霊峰
我々はかつて、かの世界最高峰である霊峰、エベレストに登頂した。世界で最も高い大地の上から眺める景色はこの世とは隔絶した美しいものだった。間違いなく私の人生最高の瞬間の一つであった。
事件が起こったのは登頂を果たしてから数か月たった時のことである。ともに登頂を成し遂げた登山隊のメンバーである友人のサイモンからメールが来ていた。
ーー拝啓親愛なる友人、急な用事だが落ち着いて聞いてほしい。ジョセフが亡くなった。そのことについて話したいんだーー
ジョセフはエベレスト登山隊の隊長である。彼とは旧知の仲であり、よく山について語ったものである。私はサイモンの呼び出しに従い、彼のもとに向かった。
「久しぶりだな、急に呼び出して悪かった」
「いやいいんだ、最近はやることもなかったし気にしないでくれサイモン」
久しぶりに友人であるサイモンと趣のあるカフェで待ち合わせた。彼は数か月前と比べて痩せており、その顔からは疲労の色が見えた。登山隊の中でも体格のいい彼にしては意外な姿に私は驚いた。
「さっそくだがジョセフが亡くなったことは前にも言ったよな。彼の亡くなる数日前まで俺は交流があったんだ。」
サイモンが真剣な面持ちで切り出した。
「ジョセフは日に日に衰弱していった。食事や体調が悪いって話は聞かなかったが、目に見えてやせ細っていったんだ。俺がどうしたのか聞いてもお前は関係ないの一点張りで会話にならなかったよ。」
私は隊長のここ数日の話を詳しく聞いた。サイモンが言うには健康的には問題がなかったらしい。病気で衰弱していったということではないようだ。
「じゃあなんでそこまで弱っていってしまったんだ?」
「そこなんだがジョセフと最後にあった日にある話をされたんだ。あのエベレストの話さ」
サイモンは少し焦ったような表情を浮かべながら続けた。
「ジョセフはエベレストを下山してから二日後に登山隊に同行していた医者に呼び出されたんだと言っていた。医者はやせこけた顔をしていたそうだ。医者は軽い錯乱状態に陥っており、挙動がおぼつかなかったらしい。」
医者というのは登山隊のメディカルケアを行っていた医療従事者のことである。私たちは彼を医者と呼んでいた。
「医者の野郎はエベレストの頂上であるものを見てしまったんだとさ。山登りなら知ってるだろ?ブロッケンの妖怪だよ」
「ブロッケンの妖怪?そんなの山ならよく見られる科学現象だろう。それがどうしたんだ」
サイモンは一呼吸おいてつぶやいた。
「そのブロッケンの妖怪がついてきちまったみたいなんだ。医者は山頂でブロッケンの影が動き、笑みを浮かべたように感じたらしい。それ以来、頭の中から虹の色彩が消えなくなったと隊長に相談していたんだ。」
私はエベレストの山頂での出来事を思い出した。登山隊のメンバーが成し遂げた景色に思いをはせる中、医者はなんだか不安な顔をしていたことを記憶している。
「そして医者は亡くなってしまった。それから隊長は眠るときに虹の光が自分を取り囲む夢を見るようになったんだってさ。日に日にその光景が起きている間にも見えるようになり、ノイローゼになってしまったんだと」
「おい、その話が本当だったら……」
「そうだ、次は俺の番ってわけだ。最近夢に虹の妖怪が出るんだ」
サイモンは見るからに弱っている。医者も隊長も同様の症状が出ていたことを考えると彼もいずれは……
「ていうかその話でいくと次の標的は私じゃないのか?厄介事を押し付けてくれたな」
「いやあ頼むよ、お前に移った時には俺は死んでいるはずだ。その前になんとかしたくてな」
私はしてやられたと思ったが、友人をこのまま見殺しにすることもできないので協力することにした。
「はあ……協力はするが、対抗策はあるのか?先の二人はなすすべがなかったように思えるんだが」
「そこは自分で実験した。夢に出てくる妖怪は俺を殺したいようなんだが、死期が近づくにつれて現実にも出てくるらしい。つい先日にやつが家の庭にいるのを見かけた。物理的に触れられるなら倒せるさ。」
そうだった。サイモンはばりばりの体育会系であった。だが他の対処法も思いつかないのでひとまずは彼の家で立ち向かうことにする。
ーーその日の夜、サイモンの家でブロッケンの妖怪を待ち構えた。彼の家は普通の一戸建てで二階に寝室がある。私たちは彼の寝室でバットやピッケル等、できる限りの準備をした。
ちょうど1時を回ったころ、サイモンが苦しみだした。頭を抱え、ぶつぶつと何かを話している。
「大丈夫か!?おい!どうした!?」
「……あ、ああ…虹が……外、に……」
「外だって?」
私が窓に目をやると先ほどとは打って変わってまばゆい光が差し込んでくる。それは七色に円形を形成してうごめき、その中央に人影が写っている。
ブロッケンの妖怪だ。私はすかさずピッケルを握りしめ庭に飛び出た。空は星の代わりに光の帯が走っている。庭の中央に2mほどもある人影がこちらを向いている。顔のような部分には二つの相貌が確認できる。
「お前が妖怪か、ピッケルで殴って効果があるのか……」
私は考えるよりも先にこの恐ろしい存在を排除しようと走り出した。足は震えているが一種の興奮状態に陥り、思考も単純化されている。私は妖怪に近づき、思い切りピッケルを振りかぶった。
その瞬間、私の顔を妖怪が覗き込んだ。宇宙の全てのような漆黒の影に脳が支配される。あらゆる情報が流れ込み、体を動かすことができない。なんだか幸福感が芽生え涙が止まらなくなる。
意識がもうろうとしている中で後方から声が聞こえる。
「……か…大…丈夫…か!」
サイモンは力を尽くして庭にはい出てきていた。目はあまりの光に焼けている。それでも声を振り絞った。
「やれ!振り絞れ!」
私は我に返ると目の前の影にピッケルを振り下ろした。影の胴体に深く突き刺さると、大きな断末魔とともに影は虹の輪とともに消え去った。
周囲は静寂に満ちている。私はサイモンの下に駆け寄った。彼は気絶しているようだ。しかしその顔は安らかである。
この事件から一週間後、私は病院にいた。サイモンの見舞いである。
「もう大丈夫なのか?あれ以来夢は見ていないんだな」
「ああ!もう大丈夫だ、体力もだいぶ戻ってきたよ」
彼はかつて見た健康的な姿に戻っていた。しかしあの時失った視力は戻っていない。彼はそこまで気にしているそぶりはないが、私は心配している。
私のもとにあの影が現れることはなかった。エベレストの頂上にはいったい何がいたのか。山に魅了されるもの、あるいはマロリーもその妖怪を見ていたかも、なんていう妄想をしている。私はこりずに次の登山計画を進めている。
筆を鍛えるために一気に書き上げています。これを短編にして垂れていくのでよろしくお願いします。