第七十四輪:黄昏
つらつら書き連ねたら「何この長さ怖い」になってしまった。
まぁ、そんな事もありますよね(笑)
グチャッ、ブチブチッ………バギンッ。
「う………」
ベクターの翼が産み出した強風に吹き飛ばされた一行は、王宮に突っ込んだ衝撃で意識を刈り取られていた。
そんな矢先に聞こえてきた耳障りな効果音は、アリューゼの意識を覚醒させた。
どうやら瓦礫の上に背中から叩き付けられたようで、背中を焼けるような痛みが走り抜けている。所々が裂傷を負っていて血塗れなのだが、背中に目の付いていないアリューゼは痛みしか感じれなかった。
「ぐ………っ、くそ──」
くらくらする頭を右手で押さえ、左肘で瓦礫を押す。その抗力を利用して起き上がろうとしたのだ。
だが、瓦礫を押して帰ってきたのは抗力では無く、神経をぐちゃぐちゃと掻き混ぜられたかのような激痛だった。
「──っ!が、あぁっ!」
思わず口からは悲鳴が洩れ、アリューゼは再び瓦礫の上に倒れた。身体は少ししか起き上がっていなかったが、その高低差により生じた衝撃は背中の裂傷を一斉に活性化させる程の力を秘めていた。
左腕を砕かれたかの如き激痛と背中を駆け抜ける熱さにもがこうにも、痛みに支配された身体は思うように動かない。
「ぐぁ………はっ、はぁっ………うぅ………」
荒くなる呼吸を無理矢理落ち着かせ、今度は右肘を瓦礫に押し当てる。右手は何の痛みもせず──軽い打撲程度の損傷はあるが、他の場所から生じている激痛に掻き消されている──、本来の目的を果たした。
上半身を起こし、アリューゼは酷い痛みの走る左腕へと目を向けた。
すると、二の腕の真ん中らへんに不自然な段差が生じていた。段差のみでは無く、紫色に膨れ上がった肌が異常を訴えている。
肌を若干深めに裂いたら血が噴き出しそうなまでに腫れている腕は、間違い無く折れていた。
「つっ………こりゃあ痛い訳だ」
骨折を確認したアリューゼは、露骨に顔を顰めてみせた。
──顰めた理由が不便さ二割、痛み八割なのは言うまでも無い。
ガリガリッ………ミチッ、ミチッ………ゴクン。
そして、先程から鳴り続ける咀嚼らしき音に気付いた。
痛みに我を忘れていたアリューゼがある程度落ち着いた証拠でもあった。
「何なんだ………そう言えば、皆は………っ!シエルさ──」
生々しい音は右側から聞こえており、アリューゼはそちらにゆっくりと顔を向ける。その途中で重大な事を思い出し、首を捻る速度を上げた。
──言葉が途中で止まっているのは、激痛のせいでも首を捻りすぎたからでも無い、目の前に広がる現実を受け入れられなかったアリューゼの思考が凍り付いたからだ。
「………え………?」
アリューゼの眼前には、水気を多く含んだ深紅の液体が撒き散らされた地面、そこに佇む深紅の液体を浴びた化け物、そして化け物の口から突き出した細くて白い腕があった。
血化粧を施された腕には水色のブレスレットが付けられていて、化け物が口を動かす度に水色の光を反射した。
化け物は腕を噛み砕く事に必死らしく、起き上がったアリューゼを正面にしても気付いていないようだった。
