2-35
「まいったな。だんだんと視界が悪くなってきた。そろそろ源泉が近いのか?」
草木をかき分け獣道を駆け上がる俺だったが、その行く手を真っ白な霞に阻まれていた。
においと雰囲気から察するに、これはおそらく源泉から漂ってくる湯気だろう。
まるで山岳で自然発生するような靄だ。
プリニャンカの後ろ姿はもう見えない。
俺は道に沿って先を急ぐしかなかった。
源泉には猫族が待ち受けているはずだ。
俺が遅れれば遅れるほどプリニャンカが危険になる。
その懸念していた俺だったが、突然現れた分かれ道に足を止めないわけにはいかなかった。
道は左右に一本ずつ。
それぞれが一層濃い霞の向こうへと続いている。
プリニャンカはどちらへ行ったのだろう。
足跡はどちらも形跡がある。
思いのほか踏み荒らされていて判断できない。
こうなれば迷っているだけ時間の無駄だ。
俺は直感で片方の道を選ぶ。
と、歩き出す前に俺は精神を統一して呼吸を整える。
自発的呼吸を止め、大気を風の流れのまま肺に取り込むエルフの息づかい。
その実行をもって己の存在を世界に溶かす。
これで少しは気配を消せるはずだ。
そろそろ猫族と遭遇してもおかしくない。
彼らは人間よりはるかに知覚能力に優れるからこれくらいの対策は必要だ。
そういう意味ではこの視界の悪さは逆に助かるとも言える。
上手く利用すれば猫族の裏をかけるかもしれない。
俺は周囲を警戒しつつ歩を進める。
今までのようには走らず、しかし速やかに先を急ぐ。
やがて切り立った崖の下に辿り着き、獣道はそこで終わっていた。
「行き止まり……いや。この向こうが源泉か?」
エミールの聞かせてくれたおとぎ話では炎の巨人は崖の向こうの秘密の場所で眠りについた。
だから目指すべき源泉は崖を越えた先にあるはず。
そう考えれば進むべき方向は間違っていないだろう。
あとはプリニャンカがこちらへ来たかどうかだが、残念ながら周囲にはその姿は無い。
あるいは彼女の身体能力なら崖くらい簡単に登ってしまうだろうからすでに向こう側に居るのかもしれない。
ならば進むべきだろう。
ここで迷っていても埒は開かないのだ。
問題はどうやって崖を越えるかだった。
さすがに俺にはこの岩肌をよじ登るのは無理だ。
かと言って空を飛べるわけでもないし、どこかに道はないものか。
俺がじっと様子をうかがっていると、ふいに大気が乱れた気がした。
普段なら気が付かなかっただろう。
しかし、エルフの呼吸を続けていたために、その些細な違和感に気づけたのだ。
俺は、すぐさま近くの茂みの影に身を隠して神経を研ぎ澄ませる。
するとその違和感の正体がすぐに現れた。
猫族。
二人の戦士が崖沿いを素早く駆けて来た。
二人は立ち止まると俺の居る方へ視線を固定して耳と鼻を引くつかせた。
「どうだ。何か感じるか?」
「いや。特には。お前はどうだ?」
「……たしかに音がしたと思ったんだが、気のせいだったみたいだな」
危なかった。
なんとかバレていないみたいだ。
「おい」
「ああ。行こう。上に戻るんだ」
二人は顔を見合わせて頷き合い、踵を返してもと来た方へ歩いて行く。
ちょうどいい。
このままついて行けば源泉まで案内してくれそうだ。
俺は気配を消したまま尾行を開始する。
つかず離れず、音を立てないように。
あたかも空気になったつもりで、だ。
それほど慎重にならざるを得なかったのは二人がほとんど会話をしないからだ。
喋っていてくれれば多少の物音くらいなら誤魔化せそうなものなのに、こうも淡々と歩かれては神経を使う。
とは言え、それ以外に難しいことは無かった。
俺は気取られることなく尾行を続け、やがて崖の切れ間のような場所へと辿り着いた。
風化によって自然に崩落したのだろう。
崖の一部が、土石流の跡のように斜面になっている。
その傾斜をより一層濃い靄が流れてくる。
当たりだ。
この先に間違いなく源泉がある。
そこには猫族の本隊がいるはずで、ここからはいよいよ敵の懐だ。
そのせいかひりついたものを感じながら俺は斜面を登る。
だがここで俺は猫族の二人から遅れてしまった。
崩れた岩の破片を踏んで音を出さないため慎重に歩を進めていたからだ。
まぁ、別にいい。
ここまで来れば道案内はもう必要無い。
音を聞かれないために距離を取ったと思っておこう。
それにしても、と。
登坂を続けながら、俺は周囲の地形に目を走らせた。
ここはかなりいやな感じだ。
具体的に言うと待ち伏せに適し過ぎている。
崩れた崖の斜面を登る侵入者を上から撃ち下ろすのに絶好のシチュエーションなのだ。
幸い猫族の戦士たちにはその考えが無かったようで、俺は多少もたつきながらも上まで登り切ることができた。
ここに警戒線を引かないとは、敵にはろくな指揮官が居ないのか。
もしかしたら小さな斥候部隊かもしれない。
猫族の戦士たちがなんのつもりでこんなところにあらわれたのか、それは皆目見当がつかないが、ともかく俺は炎の巨人が眠るという源泉のほとりへとたどり着いた。
なるほど、それは圧巻の光景だった。
崖の反対側には巨大な陥没穴が空いていて、遠い眼下に沸騰した水面がある。
水面近くは熱された水蒸気が冷やされ靄に変わる前だから思いのほかよく見える。
ルルド温泉郷の乳白色に濁った湯とは違い、ここの水質は思いのほか透き通っている。
しかし溶岩のようにグツグツと泡を立てているためにその底を見通すことはできない。
これが火山と無関係だとはにわかには信じがたい。
だが実際そうなのだろう。
火山にはほとんど木が生えないが、この源泉の周りには驚くほど自然な山林が広がっている。
溶岩や火山灰で覆われていてはこうも木々が根付くはずがない。
やはりこの山にはほかとは違う何かがあるのだ。
しかし、それをくわしく分析している余裕は無い。
この辺りには猫族の本隊が居るはず。
プリニャンカがどのルートで源泉を目指したにせよ、最終的には猫族たちのところに現れるだろう。
だからここまで来た以上、俺も猫族の本隊に近づいておくのが確実だ。
そう思って靄と木陰に紛れながら源泉の周囲を移動する。
わずかに何者かの気配を感じつつ進んでいた俺は、源泉の淵の近くに小屋を見つけた。
それは物置というより小さな礼拝堂のようなものだった。
おそらくあそこで温泉に感謝を捧げたりする宗教的な場所だろう。
その証拠に、礼拝堂の屋根の上には大きな十字架が立てられていて、今にも動き出しそうな男の彫像が磔刑に処されている。
というか彫像ではなく、温泉卿トリスタン・ピエール・ド・ルルドその人だった。
「あいつ、よりによってなんであんなことに……」
温泉卿は素っ裸で猿ぐつわをされて十字架に縛り付けられている。
猫族め。
なんておもしろいことを。
こんなの放っておけるわけがないではないか。




