セクション3
もともと『FCaT』さんはおとなしい性格で、友だちも多くはないらしい。
ある日の授業が図書館での自習になり、読書が好きな彼女はこっそりうれしく思っていた。ところが他の生徒たちは、ここぞとばかりにがやがや騒ぎだす。
辟易としてしまった彼女は、なるべく静かな場所へと移動する。そしてしまいには椅子を立ち、本棚の影にまで退避しなければならないほどに。
『FCaT』さんは性格のせいか、たまにイジワルにからかわれたりする。いじめ、とまではいかないと思っている。いやがらせ、というほどでもない。
たとえば、こそこそ話。それが自分のことを話しているのだと、なんとなくわかる。
気配は空気を伝う。
少し離れたところからでも届くのだ。
それはたぶん、たしかに自分に向けられた悪意だからで、目に見えなくとも感じてしまうのだろう。
ただそういったものは、指向性をもたなければ届くものではない。
そうでない悪意などは、その周辺に漂うものとなる。
たとえば悪だくらみ。あるいは背徳的な話題。忍ぶ性や、良からぬうわさ話。
それと。
――怖い話をしていると、なんとも言えない独特の空気に包まれることがある。
悪意ではない。それに近いわけでもない。
なのに。
それは届く。
漂うだけの空気なのに、いや、汚染され、感染するのかも知れない。
立ち並ぶ書架の奥。誰に読まれるとも知れぬ、褪せてやぶれた背表紙の、古い本の群れ。ほこりっぽい教室の隅。日差しから逃れるようにカーテンを引き、開いた窓からのぬるい風に揺れる。そこに群がる数人の女子生徒。
(……聞いた話なんだけど)
親しいわけでもない、同じクラスの子たち。その中心で、声をひそめて、ひっそり、うわさ好きのクラスメイトが、高揚を押し殺し。
(知ってる?)
誰も知らないことを見越して、わざとそうたずねるのだ。耳を澄ます少女たち。空気に侵された周囲も知らずに。
(夜中にピンポーンって鳴って)
(誰だろう、こんな時間に――)
(ドアをちょっと開けて見ると、真っ黒な――ぼろぼろの服を着たひとが立っていて)
(なにが入っているのかわからない――大きなリュックを背負ってて)
(一見、浮浪者みたいで)
(帽子で顔も見えなくて)
(だから男なのか女なのか、若いのか年寄りなのかも――)
(どなたですか、って聞くのね)
(すると)
……か、……るか?
(よく聞きとれない声で)
(男か女か、若いのか年寄りなのかもわからない声で)
(ぼそぼそと)
(え、なんですか――、って聞き返すんだけど)
……るか、あ……い、か。
(やっぱり聞きとれなくて)
(ただ、――いるか? ってのは聞こえたから)
(なにかの押し売りだと思って)
(眠かったし、時間も非常識だったし。なにより気味悪かったし)
(だから)
(いりません、って追い返したの)
(ドア閉めてしばらく、ずずず、ずずずず、てなにか引きずる音が遠ざかっていって)
(こっそり外をのぞくと、その怪しい影はいなくなってて)
(なんか嫌な気分で、その日は寝ちゃったんだけど)
(次の日の朝ね)
(目覚ましが鳴って)
(目がさめて)
(起きなきゃ、って体を起こそうとしたら)
(変なの)
(起きれないの)
(その人の手と足ね)
(――なくなってたんだって)
少女が残酷な笑みで、そっと息をつく。とりまく少女たちが、ぞっと身を寄せる。
(またある家に、ピンポーンって――)
(やっぱり、夜遅くてね)
(玄関あけたら、ぼろぼろの真っ黒な服を着た、やっぱり男か女か、若いのか年寄りなのかもわからないひとが立ってて)
(どなたですか、って聞くとね)
(やっぱり)
……るか、あ……いるか。
(て、言うのよ)
(ぼそぼそと)
(またその人も聞き返すんだけど)
……ぃるかぁ、あ……いるか。
(聞きとれないの)
(酔っぱらいかなにかだと思ってね)
(ああ、いるいる――って、適当に答えてあしらって)
(ドアを閉めたの)
(警察呼ぼうかと思ったけど、すぐに、ずずず、ずずずず、てなにかを引きずるような音が離れていって)
(あきらめて帰ったんだなと思って、その日は寝ることにしたの)
(そしたら翌朝)
(目が覚めるとね)
(そのひと)
(肩から、股から)
(おびただしい数の手と足が、びっしりと)
(びっしりと)
(生えていたそうよ)
あわれな少女たちは、息と悲鳴を飲み込む。話が終わるまで、空間を乱してはならぬとばかりに。そこは、語り部の結界の中なのだ。
(そのひと、思い出したのよ)
(ふと――あれ? ってなって)
(昨夜の浮浪者だか酔っ払いだか物売りだか知らないけど――)
(こう、聞こえたような気がして)
手ぇいるかぁ?
足いるかぁ?
桜色のくちびるから紡がれる美しい声は、呪いのように重く。毒を飲んだように痺れる。
手ぇいるかぁ?
足いるかぁ?
無邪気に微笑む少女。そこに本当に邪気はなかったのか。
(――ところで)
(これは三年の先輩に聞いたんだけど)
(先輩のところにも来たって言うのよね。ほら、陸上部の――さん)
どよめきたつ娘たち。共通の実在に、怪異は現実とリンクする。堪えられず悲鳴がもれる音を聞く。
(問題はね)
(いま、この近所にいるってことじゃない?)
いや、その先輩の姿は今朝見たはずだ。何事もなかった。見たかぎり、五体満足であったはずだ。
(そう、先輩はなんともなかった。なぜなら対処法を知っていたから)
(もし)
(もしもよ)
(もし、このなかの誰かの家に)
(今夜でも、夜遅くに誰かが訪ねてきて)
手ぇいるかぁ?
足いるかぁ?
(て、言われても)
(安心して)
(そしたら、こう答えるの――)
息をひそめ、声をひそめ、耳をすます。
(…………――――)
自習の終わりを告げる、チャイムの音。