化け物のくわえるその腕が誰の物かは脳が一瞬で理解した。だが、身体がそれを認めようとはしなかった──否、認めたくは無かったが分かってしまった、と言うのが正しいか。
そして、理解したと同時に身体が動いていた。ふらふらと立ち上がり、足元にあった槍を掴む。それを振り被り、化け物の頭目掛けてぶん投げた。
その槍は黒い線を空中に描きながら化け物に肉薄し──手で止められた。
しかし、そんな事は気にせず、アリューゼは足元に転がっている瓦礫を右手で握り、そのまま走り出した。スピードが心なしか遅いのは身体の損傷が大きいからだが、〝痛み〟と言う感覚が欠如してしまったアリューゼが知る由も無い。
肉薄しつつ瓦礫を握り締めた右手を振り被り、顔面目掛けて振り下ろす。
正確に言うと〝振り下ろす〟と言うのには語弊がある。自分よりも高い位置に向けて振り下ろすと言うのは些か無理があるだろう。
しかし化け物は大したリアクションすら取らず、アリューゼの腕を掴んで引っ張り、そのまま持ち上げて地面に叩き付けた。
ベキ、バキバキバキッ。
「が──」
ズンッ。
「──」
鈍い音を鳴らすアリューゼに追い討ちのような足蹴を喰らわせた。
それは地面を粉砕し、砕けなかったアリューゼの身体は地下遺跡へと突き落とされる。そのまま打ち付けられ、地面に大の字で転がった。
身体を痙攣させつつ、光の消えつつある目を天井に向けた。
──手足は砕け、肋骨は綺麗にへし折れて内臓を貫き、最早動く事すら儘ならなかったから、落ちた時の体勢を保つしか出来なかったのだが。
口を動かす事すら出来なくなってしまったアリューゼは、自分の顔に当たっていた光が何かに遮られるのを感じた。
太陽を後光にして、黒くて邪悪で巨大なシルエットがちらついている。
「………男カ………筋張ッテ不味ソウダガ………マァ、良イダロウ」
そのシルエットが急に大きくなり、太陽が完全に遮断された。自分に向けて飛び降りてきたのを知ったのは、微かな振動と獣臭を感じてからだ。
「………、………── 」
機能停止した耳は化け物が何を言ってるのかすら聞き取らない。その代わり、目と鼻が〝生きて〟いるようだ。
「………」
不意に化け物がアリューゼに向けて何かを吐き出した。それはアリューゼの右脇腹に当たり、そのまま右手の方へ転がっていき、やがてくるくると回りながら指に引っ掛かって停止した。
輪のような物だと指触りで気付き、脳内から思い当たる節を掘り起こす。化け物が吐き出した──つまり、化け物がそれを摂取したと言う事だ。
『………くそっ………』
心の中でそうぼやきつつ、アリューゼはブレスレットを強く握り締めた。
しかし、それが特に意味を成す訳では無く、化け物はのそのそとアリューゼに歩み寄る。
「………………、………」
口を動かした後に、右手を右後ろに引いた。
どうやらそのまま横薙ぎにしてスライスするつもりのようだ。
それを見て死を覚悟するアリューゼ。不思議と恐怖は無く、何故か無性に眠くなる。
瞼がくっつくのを止められず、目を閉じてしまう。そのまま意識は闇の底へ──
「おっきろー(はぁt」
バキッ!
