勝負
その直後、その子は糸が切れたようにバーカウンターへ崩れ落ちる。
手を付かなかったせいで頭を思い切り打ちつけた音がした。
眠気がピークに達したからとは思えない。
彼女は頭を強打したにもかかわらず微動だにしないのだから。
「おい、大丈夫か!?」
僕はすぐに体をゆすってみるが、起きる気配はない。
勢いよく打ちつけた頭が心配で持ち上げて見ると、額が切れて血が流れてしまっている。
それでも彼女のまぶたは閉じたままだ。
「なにをした!」
あふれ出る怒りを言葉に込めて放つ。
「なにもしていないよ?」
店主の顔は元に戻っていた。けれど、胡散くささは先ほどよりずっと増している。
「嘘をつくなよ。彼女になにをした! 言え!」
「へぇ。最初から疑いの目を向けてくると思っていたけれど、気づいていたんだねぇ」
「氷を買いに行っていたと言うくせに氷を持っていない。どこからともなく突然現れたと思ったら人の目では追えない速さで移動しただろ。それから彼女は、あんたの前で『0の扉』とは一言も口にしていない。それなのに、どうしてあんたは扉の特徴を知っているんだ!」
僕は一気に早口でまくしたてる。
「あはは。すごい。すごいよ。ただの人間のくせによく見破ることができたねぇ。あんたの名前も知りたくなってきたよ。ねぇ、あんたの名前、教えてくれるかい?」
また店主の顔が歪む。
だがそれは、笑う、という行為ではなかった。
化物が人間の真似をして笑っているように見せているだけだ。
見ているだけで吐き気がする。気持ちが悪い。
少女の姿でも、幼女の姿でも、中身は化物なのだから。
「人に名前を聞くならまずは自分から名乗れよ」
目を背けたくなるのをこらえ、目に力を込めてにらみつける。
「あたしは0番街の怪人さ。人間はあたしのことをそう呼んでいる」
嘘だ。
こいつは0番街の怪人ではない。
本物を見たことはないが、こいつは偽物だ。
「こっちが答えたんだから、あんたも名乗ってくれるよねぇ?」
ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら顔を覗きこんでくる。
かろうじて幼女の顔を保っているが、皮一枚めくってしまえば得体の知れないなにかが詰まっていると思うと吐き気が増す。
「答えたく……」
ないと言い切る直前、首筋に冷たいものが当たっていることに気がついた。
アイスピックだ。バーテンターが氷を割るために使う調理器具ということは、未成年者の僕でも知っている。
それが今、喉に突きつけられている。少しでも動けば血管を貫かれるだろう。
「あたしがわざわざ人間の礼儀に合わせてやったんだ。それを人間のあんたが破るのかい?」
怪人は目の前に立っているが、耳元で話しかけられているかのように錯覚する。
おそらく騙すことを得意とする化物だろう。
このまま黙っていてはダメだ。こいつの機嫌がさらに悪くなって刺される恐れがある。
「騙り部」
僕は表情一つ変えずに答える。
だが胸の内では苦々しい気持ちがわき起こっている。
「……今なんて言った?」
怪人の声に動揺が感じられた。だが、アイスピックは喉元に突きつけられたままだ。
下手な返答をすれば刺される。さもなければ、意識を持っていかれる。慎重かつ冷静に答える。
「騙り部。古津言語郎を開祖とする騙り部だよ。聞いたことないか?」
こいつが何百年、何千年生きているかわからない。
けれど、騙すことを得意とする化物なら、この屋号を知らない奴はいないはずだ。
「なんだ。あんた騙り部だったのかい?」
怪人がアイスピックを引いて尋ねてきた。
それを見てほんの一瞬安堵しかけたが、すぐに気を引き締める。
化物が人間の道具を使って脅している間はさほど怖くない。
それよりも自分の武器を使って脅かされる方がずっと怖い。
猛獣に銃や刃物を突きつけられるよりも、自前の爪や牙を見せられる方が怖いのと同じだ。
一度だけ大きく息を吸って吐く。
大丈夫。喉元に突きつけられているものが変わっただけだ。
「そうだ。僕は騙り部だ」
緊張していることを悟られないようにできるだけ落ち着いた声で話す。
「へぇ。騙り部は飯を食べている時と寝ている時以外は、べらべらとしゃべり続けるものだと思っていたよ。だけど、中には無口な奴もいるんだねぇ。あんた、本物の騙り部かい?」
「信用できない?」
「騙り部は嘘しか言わないから騙り部なんだろ。信用する方がおかしい」
怪人は疑っているわりに楽しそうな声で話している。
それにしても、嘘しか言わないから騙り部という言いまわしを知っていることに驚いた。
もしかしたら、騙り部の誰かと面識があるのかもしれない。それならあれが証拠になるかな。
