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図らずも温泉卿を発見した俺は、見張りが居ないのを確認したうえで慎重に距離を詰めた。
彼はぐったりとしていて、意識が、いや、そもそも命があるのか分からない。
それを確認するために近づいたのだが、ある程度の距離まで来たところで温泉卿に反応があった。
「んんー! んんー!」
助けてくれ、と言ったところだろうか。
俺の存在に気がついた温泉卿が顔を上げて唸っている。
だが色々とまずい。
あまり声を出されては猫族に気づかれてしまう。
そして何より温泉卿(大)が身じろぎするたび、絶妙な膝の曲がり具合によって隠れている温泉卿(小)がKONNITIWAしそうになっている。
その二重の恐怖に、俺は必死に身振り手振りで落ち着くように促す。
だが肝心の温泉卿は、なお激しく腰を左右に振ってアピールしてくる。
(やめろ。見える。そして見つかる。お前、本当に状況が分かっているのか?)
そんな俺の内心を余所に、神が運命のいたずらを仕掛ける。
十字架が、折れた。
温泉卿のシェイキングに耐えかねた木製の十字架は、その根本から音を立てて台座から分裂したのだ。
そして横倒しになった十字架は、最終的に温泉卿を仰向けに乗せたまま屋根の傾斜を滑り落ちてくる。
速い。
そう思わせるだけの滑走。
短距離で十分な助走をつけた十字架は、屋根の縁をジャンプ台にして大空へと飛翔した。
後方宙返り。
一回転。
二回転。
三回転。
芸術的な軌跡を描いた十字架が、真っ逆さまに地面に突き刺さる。
逆十字。
まるで天に中指を突き立てるような卑猥な倒立。
さすがの温泉卿もあまりの衝撃に気絶している。
あれだけ豪快に墜落すれば無理もない。
そして、こんな騒ぎが誰にも気づかれないわけも当然ない。
「ねずみが餌に掛かったぞ。周囲をくまなく探せ!」
どこからともなく上がる指示の声。
ついに俺の潜入もバレてしまった。
と言うよりは誘い出された格好だ。
猫族は温泉郷からの討伐隊を警戒して罠を張っていた。
温泉卿を餌にして待ち構えていたのだ。
こうなっては温泉卿の救出どころではない。
ここで下手に争えば人質を盾にされかねない。
俺は姿勢を低くして茂みの影を後退する。
ゆっくりと、気取られないように……
「見つけましたわよ。かくれんぼが得意なようですけれど、あまり猫族の嗅覚を舐めないでほしいですわね」
反射的に背後を振り向く。
そこに立ちはだかる美獣の姿が一つ。
気品ある佇まいの猫族の少女。
俺はその姿に目を疑った。
彼女は一周目でも散々戦った魔王軍の幹部の一人だ。
しかし初めて遭遇するのはもっと先のはず。
それがどうしてこんなところに居るのか。
「大物がかかると聞いていましたけれど、これはずいぶんと育ちがよさそうな殿方でしてね。こんな山奥には似合いませんことよ?」
聞いていた?
大物というのは領主であるエミールと俺を間違えているのか?
「……お互い様だ。君みたいな美人はこんなさびしい場所にはもったいない」
この期におよんではエルフの息づかいも意味が無い。
俺は通常の呼吸に戻して答えた。
「あら。うれしいことを言ってくださいますのね。けれど時間稼ぎだとしたら下手くそですわよ。目を見れば本気かどうかはわかりますもの」
「あいにく緊張しているんだ。君みたいな人を相手にどうすればいいのか分からないっていうのが本心だ」
「ふふ。それは嘘ではなさそうですわね。ただし、わたくしを女として見ているのか敵として見ているのかで言葉の意味も変わりますけれど」
だめだな。
俺の下手な世辞など完全に見透かされている。
「まぁ、いいですわ。たくし、貴方には聞きたいことがいろいろとありますの。素直に答えてくれれば良し。さもなくばまごころ込めて歓迎することになりますわ。ねぇ、みなさん?」
(囲まれたか)
俺はすでに包囲されている。
靄の向こうに光る目の数々と剣呑な気配がそれを証明している。
これを突破して離脱するのは不可能だろう。
そうなるとあとはレーンやプリニャンカがどうなっているのかが気がかりだが――
「にゃーっはっはっは。飛んで火に入る何とやらとはこのことにゃん。心配で様子を見に来てみればこのざまとは片腹痛いにゃん」
突然響き渡るプリニャンカの声。
一瞬助けを期待した俺だったが、その希望はあっさりと砕け散る。
「将軍。怪しいやつをもう一匹捕らえました」
現れたのは手足を縛られ棒に吊るされた姿で運ばれてきたプリニャンカの姿。
どうやら俺よりもさらにまずいことになっている。
「にゃはは。助けにきたつもりが助けて欲しいのはこっちの方にゃん。ヘルプミーにゃん。ギブミーチョコレートにゃん」
なるほどよくわからないが、これでやることは明確になった。
プリニャンカも捕まっている以上、俺が状況を打開しなければいけない。
「無事で何よりです、ご主人様。今なんとかしますから待っていてください」
「早くするにゃん。頭に血がのぼるにゃん」
なるほどプリニャンカは顔をまっかにして悶ている。
それだけ逆さ吊り苦しいのだろう。
できるだけ早く助けてやりたいのだが……
「貴方、あんな犬っころに仕えてますの。もうすこし主人を選んだ方がよろしいのではなくて?」
「いや。俺は別に……」
元々プリニャンカがご主人様になってしまったのは偶然だが、正直そんなに悪くはない。
と言うか、俺がご主人の場合であっても関係性はあまり変わらない気もする。
どちらが面倒を見るか的な意味で。
「なんにゃ。お前なんかに言われたくないにゃん。にゃんは犬族でも最強の戦士にゃん。お前なんかボコボコにしてやるにゃん」
「まったく、縛り上げられておいてよくもそんな減らず口が叩けますわね。貴方、最強どころかとんだポンコツでしてよ?」
「なんにゃとー。よくも言ったにゃん。こうなったらタイマンにゃん。さっさとこの縄を解くにゃん」
「解くわけありませんわ。負け犬はそこできゃんきゃん喚いていなさいな」
「――ッ」
売り言葉に買い言葉。
しかしそれもこの猫族の少女の方が一枚上手。
プリニャンカを放置した魔王軍の幹部は、あらためて俺に向き直ると値踏みするように視線を這わせてくる。
「では尋問ですわ。貴方、どうしてこんなところに来まして?」
それは少々、不可解な質問だった。