「ひでぶっ!」
──沈まず、聞きなれた声と共に放たれた打撃で覚醒した。
因みに、意味の分からない怪声を〝発した〟のはアリューゼだ。
「な、何すんだてめ──っ?!」
鈍い痛みが走るのが頬だと〝分かった〟アリューゼは、頬を〝左手で擦り〟ながら、打撃を加えた人物を睨み付ける。そして、三つの事実にはっとした。
一つ目は、護るべき人物が生きていてくれた事。
二つ目は、頬をぶん殴ってくれた、人物が目の前に浮いていた事。
「お、お前──」
──暖かい。
気付いたら暗闇の中に浮かんでいたシエルは、何も無い恐怖よりも自分の身体を包む温もりを強く感じていた。
それは膝の関節部、肩、そして右半身に強く感じられた。
『そう言えば、どうしてこんな所にいるんだろ──あ………、私、食べられちゃったんだ………』
思い出すと、身体が勝手に震え始めた。底知れぬ恐怖が遅れて襲い掛かってきて、シエルを少しずつ蝕んでいった。
すると、シエルを包んでいる温もりが暖かさを増した。まるで震えを止めるかのように強められた温もりに、シエルの震えも収まっていく。
『ふぁぁ………神様がシエルのお願いを聞いてくれたのかなぁ………?』
それが最期に感じたかった温もりのような気がして、シエルは思わず笑顔になった。
──そして、涙を溢す。
『………私、死んじゃったんだ………』
〝最期に感じたかった〟温もりを神様が感じさせてくれた──それはつまり、自分はこれから黄泉の国へと向かうと言う事だ。現世との隔離、異次元への移行………思い浮かぶのは父母や仲間達の顔。
『さよならも言えなかったな………もう会えないんだよね?』
暗闇に向けて質問をしてみたが、返事は帰ってこない。その沈黙が肯定のように感じられ、シエルを取り巻く悲しみが増す。
『まだ生き足りないよ………皆と──ナオヤと、もっと一緒にいたいよ………』
溜まった悲しみは水色の涙となり、シエルの頬を伝う。それは頬を離れ、暗闇へと落ちていく──
ぴちゃん。
『………?』
──かと思いきや、何かに当たって弾けた。同時に、当たった場所に鮮やかな水色の魔方陣が浮かび上がる。六芒星を円が包み、円の外側には記号のような文字が書かれていて、それをさらに一回り大きい円が包んでいた。
それは少しずつ巨大化していき、シエルを乗せても余る程の大きさになる。
『………何だろう、あれ………うぅー、動けないよぅ──ふぁ、来てくれるの?』
それに触らなくてはならないような気がして、しかし身動きが取れずに悩んでいると、魔方陣がご丁寧にも近付いてきた。
何故と考える事すらせず、シエルは触れられるまでに近付いてきた魔方陣に手を触れた。
『──!』
シエルの手が触れた瞬間に魔方陣が輝いたかと思うと、触れた部分から何かが凄まじい勢いで流れ込んできた。水のようで違う、ともかく不思議で──そして、心地好い何かが。
しかし、その感覚に身を委ねる暇は無かった。
『──ずっと見守っていたのよ、シエル………貴女の事を』
『え?!』
何故なら、自分しかいない筈の空間で自分に向けて言葉を発する存在がいたからだ。
それも、口で直接では無く〝脳へ〟直接。まるで水を流し込まれたかのような不思議な感覚が脳へと伝わったのだ。
『念話………?』
『腕輪のおじさんのお陰で念話もできるみたいだからね』
『?!どうしてそれを………?』
『言ったでしょ?私は貴女を見守り続けていたって』
そして〝ずっと見守っていた〟と言う言葉が強ち嘘でも無い事を悟った。そのまま左腕に視線を落とすと、腕には水色のブレスレットが輝いていた。
念話はともかく、ブレスレットにジェラルドを宿らせた事を知るのは、当事者であるシエルと案を出した直哉のみだった筈だ。
しかし、見守っていたと言われても──
『で、でも、あの時は誰もいなかった筈です………どこにいらしたのですか?』
