癒えた傷
「おーい。どれだけ時間をかけてもいいとは言ったけど、ちゃんと彼女のことを考えてる?」
その呼びかけでハッと我に返った。
懐かしい家族の思い出にひたっている場合ではない。今の僕にそんな時間はない。
「この子は……誰なんだ……」
長くて綺麗な黒髪が似合う華奢な女の子だ。
僕の恋人……ということはないだろう。
家族のことを思い出していく過程で親族のことも思い出した。
しかし、この女の子の顔も姿も見た覚えがない。
親族全員が参列していたはずの祖父母の葬儀にも参列していなかった。
「いくら思い出そうとしても時間の無駄だよ。その子に関する全てを奪ったんだから」
言葉と表情に嫌味を込めてこちらに語りかけてくる。
「どれだけ時間をかけてもいいと言ったのはお前だろ。無駄な時間なんてないはずだ」
こちらも敵意をむき出しにして反論する。
しかし、心のどこかで怪人の言うことに納得してしまっていた。
いくら思い出す努力をしても見たことも会ったこともない人の名前を思い出せるわけがない。
なぜなら記憶がないのだから。
海を見たことがない人に海とはどんなものか答えられないのと同じだ。
「ごめん。少し触らせてもらうよ」
聞こえていないだろうが、先に謝っておく。
それからバーカウンターにうつ伏せで眠る女の子の髪を触らせてもらった。
長い黒髪はとてもしなやかなで、指が難なく通るほど柔らかい。普段から手入れしているのだろう。
「本人の体を触ることで記憶を探っているのかな? なるほど、おもしろいねぇ」
怪人が好奇心に満ちた目でこちらの行動を眺めている。
この女の子のことを知りたい。
どんなに小さなことでもどんな方法でもいいから知りたい。
そう考えたら行動に移していた。
彼女の体に直接触れれば記憶が得られないかと試してみた。
だが、しばらく髪を触ってみても何も得ることはできなかった。
彼女の髪から右手を離して隣の席に座った。
「ようやく座ってくれた。なにか飲む? それともあんたの本名を教えてくれる気になった?」
怪人がとても嬉しそうに話しかけてきた。
ふと女の子の方を見ると、バーカウンターに赤いものがついていることに気づいた。それは血である。
そういえばあの時、彼女は頭を強く打ちつけて額を傷つけてしまっていた。
カッとなって怪人を問いただすことに意識を向けすぎて忘れてしまっていた。
申し訳ないことをしたと反省しつつ、すぐに治療してあげようと彼女の頭をゆっくり動かす。
「え、どうして?」
額は傷一つない綺麗なものだった。
それなのにテーブルの上には血がついている。それを指でぬぐって鼻先に持ってくると血の匂いがした。けれど傷痕も残さずに額が治っていることも事実である。
「この女の子は何者だよ」
バーカウンターを枕にして眠り続ける女の子に対して言った。
だが当然、彼女からの返事はない。
「傷がつかないってなんだよ。不死身かよ」
いや、そんなことあるわけがないか。それこそ嘘みたいな話だ。
だがそう言った直後、女の子の体がほんの少しだけ動いたように見えた。
「今、動いた……?」
怪人や女の子に対してではなく、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
なんだ。どの言葉に反応した。
それがなにかわかれば彼女の名前も思い出せるかもしれない。
先ほどの言葉の中で名前にも聞こえそうなもの、それは……。
「ふじみ……?」
今度は動いたところを見逃さず、しっかりと両目でとらえた。
「ふじみ。この女の子の名前はふじみだ!」
僕は確信をもって告げる。彼女に関する記憶は
戻らないままだが、間違いないだろう。
先ほどよりも大きな声で告げたおかげか、女の子の反応も大きくなっていた。
「その子の苗字は?」
怪人は無表情で聞いてきた。
「苗字?」
僕もすぐに聞き返した。
「その子の名前はふじみ。それは正解。でも、それだけでは帰してあげない。苗字は?」
そうだ。勝負の勝利条件は彼女の名前を呼んで起こすことにある。
ため息をついて両手で頭を抱えた。
その時、右手と左手の感覚が違うことに気づいた。両手を前に持ってくると左手にハンカチが巻かれていた。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
だがここに来る時、ドアにぶつけて手を傷つけてしまったことは覚えている。
その応急処置として巻いたのだ。
けれど、この古いハンカチは誰の物だろう。僕はこんなハンカチを持ってきた覚えはない。
左手の状態が気になってハンカチを取ることにした。
不思議と痛みはない。それは指を包んでいたハンカチを取り払ってからも同じだった。
恐る恐る見ると指の爪は割れていない。それどころか、傷一つ見つけられない。
なぜ? どうして?
指を傷つけたのは記憶違いだった?
それとも記憶を奪われた?
いやそんなことはない。確かに指の爪が割れるほど傷つけてしまったし、そのことに関する記憶はしっかり残っている。
奪われたのはこの女の子に関する記憶だけだ。そして記憶がなくてもこれだけはわかる。
おそらくこの傷を治してくれたのは彼女だ。
それなのに、僕はこの子の名前が思い出せずにいる。
思い出せたのはふじみという名前と傷の治りが速いことくらいだ。
ああ、どうして本当に大事なことは思い出せないのだ。
「傷を治してくれてありがとう。ふじみさん」
苗字はまだわからない。それでも感謝の言葉は自然と出ていた。
「ん」
僕の呼びかけに反応してくれたのか、眠り続ける女の子が小さな声をあげた。
いくら意識がないとはいえ、固い机に顔をつけたままなのは辛いだろう。
そう思って額と机の間にハンカチを挟んであげることにした。
そういえばこれは、彼女の持ち物なのかな。
水色というよりも洗いすぎて青色があせてしまったような色だ。
ハンカチを広げて僕の血がついていないか確認する。片側は問題ない。
ひっくり返してもう片側を見てみる。
するとそこには、僕が求めていた答えがあった。