迫り、熱と煙が彼女を追い詰める。逃げる道はもうない。彼女は護符を握りしめ、震える足で一歩、紋様へと踏み出した。
その瞬間、地面が光に包まれ、シルクの視界は白く染まった。獣の声が遠くで響く。「時は来た、シルク。均衡の守護者よ…」