そう、あの時はシエルと直哉の二人しかいなかったのだ──亡霊を人間としてカウントするなら〝三人〟だが──。巡回の警備兵を目を盗み、確実に遣り過ごしてジェラルドと遭遇しているので、そんな警備兵にこっそり後をつけられたとも考えにくい。
『何か勘違いしてるみたいだけど、私は人間では無いわ。それと、堅苦しい話し方はしなくて良いわ。私だって年頃の女の子なんだから』
『はぁ………はぇ?!』
『まぁ、驚くのも無理は無いか。人が見当たらなくて当然よ、私は貴女の〝中〟から見守っていたのだからね』
聞き逃しては色々とまずい言葉を聞き、シエルは素っ頓狂な声をあげた。そんなシエルの反応は想定済みだったようで、脳に念話を送ってくる〝女性〟は自分がどこにいたか等を話し出した。
『な、中?!そんなっ、私の、て、ていそ──』
『ちよ、ちょっと!そっちじゃ無いわ、心の中よ!!貴女の貞操は別の人に奪って貰いなさい!』
『ほっ………って、そそそ、そんなぁ////』
『ほんっと、天然なんだから──』
『え?』
『──何でも無いわ。まぁ、貴女の〝ナイト様〟みたいなモノね』
『ナイト………ナオヤの事?』
『貴女のナイト様はナオヤ君だけでしょ?』
『………(コクコク)』
『ふふ、弄り甲斐があるわ──』
『え?』
『………こほん』
所々で冗談(と見せ掛けて大真面目な事)を織り混ぜている所からも、女性が年齢詐称をしている訳では無い事が分かる──
『よーしっ!ちょっとナレーションぶち殺してくるね?』
『え?えぇ?』
──ごめんなさい。
因みに、シエルが聞き返しているのは素だ。決して狙っている訳では無い。
『はぁ………ナオヤ君にはね、神々の頂点──主神である〝アグネア様〟が宿ってるの』
『ナオヤに主神かぁ………………………………………え?しゅしん?!神様の王様?!』
『………やっぱり、貴女は重度──いや、天性の天然ね』
『はぅ~………』
それから少しの間、女性による説明が続いた。
主神であるウィズは相当な問題児だった事、神界と人間界──直哉達の済む世界──は最も近い位置関係にあった事、人間界に降りたウィズが直哉に引き寄せられた事………そして、直哉の部屋で魔術を行使し、そのまま直哉を異世界へと道連にした事。
『──それに辛うじて気付いた私は、アグネア様の後ろを気付かれないように追跡したの………神界を脱け出す技量が日に日に増していたから、見つけられたのは奇跡だったわ』
『………ウィズちゃんなら、確かに………それくらいやってそうだね』
沁々(しみじみ)と頷き、直哉に同情するシエル。しかし、同時に感謝も後悔もしていた。
『ウィズちゃんのお陰でナオヤと出会えたんだ………でも、そのせいでお父さんやお母さん達と離れ離れになっちゃったんだよね………』
直哉とウィズが出会っていなければ、直哉が異世界に渡ってくる事も無かったのだ。その事実が無いと、エアレイド王国は早い時期に滅んでいただろう。大切な人を喪わず──仲間の騎士達は一旦除外している──、且つ大切な人に出会えたのだから、シエルにとっては素敵な事だ。
しかし、それは直哉の運命を大きく狂わせた諸悪の根源でもあるのだ。そう考えると、シエルとしては複雑な感情しか沸き上がって来ないのが本音だ。
『………追い討ちを掛けるみたいだけど、正直良い事の方が少ないのよね』
『………?』
複雑な表情を浮かべるシエルに、女性が真剣さを増した声で言った。
『神である私やアグネア様はともかく、貴女のナイト様………ナオヤはこの世界の人間では無い──正確に言うと、この世界の人間〝だった〟の。どちらにせよ、世界からすれば〝異端の存在〟なのよ』
そして述べられた言葉は、シエルの脳内で何度も何度も反芻される。
しかし、それを理解する程の情報が無いのが現状だ。
『え?それって、どう言う事………?』
