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――たしかに陰湿だ。それ。
――そして犯人はある日突然差し入れを打ち切った。なんだかんだと理由をつけて、まだ鶏は居るがもう肉はあげられない。捨てるのは血くらいだ、と。ならその血だけでももらえないか、と切り出したのは彼女の方からだったそうだ。空腹で夜も眠れないと頼み込んだらしい。もはや恥も伝聞も無い。彼女にはもうそれしか無かった。そうして思いのほか多い量の生き血を与えられたが、それもしばらくして打ち切られた。犯人が呪いの成立を確信したからだ。
――その女性は吸血鬼になったんですか?
――最初は他人の家畜を狙ったらしい。空腹ですっかり不眠になった彼女は夜の闇に乗じて獲物を探した。しかし家畜と言えども動物は動物。ろくに食べてもいない女に手際よく盗み出せるものでもなかった。食料を手に入れられなかった彼女はそのまま夜の片隅で行き倒れ、同じような盗人の男に拾われた。もちろん下心は明白だった。それでも彼女は神に感謝した。以前は毎週教会に通っていた程度には信心深かったらしいからな。思いがけず転がり込んできた大きな獲物が神の思し召しだと信じた。
――つまり、その時その女性は本当に吸血鬼に……?
――彼女にとっての牙は例の包丁だ。女であることを餌にすれば容易に男を狩ることができたから、包丁で一突きすればあとはいくらでも血を飲み放題だった。だがさすがに彼女も人肉までは口にしなかった。被害者から金品を奪うことで真っ当な食料を買うことができたからな。正気を失ったわけでもない彼女には嫌悪感が残っていたのさ。だがあの包丁を血に濡らすたび、彼女は食欲を刺激され血を飲んだ。その頃には血の味を覚えてしまっていたからな。一度習慣化した行為を繰り返すことにはためらいはなかったようだ。とは言え、それも長くは続かなかった。連続殺人を警戒していた夜警団に犯行現場を押さえられた彼女は魔女裁判に掛けられることになった。同様に、信者から吸血鬼を出した教会も糾弾され、たまたま町を訪れていた私に調査を依頼してきたのも一つの縁だったのだろうな。
――でも犯人はそこまでするくらいその人を恨んでたんですか?
――いいや。犯人は彼女の通っていた教会の商売敵だった新興宗教の指導者だった。やつはライバルである教会を蹴落とすために適当な関係者に目をつけただけだ。
――それじゃあ犯人はその女性を恨んですらいなかったってことじゃないですか。
――だから呪いの正体を見破るには人の悪意に敏感でなければいけないのさ。言い換えれば、その呪いによって誰が何を失うかを考えれば自ずと犯人像も見えてくる。吸血鬼事件の女は元々裕福ではなかったからな。実際に失ったものはそう多くない。だが彼女の通っていた教会は違う。信者が吸血鬼になったとなれば求心力を大きく失う。そこから絞り込んだ犯人像は呪いの解明に大きく貢献してくれた。私は事件当時の町に居合わせていたし、関係者も証拠もまだ生きていた。注意深く調べれば呪いの証拠を集めることはできた。
――よかった。先生はその女性を助けることができたんですね。
――どうだろうな。彼女を救ったのは結局彼女自身だったのかもしれん。
――え?
――真犯人は特定した。呪いの存在も証明し彼女を火刑台から下ろしもした。だが結局、彼女は自殺したよ。裁判では陰謀の被害者と認められたのに、血を求めてやまない衝動は残った。それから開放されるには自ら命を断つしかなかったのかもしれない。
――どうしてそんな……先生は呪いを解いたんじゃないんですか?
――解いたさ。だが吸血鬼の呪いの正体はさっき言った通り、小さな幻想を積み重ねて整えられた環境そのものだ。それを解いたところで吸血衝動が消えたりはしなかった。実際に習慣的に生き血を啜って身についた現実だからな。もはや包丁に仕掛けられたにおいの術式の有無は関係無かった。
――それなら羊面の呪いはどうなんです。母親の呪いを解いてもあの赤子は元に戻らないんですか?
――最初にも言ったが、私の見立てでは母親に掛けられたのは羊面の子供しか産めなくなる呪いだ。仕掛けられた術式をしらみつぶしにすればあるいは私の間違いが証明されるかもしれないが、おそらくあの子の顔はどうしようもないだろう。
――それでも可能性はあるんでしょう。やっぱり先生の魔力で手当り次第焼き切るわけにはいかないんですか?
――簡単に言うな。術式に外から力を加える時、それは代入された幻想だけを正確に狙い撃たなければいけない。まかり間違って元から存在する現実を攻撃してしまえばその反動がこちらを襲う。
――反動?
――そうだな。たとえば術式を一本の棒だとする。さっきの話で言うと(『水分』+『幻想としての冷却』)×『暴風』=『ブリザード』だが、この内『幻想としての冷却』と言う部分は人の手によるまやかしで、紙を丸めて作った弱い部分だ。一方で『水分』や『暴風』の二つは鉄のような現実の素材で作った強い部分だ。この棒を折るにはどこを狙うべきかは明白だな?
――もちろん代入された幻想である『冷却』の部分です。そこを叩けば術式という棒はバラバラになります。
――そう。呪いについても同じだ。この場合、それは牢檻のようなものだ。現実と幻想という強度の違う二種類の柱によって成り立っている。これを破壊するのに手当たり次第殴ってみろ、とお前は私に言っている。こんな可憐な乙女を掴まえていささか無体が過ぎるとは思わないのか?
――さぁ。自分で自分を可憐とか言うかわいげのない人にはちょうどいいんじゃないかと思いますけど。
――ふん。まったく本当にいい弟子を持ったよ、私は。涙が出る。
――だったらあの赤子を助けてあげてください。そうしてくれれば俺もちゃんとやりますよ。いい弟子っていうのを。
――口の減らないやつめ。親の顔が見てみたいものだ。
――鏡なら毎日見ているじゃないですか。誰に育てられたと思っているんです。責任を取ってください、責任を。
――ああもう。分かっている。顔を変えるのは難しいが、見た目のせいで受ける不利益を回避することならなんとかできるだろう。だからまずは呪いの術式を正確に解明する。お前も働け。他人任せは許さん。
――当たり前です。どうせ先生だって最初から助けるつもりだったんでしょう。手伝わせないなんて言ったらピーマン食べさせますよ?
その後、ほどなくしてこの事件は解決を見た。
パルメディアは犯人を突き止め、呪いを解除し、赤子の未来にも希望を取り戻した。
あの羊面は仕組まれた現実だが、やはり呪いという幻想に直接侵されているわけではなかった。
だから変えようのない事実というものの無情さを思い知ったし、それに魔術師がどう対抗するのかをパルメディアに教えられた事件だった。
この時の教訓は、今でも俺のなかに生きている。




