第1話-写真部と雨宮部長-
6月の終わり。梅雨の湿気をはらんだ空気が朝の空間を重たく包み込み、窓の外では小雨がしとしととアスファルトを濡らしている。
寝起きの身体には、じめじめとした湿り気がまとわりついて、なんとなく呼吸さえ少し苦しい。そんな気だるさを振り払うように、洗面所のスイッチを入れる。
しかし鏡に映った美桜の姿は、そんな外の鈍重な空気とは無縁かのように、
見る者を一瞬息づまらせるほどの透明感を放っていた。
まるで漆を溶かしたような深い色合いと艶を帯びた黒髪。
白磁のような頬は血の気が薄く、そのぶん憂いを帯びた大きな瞳をいっそう引き立てている。
薄く淡い唇と通った鼻筋は、全体に儚げな印象を与えるだけでなく、
やや長めの首筋からすらりと伸びた手足と相まって、花が風にたゆたうような繊細さをまとっていた。
美桜は、まさに危うい百合の花――現実離れした美しさと、触れた瞬間壊れそうな脆さが同居し、一目見た者を惹きつけて離さない。
だが、その持ち主が鏡を見つめる眼差しには、深い憂鬱の影が落ちている。
いつものように2時間かけて学校へ向かう電車の中。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、わたしは深く息を吐いた。
ホームに降り立ち、校門をくぐった瞬間に背中にまとわりつく視線は、今日も相変わらず重い。
“変わらないと動けない”んじゃなくて、“動いたからこそ変わる”
そう言って微笑んだときの父の瞳が、なぜか悲しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。わたしがあえて遠い学校へ進む事を決めたのも、あの一言が胸にあったからだった。
実際入学当初は何もかも新鮮で、クラスメイトとも穏やかに過ごせる気がしていた。
毎日が楽しく、早く学校に行きたくて仕方がなかった。
だけど、結果的に一番仲の良かった藍ちゃんを傷つけ、汐里に至ってはあの事件以来まだ学校に来ていない。
――そんな状況で、いったいわたしは学校生活を楽しむ資格などあるのだろうか。
仲良くなりたいと思うたび、誰かが傷ついてしまうのなら、何もしないほうがいいのかもしれない。そう考えると、足が重くなる。
放課後。クラスの仲間たちは友達同士でグループを作り、それぞれの目的地へ散っていく。私も鞄を抱え、早々に下校しようと廊下を歩いていたが、ふと足が自然とある場所へと動いていた。立ち止まると目の前に「写真部」と書かれた扉がある。
――ここは入学時に配られた「部活動紹介」の冊子を見て気になっていた場所だ。
いつからか人からの様々な感情が含まれた視線に晒されていたが、
“純粋に切り取られた世界”という写真部の紹介文を見ながら、面白そうだなと思っていた。
しかし入学当初は友人達との時間で忙しく毎日が過ぎ、入部を見送っていた。
中に入ってみたい気持ちはあるものの、「また同じことを繰り返すのではないか」という不安が頭をもたげる。自分が存在するだけで波風が立つなら、入部しても他の部員に迷惑をかけるだけかもしれない。やはり扉に手をかけるのはやめて帰ろうか。
一人で逡巡していると、部室の扉ががらりと開き、中からひとりの先輩が顔を出した。
「ん? どうしたの?」
先輩は二年生の女子らしく、ポニーテールがよく似合う快活そうな雰囲気を漂わせている。戸惑う私に向かって「用事があるなら遠慮しないで入っていいよ」と柔らかな声をかけた。
心の準備もないままに精一杯の調子で、「えっと…見学したいな、と思ったんですけど…」と答える。
「ようこそ。見学希望者は久しぶりだよ。わたしは部長の雨宮。二年です。君は…あ、美桜ちゃんだよね?」
「――え? あ、はい…」
一瞬胸がざわつく。やっぱり学校中にわたしの名前と顔はけっこう知られているんだ。けれど雨宮先輩は気にする様子もなく、柔らかい口調で続けてくれる。
「この部屋は狭いし暗室があるから、びっくりするかもしれないけど、よかったら見ていって。まだ一年の子が一人しかいないから、ちょうどいいかな」
先輩の後ろには、先に来ていたらしい一年の男子がバツが悪そうに立っていた。
目が合うと軽く会釈してくれる。どうやらもの珍しさで騒ぐタイプではなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。
「……よろしくお願いします。わたし、カメラも触ったことないんですけど……大丈夫ですか」
「大丈夫。最初から何でもできる人なんていないよ。うちは“撮りたいもの”を見つけるとこから始まるんだから」
そう言って微笑む雨宮先輩はとてもまぶしく感じられて、
これまでずっと心を塞いでいたが、
ほんの少し
――ごくわずかだけ、楽しむことを許してもいいのかもしれない。
そう思えた
先輩たちに薬品の扱い方を教わりながら、簡単なフィルム写真の現像工程を体験させてもらう。暗室の赤いランプの下で、特有の薬品のにおいや湿った空気に包まれ、トレーの液に浸された印画紙の上にゆっくりと白黒の像が浮かび上がる
――その光景には思わず息をのむ。
「わぁ……」
わたしがぽつりと声をこぼすと、雨宮先輩は「初めて見ると感動するでしょう?」と楽しそうに笑い、そばにいた一年の男子も「俺も最初は同じ感じだったなぁ」と共感を示してくれる。何気ない一言だけど、こんなふうに自然に言葉を交わすのは久しぶりかもしれない。
「お、今日は見学の子が来てるんだね」
そう声をかけて部室に入ってきたのは、写真部の顧問・坂口先生という若い男性だった。まだ二十代半ばくらいで、穏やかそうな雰囲気を纏っている。
「暗室、楽しめたかな? 初めは難しく感じるかもしれないけど、慣れると結構ハマるよ」
「はい……初心者ですけど、面白いと思いました」
クラスではいつも自分の立ち位置ばかり気にしていたのに、今はわたし自身の興味や感動を素直に言葉にできる。それがとても新鮮だった。
部活見学を終えたころには、夕暮れの光が校舎をオレンジ色に染めていた。暗室のこもった空気から外へ出ると、わたしは自分でも驚くほどすっきりした気持ちになっている。
「どう? 入部する気はある?」
雨宮先輩にそう尋ねられ、わたしは「あ、はい……ぜひ、入れてほしいです」と思わず答えていた。ひとつのことを自分の意志でやりたいと決めたのは、本当に久しぶりだった。
ここなら、自分の外見ではなく“撮る写真”で向き合ってくれるかもしれない。
そう思うだけで、小さな光が胸にともるのを感じる。
校舎を出て、下駄箱で靴を履き替えるころには周囲もまばらになっていた。
すっかり夕焼けが落ち、風が少し肌寒い。
電車の中で揺られながら、いつもなら「今日も誰ともまともに話せなかった」と思い返して落ち込むのに、今日は写真部の暗室でのひとときを思い返し、少しだけ胸が温かい。
「なんで…………」
文化祭の時の汐里の顔がフラッシュバックする。
その瞬間、浮ついていた気持ちが一瞬で真っ黒に塗り変わる。
「友達をあんな目に合わせておいて、一人だけ学校生活を楽しむつもり?」
嘲笑するように囁く声だけがはっきりと、頭の奥で響いた。
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