なので聞き返してみたが、僅かに意味を理解しているのだろう、語尾が微かに震えている。
それでも尚、女性の声は真剣さを欠いたりはしない。
『詰まり、今現在私達がいるこの世界は、ナオヤが元いた世界の数億年後の世界なの。ナオヤからすれば異世界だろうけど、数億年の時差こそあれど、実際は同じ星なのよ。そして、時間移転の技術が進んでいない世界では、それは世界に〝異端〟と見なされてしまうの』
『異端………』
『………世界が定めた自然の摂理に逆らう存在は、世界に少しずつ干渉されて存在を抹消される。貴女もナオヤと一緒にいたなら、ナオヤに何度も不可思議な危機が訪れているのが分かるでしょう?』
『っ?!』
はっとして顔を上げようとするシエルだが、身体は金縛りに遭っているかのように動かせなかった。
女性は若干声のトーンを落とし、深刻さを滲ませた声色で続ける。
『そこに〝邪神〟の干渉も混じるから、余計に質が悪いのが現状よ………アグネア様を敵視する神を邪神と呼んでいるのだけどね、〝異端の存在の抹消〟と言いながら、ナオヤもろともアグネア様を消そうとしているの。過去にも主神派と邪神派の間で戦があって、その影響で世界は大災害に見舞われ、一度滅んだ──生物が存在しない、死の星になったの。滅んだのはナオヤが元いた世界の二百年後の未来で、永劫の時を経てそこから再び命が産まれ、人間へと進化し、この世界を築き上げた。たった数億年の歳月でここまで立て直したのだから、人間は凄まじいって何度も実感したわ』
『………』
星=自分達が今現在住んでいる場所と言う方程式が成り立たなかったが、それでも断片的に言葉を理解したシエル。まるで譫言のようにその内容を呟いた。
『ナオヤ………異端………世界………抹消………邪神………………死………………』
その声は最初から最後までが震えていた。
ジェラルドの件からして、この女性が言ってる事は事実だ。思えば、危険に見舞われた事も先程の走馬灯で見た内容と合致している。
そうなると、いつか直哉と言う存在は──
『やだっ!絶対に嫌だっ!これ以上、ナオヤを、傷付けたく………ない、よ………嫌だよぉ………』
無意識に考えてしまった最悪の現実に、身動ぎすら取れないシエルは幾筋もの涙を溢した。それらは魔方陣と同じ色をしていて、シエルの頬から滴ってもシエルの回りに漂い続ける。
そんなシエルを慰めるかのように、優しい声色の女性の声が染み込んだ。
『ふふっ………貴女がナオヤを大好きで良かったわ。貴女の中に宿って、本当に良かった』
女性が言い終わった刹那、シエルの下にあった魔方陣が強い光を放つ。それを期に膨大な魔力が渦を巻き、黒一色だった空間にみるみる内に輝く水が満ちた。
そして、シエルの正面付近の水が盛り上がったかと思うと、淡い光を放ちながら爆ぜる。
『っ!』
思わず目を瞑ったシエルだが、目尻をひんやりとしていて、且つとても暖かい物が撫でたのを感じて、恐る恐る目を開いた。
すると──
『あ………』
『ふふ、初めまして』
──そこには陶器のような白さの透き通る肌に、薄い水色の下地にきらびやかな装飾を成した可憐なローブを身に纏う、腰を超えるまでに伸ばされた美しいストレートな水色の長髪を靡かせる女神がいた。
女神は空色の瞳でシエルを真っ直ぐ見つめ、優しく微笑んで見せた。
『初めまして、私はマーキュリー。水を司る星の名前を戴いた、水を司る神よ』
『は、初めまして………』
シエルもしどろもどろになりながら返事をしたが、目はその見た目に奪われっぱなしだった。
整った──整いすぎてるとしか言えない程の美貌で、女性であるシエルからしても美しいと感じてしまう程の、正しく女神と呼ぶに相応しい姿だったのだ。
『照れちゃうわね………貴女こそとても美しいのだから、もっと自信を持ちなさい?』
『っ~~~~~~!』
