表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第1話-写真部と雨宮部長-

6月の終わり。梅雨の湿気をはらんだ空気が朝の空間を重たく包み込み、窓の外では小雨がしとしととアスファルトを濡らしている。

 寝起きの身体には、じめじめとした湿り気がまとわりついて、なんとなく呼吸さえ少し苦しい。そんな気だるさを振り払うように、洗面所のスイッチを入れる。


しかし鏡に映った美桜の姿は、そんな外の鈍重な空気とは無縁かのように、


見る者を一瞬息づまらせるほどの透明感を放っていた。


まるで漆を溶かしたような深い色合いと艶を帯びた黒髪。

白磁のような頬は血の気が薄く、そのぶん憂いを帯びた大きな瞳をいっそう引き立てている。

薄く淡い唇と通った鼻筋は、全体に儚げな印象を与えるだけでなく、

やや長めの首筋からすらりと伸びた手足と相まって、花が風にたゆたうような繊細さをまとっていた。


美桜は、まさに危うい百合の花――現実離れした美しさと、触れた瞬間壊れそうな脆さが同居し、一目見た者を惹きつけて離さない。


だが、その持ち主が鏡を見つめる眼差しには、深い憂鬱の影が落ちている。



いつものように2時間かけて学校へ向かう電車の中。

窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、わたしは深く息を吐いた。

ホームに降り立ち、校門をくぐった瞬間に背中にまとわりつく視線は、今日も相変わらず重い。


“変わらないと動けない”んじゃなくて、“動いたからこそ変わる”

そう言って微笑んだときの父の瞳が、なぜか悲しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。わたしがあえて遠い学校へ進む事を決めたのも、あの一言が胸にあったからだった。


実際入学当初は何もかも新鮮で、クラスメイトとも穏やかに過ごせる気がしていた。

毎日が楽しく、早く学校に行きたくて仕方がなかった。

だけど、結果的に一番仲の良かった藍ちゃんを傷つけ、汐里に至ってはあの事件以来まだ学校に来ていない。


――そんな状況で、いったいわたしは学校生活を楽しむ資格などあるのだろうか。

仲良くなりたいと思うたび、誰かが傷ついてしまうのなら、何もしないほうがいいのかもしれない。そう考えると、足が重くなる。


 放課後。クラスの仲間たちは友達同士でグループを作り、それぞれの目的地へ散っていく。私も鞄を抱え、早々に下校しようと廊下を歩いていたが、ふと足が自然とある場所へと動いていた。立ち止まると目の前に「写真部」と書かれた扉がある。


 ――ここは入学時に配られた「部活動紹介」の冊子を見て気になっていた場所だ。

いつからか人からの様々な感情が含まれた視線に晒されていたが、

“純粋に切り取られた世界”という写真部の紹介文を見ながら、面白そうだなと思っていた。

しかし入学当初は友人達との時間で忙しく毎日が過ぎ、入部を見送っていた。


 中に入ってみたい気持ちはあるものの、「また同じことを繰り返すのではないか」という不安が頭をもたげる。自分が存在するだけで波風が立つなら、入部しても他の部員に迷惑をかけるだけかもしれない。やはり扉に手をかけるのはやめて帰ろうか。


 一人で逡巡していると、部室の扉ががらりと開き、中からひとりの先輩が顔を出した。

「ん? どうしたの?」

 先輩は二年生の女子らしく、ポニーテールがよく似合う快活そうな雰囲気を漂わせている。戸惑う私に向かって「用事があるなら遠慮しないで入っていいよ」と柔らかな声をかけた。

 心の準備もないままに精一杯の調子で、「えっと…見学したいな、と思ったんですけど…」と答える。


「ようこそ。見学希望者は久しぶりだよ。わたしは部長の雨宮あめみや。二年です。君は…あ、美桜ちゃんだよね?」

「――え? あ、はい…」

 一瞬胸がざわつく。やっぱり学校中にわたしの名前と顔はけっこう知られているんだ。けれど雨宮先輩は気にする様子もなく、柔らかい口調で続けてくれる。

「この部屋は狭いし暗室があるから、びっくりするかもしれないけど、よかったら見ていって。まだ一年の子が一人しかいないから、ちょうどいいかな」


 先輩の後ろには、先に来ていたらしい一年の男子がバツが悪そうに立っていた。

目が合うと軽く会釈してくれる。どうやらもの珍しさで騒ぐタイプではなさそうで、ほっと胸を撫で下ろした。


「……よろしくお願いします。わたし、カメラも触ったことないんですけど……大丈夫ですか」

「大丈夫。最初から何でもできる人なんていないよ。うちは“撮りたいもの”を見つけるとこから始まるんだから」


 そう言って微笑む雨宮先輩はとてもまぶしく感じられて、

これまでずっと心を塞いでいたが、


ほんの少し


――ごくわずかだけ、楽しむことを許してもいいのかもしれない。


そう思えた


 先輩たちに薬品の扱い方を教わりながら、簡単なフィルム写真の現像工程を体験させてもらう。暗室の赤いランプの下で、特有の薬品のにおいや湿った空気に包まれ、トレーの液に浸された印画紙の上にゆっくりと白黒の像が浮かび上がる


――その光景には思わず息をのむ。


「わぁ……」

 わたしがぽつりと声をこぼすと、雨宮先輩は「初めて見ると感動するでしょう?」と楽しそうに笑い、そばにいた一年の男子も「俺も最初は同じ感じだったなぁ」と共感を示してくれる。何気ない一言だけど、こんなふうに自然に言葉を交わすのは久しぶりかもしれない。


「お、今日は見学の子が来てるんだね」

 そう声をかけて部室に入ってきたのは、写真部の顧問・坂口さかぐち先生という若い男性だった。まだ二十代半ばくらいで、穏やかそうな雰囲気を纏っている。

「暗室、楽しめたかな? 初めは難しく感じるかもしれないけど、慣れると結構ハマるよ」

「はい……初心者ですけど、面白いと思いました」


 クラスではいつも自分の立ち位置ばかり気にしていたのに、今はわたし自身の興味や感動を素直に言葉にできる。それがとても新鮮だった。


 部活見学を終えたころには、夕暮れの光が校舎をオレンジ色に染めていた。暗室のこもった空気から外へ出ると、わたしは自分でも驚くほどすっきりした気持ちになっている。


「どう? 入部する気はある?」

 雨宮先輩にそう尋ねられ、わたしは「あ、はい……ぜひ、入れてほしいです」と思わず答えていた。ひとつのことを自分の意志でやりたいと決めたのは、本当に久しぶりだった。


 ここなら、自分の外見ではなく“撮る写真”で向き合ってくれるかもしれない。

そう思うだけで、小さな光が胸にともるのを感じる。



 校舎を出て、下駄箱で靴を履き替えるころには周囲もまばらになっていた。

すっかり夕焼けが落ち、風が少し肌寒い。

 電車の中で揺られながら、いつもなら「今日も誰ともまともに話せなかった」と思い返して落ち込むのに、今日は写真部の暗室でのひとときを思い返し、少しだけ胸が温かい。


「なんで…………」


文化祭の時の汐里の顔がフラッシュバックする。


その瞬間、浮ついていた気持ちが一瞬で真っ黒に塗り変わる。


「友達をあんな目に合わせておいて、一人だけ学校生活を楽しむつもり?」


嘲笑するように囁く声だけがはっきりと、頭の奥で響いた。

感想、コメントいただけると励みになります。

よろしくお願いいたします


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