考えている事を読まれた事もだが、こんな美しい女性に褒められるとは毛頭も思っていなかったシエルは、動けないまま顔のみを真っ赤にした。
マーキュリーはそれを見て、端麗な唇を少しつり上げる。
『ふふ、やっぱり貴女は可愛いわね………シエルに宿って良かった』
『うー!』
頬を膨らませたシエルの頭をなでなでしつつ、マーキュリーはシエルの右側を見つめた。
『………さて、自己紹介も終わったし、そろそろ〝お目覚め〟の時間かしらね』
『え?………私、死んじゃったんじゃ──』
シエルが言い掛けた時、周りを照らしていた水が霧散する。水が消えると真っ暗になる筈だが、その空間には光が満ち溢れていた。
これから奈落へと向かう割りには不自然な光景だ。
『──あれ?』
『私も最初はそう思ってた。けど、途中で気付いたの』
『気付いたって?』
首を傾げるシエルに、マーキュリーは苦笑いを向けた。
『私達が見ていたのは全て〝幻影〟。楽しみも、痛みも、怒りも、悲しみも感じ、涙も流せる幻だったのよ………私も気付けなくて、シエルをどうやって生き返らせようか迷ってたの』
しかし、シエルは理解できる程話が飲み込めていない。
『え………?』
『相変わらず馬鹿げた規模の魔術ね………分からなくても平気よ、すぐ分かるわ』
そんなシエルの頭を撫で、マーキュリーはシエルの額に自分のそれをくっ付けた。
刹那、目の前から女神が姿を消した。
『?!?!?!』
『大丈夫よ、貴女の中に戻っただけだから』
『にゃー!!』
急に消えた事もそうだが、それよりもシエルが驚いた事は額をくっ付けられた事だ。
自然と鼓動が速くなっている。
『あらあら、ナイト様には積極的に行ってたのに』
『!!!!!!!!』
ボンッ!
因みに、戻る方法は幾らでもある。この方法を採ったのはシエルを揶揄うために他ならない。
それはしっかりと功を奏し、後に放った一言もあって、シエルは顔を真っ赤にして身体中から水蒸気を噴き出した。
『片が付いたらが楽しみね』
マーキュリーの悪戯っ気満々の嬉々とした声はシエルには届いていない。
何故なら、衝撃のシーンを目撃されていた事に対するショックがシエルを支配しているからだ。
しかし、そのショック──と言うより、シエルの意識──は少しずつ薄らいでいった。
回りの光が強くなっていき、それにつられて何かに引っ張られるような感覚に襲われている。
『目が覚めてからが正念場よ。私も力を貸すから、二人で乗り越えてみなさい!』
マーキュリーのそんな一言を最後に、シエルの視界と脳内を純白が包み込んだ。
涼しい風が頬を撫でるのを感じる。
懐かしい温もりを身近に感じる。
力強く、とても恋しい存在を感じる。
「ん………」
そんな感覚に包まれたシエルは、自分が目を閉じている事に気付いた。
太陽の光が瞼を透けさせ、得体の知れない不可思議な色を醸し出している。
その瞼をゆっくりと開こうとすると、頬に生暖かい液体が滴った。
「………?」
それも気になったが、今は自分の目で現状を把握する事が優先だ。
まるで夢のような出来事の中でマーキュリーが言っていた事は事実か否か。そもそも先程の事が夢か現か。
そのまま瞼を開ききったシエルは、瞬間的に魔力を練り上げて治癒魔術を行使した。
「む………起きたか、小娘」
「シエルだもん!」
行使されている人物──ダークサイド全開の直哉は、急に膨大な魔力が沸き上がった事に僅かな反応を示し、自分の左頬と左胸──ベクターの一撃を喰らって裂かれた──に治癒魔術が行使されている事を認識してから腕に視線を落とした。
そこには、ぽろぽろと涙を溢しながら治癒魔術を行使するシエルがいた。
「何泣いてんだよ、俺様が死ぬとでも思ったのか」
「………知らないっ」
シエルは素っ気ない反応を返しつつ、とにかくひたすらに治癒魔術を行使した。普段よりも魔力の吸収効率が良かったり、治癒魔術の効果があり得ない程高まっていたが、必死なシエルは気付いていない。
──右手と右目に水色の六芒星が輝いている事等尚更だった。
傷が塞がったのは数秒後で、シエルは塞がったのを確認した途端に直哉にきつく抱き着いた。
それまではお姫様抱っこで抱き抱えられていたので節々が痛かったが、それよりも直哉が生きていた事の方が重大だ。血塗れの胸元に顔を埋めるのも躊躇いは無かった。
「良かった………ナオヤ、ナオヤ………」
「………小娘、俺様はダークサイドだぞ?それをやるならブライトサイドへだろうが」
「それでもっ!嬉しいのっ!」
「………」
涙声になりながら、胸元で涙を拭うかのように顔を擦り付けるシエル。そんな小動物に抱き締められているダークサイドは、得体の知れない温もりを感じていた。
ただの体温では無く、上手く言葉として言い表せない温もりだ。
《………何?これ》
ウィズにのみ通じる念話を通し、今現在感じている不思議な温もりの正体をウィズに訊ねた。
しかし、ウィズは直接答えるような事はしなかった。
『嫌か?』
ダークサイドは本来の直哉が持ち得ていた様々な感情が欠落している──その代わり、本来の直哉が持ち得ていない感情を持っているのだが──。その温もりも欠落した感情の一つだった。
それは直接教えるモノでは無い………先程も言ったのだが、〝人に聞く事〟では無いのだ。
それに気付かせようと言うウィズの心遣いが籠められていたが、当然ダークサイドは気付かない。
《………嫌じゃ無いね。寧ろずっと感じていたい………どうしたんだろ俺、疲れたのかな?》
──だが、その温もりが素直に口に出せる程大きなモノになっているのは確かだったようだ。
その変化を他ならぬダークサイドから聞けて、ウィズはにっと笑った。
『疲れてんのかもな。だったら早く片付けて休もうぜ?』
《おい!代われ代わるんだ!頼むから代わりやがってくださいませ!!》
《うん………って言いたいけど、ブライトサイドが煩いから一足先に休むとするよ》
『………』
ウィズの浮かべた笑顔が苦笑いへと転じるのと同時に、直哉の纏っていた禍々しい魔力が霧散した。背中に生成した漆黒の翼も霧のように消えたが、その代わりに現れた紫色の翼が二人を空に浮かべる。
直哉の纏う雰囲気の変化を感じ取り、シエルは顔を上げる。
そして、左目に紫色の六芒星が輝く直哉と目が合った。
「ナオヤ………」
「悪夢を見せちゃって悪かったな………そうでもしないと、あの化け物を騙せなかったんだ」
直哉が下に視線を向け、シエルもつられて下を見た。そこには瓦礫を美味しそうに咀嚼する化け物がいて、シエルは全てを一瞬で悟った。
しかし、されてばっかりなのも悔しかったので、ちょっとした意地悪を返しておいた。
「さっき、私………あれに食べられちゃったんだ………怖かったなぁ………」
「うっ………す、すまねぇ………」
申し訳無さそうな表情になった直哉の胸元に顔を押し付け、再び頬を擦り付ける。
しかし、それは直哉に止められた。
「ストップ!今はやっちゃ駄目だ、シエルが汚れちまうって!」
シエルの肩と膝に回していた手を身体から出来る限り離し、シエルを引き剥がした。
「さっき治癒魔術掛けてくれるまで血塗れだったんだ、今だって顔が真っ赤になってるぞ──」
直哉はそう言いつつシエルの顔を覗き込んで、そして固まった。
表情には驚愕が浮かんでいる。
「でもぉ~………って、どうしたの?」
そんな直哉に気付き、シエルは首を傾げた。
しかし、直哉は口をあんぐりと開いたまま微動だにしない。
シエルにとって気まずい沈黙が流れる中、脳内に飛び込んできた念話が沈黙を打ち砕く。
『まさか………マリーか?!』
《『?!』》
念話を飛ばしたのはウィズだが、普段からは想像も付かないような口調で、驚愕がありありと籠められていた。
二人はそんなウィズに驚き、シエルは首を斜め45度に固定した。
そして、シエルの異変とウィズの反応から事態の類推を図った直哉は、ある一つの結論を導き出した。
《………まさか──》
『そのまさかよ、ナオヤ君』
《『!!』》
しかし、その結論を述べる前に推測通りの結果が知れてしまった。
驚いたのは直哉とウィズの二人だ。
『マリー………!』
『久し振りです、アグネア様』
予め事の経緯を聞いていたシエルは大して驚かなかったが、直哉は完全に別だ。
聞き覚えの無い単語、シエルに起こった変化、そして念話コミュニケーションを取る新たな存在。混乱するには十分過ぎる程条件が揃っている。
『全くもう………勝手に神界を脱け出さないでくださいよ!』
『いや、だってな………つまらなかったんだ………』
『立場を弁えてくださぁぁぁい!』
『異世界で説教なんざ勘弁してくれぇぇ………』
まるで痴話喧嘩のような会話を受け流し、直哉はシエルの右目──自分と同じような六芒星の輝いている──を呆然と見つめた。
「………シエル、目………」
「え──」
「ガァァァアア!!」
しかし、目がどうかしたのかと聞き返す前に巨大なノイズに割り込まれてしまった。
慌てて振り向くと、瓦礫を咀嚼していた化け物が怒り狂っていた。
『ちっ………幻影が切れたか』
化け物は凄い勢いで周りを見渡し、空に浮かぶ直哉とシエルを見つけた。
「ガルァァァアアアアアアアア!!」
同時に、漆黒の球体を五発撃ち込む。
「うわっとと!」
それらを普通にかわし、シエルを左手のみで抱き締める。お返しにと魔力を練り上げて右手に雷球を生成、平べったくしてチャクラムを作り出した。
「電光の紫円!」
それを思い切り投擲する。
バチィッ!
「グォォァアアァァ!」
チャクラムは投擲した瞬間に化け物に直撃し、激しい放電を巻き起こした。その放電により空間が歪み、化け物から噴き出した体液は吸い込まれるように消滅した。
『………シエルの中から見てたけど、幾ら神が宿ってるとは言えど、ここまで魔術を使いこなすなんて………人間とは思えないわ』
ウィズが〝マリー〟と呼んだ存在が呆れた呟きを洩らすが、直哉はそれを聞こえなかったかのように受け流した。
そして、感電してふらふらしている化け物を睨み付ける。
「さっきは油断したが、もう大丈夫だ」
化け物も再び上を睨み上げ、鈍い歯軋りを鳴らす。
そんな化け物を睨みつつ、息を吸い込んで──
「覚悟しろ馬鹿野郎ぉぉぉぉ!!!!」
──雷神モードに突入した。
爪スライサーを喰らおうとしていたアリューゼが目覚めた時、目の前に無惨に食された筈のシエルを抱き締める直哉がいた。
直哉とシエルの両方に驚いたのだが、もう一つの理由があった事を覚えているだろうか。
「よ」
「何で、うわぁあぁあ!うわ、うわわわわ──」
「………眠らせたままのが良かったかな………」
目覚めたアリューゼは二人を見て、そして足元に目をやったのだ。そして、自分が浮いている事に悲鳴をあげたのである。
──アリューゼは極度の高所恐怖症だ。
要約すると、
①殺された筈のシエルが生きていた事
②地面に叩き付けられてた直哉が生きてて、且つシエルを救っていた事
③何故か自分が空のど真ん中に浮かんでいる事
に驚いたのだ。
そのまま慌てふためくアリューゼに溜め息を洩らし、直哉は魔力を練り上げた。
「はぁ………先に戻っててよ」
「うわわ──」
練り上げた魔力でアリューゼと騎士達を纏めてエアレイド王国へと転送した。
これで余計な被害を被る事も、集中を掻き乱される事も無くなった。
「………はぁ」
シエルと自分しかいない空で、直哉は大きな溜め息を惜し気も無く吐き出した。
──後日、「高いの怖い高いの怖い………」と震えながら呟くアリューゼは王宮を震撼させた。