大きく深呼吸してから頭の中に浮かんだ文章を整理する。数年ぶりだから少し緊張する。
けれど、物心ついた時から慣れ親しんでいる言葉だ。
だから、今でも一字一句違えずに述べられる。
「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門、ここにあり」
古くから伝わる騙り部一門の口上。初代騙り部、古津言語郎が考えたとされている。
身分証明になっていたのか、喉に突きつけられていた何かがようやく取り払われた。
それでもまだ安心はできない。
なぜならこいつの最大の武器は、嘘なのだから。
「この時代に本物の騙り部の口上を聞けるなんて思ってもみなかったよ。久しぶりに聞いたけど、やっぱり良いものだねぇ。耳から入って心に染み渡るように美しい響きだねぇ」
口からヘドロでも吐き出したのかと思うほど嘘の臭いがしている。
そして目を背けたくなるほどの嘘が見える。
ああ、だから僕は嘘が嫌いなのだ。特に人を傷つける嘘は大嫌いだ。
「こうしてまた騙り部と会えるなんて本当にうれしいよ」
嘘が転じて真実に変わった。
怪人は相変わらず楽しそうな声で話している。
けれどその顔は、笑っているはずなのに恐怖しか感じられなかった。
いつの時代の誰かは知らないが、いったいこいつになにをしたのだろう。
街全体を嘘で包み込み、名前を知っただけで一瞬にして意識を失わせる。
そんな強力な力を持った化物と騙り部にいったいどんな因縁があるというのか。
「一応言っておくけど、本物の騙り部ではない、なんて今さら言うんじゃないよ。たとえ嘘でも言うんじゃないよ。あたしを失望させないでおくれよ?」
「……安心していいよ。僕は嘘が嫌いなんだ。そんなつまらない嘘をつくわけがないだろ」
苦しまぎれにそう言うと、怪人は大きな口を開けて笑った。
幼女とは思えない野太い笑い声が店内に響き渡る。
ひとしきり笑った後、思い出したように昔話を語り始める。
「どれくらい前だったかねぇ。もうずっと昔のことだけど、騙り部を騙るバカがいた。自分は騙り部だと威張り散らしている奴だったよ。だからこうして本物に会えてよかった。いやあ、本当によかった。運命の巡り合わせに感謝だねぇ」
「一つ聞いていいかな。その騙り部の偽物はその後どうなったんだ?」
今すぐこの場から逃げたい気持ちをこらえて尋ねる。
「全て奪われたよ」
怪人はニタニタと笑って事実だけを告げる。
その意味を聞くのは愚問だろう。そんなつまらないことを聞いたら僕も一瞬で全て奪われかねない。
「ねぇ、あたしと勝負しないか?」
「勝負?」
「そう、勝負。あたしの質問に答えられたら、あんたもその子も帰っていいよ」
嘘には聞こえない。おそらく本当に帰してくれるだろう。
しかし……。
「もし、その質問に答えられなかったら?」
「その子からもあんたからも全て奪う」
「僕が勝負を受けないと言ったら?」
「あんただけ帰っていい。でも、その子は帰さない」
ニタニタと嫌な笑みを浮かべている。
勝負を断るわけにはいかない。しかし、すぐには受けられない。
こいつは騙り部と古い因縁があるらしい。再会の機会をずっと狙っていたというほどだ。
いつ時代の誰が何をやったのか知らないが、よほどの恨みを買ってしまったようだ。
そんな奴なら絶対に自分に有利な質問をしてくるに違いない。
そんな公平性の欠いた勝負に挑んでも無駄だ。
どうにかこちらにも勝ち目がある勝負になるよう交渉するんだ。
「質問はいくつ?」
「もちろん、一つだよ。考える時間はいくらでもあげるし、何度でも答える機会をあげよう」
考える時間と答える機会がいくらあっても勝ち目はまだ見えない。
「安心しなよ。質問の内容は先に教えてあげる。それを聞いて、勝負を受けるか受けないか決めればいい。まあ、どちらにしてもあんたは勝負を受けるしかないんだけどねぇ」
怪人がバーカウンターに眠っている女の子を一瞥する。それから質問内容を告げる。
「その女の子の名前を答えること。そして彼女を呼んで起こすことができたら帰してあげる」
「え? それが質問? 本当に?」
確認のためにもう一度聞くと、怪人はニヤニヤと笑ってうなずいた。
「わかった。勝負を受けよう」
怪人の気が変わらないうちにすぐ了承した。
「決まりだねぇ。さあ、勝負を始めようか」
覚悟は決めた。
あとは勇気を出すだけだ。
「その女の子の名前はなんだい?」
一切の嘘偽りなく、予告通りの質問が投げかけられる。
「その子の名前は……」
すぐに答えるはずだった。しかし、口を大きく開けたまま固まってしまう。
「どうした? 簡単な質問だろ? なにも悩む必要なんてないじゃないか。ほら、言っていいよ。さっさと言ってしまいなよ。早く言って楽になってしまえばいい」
幼女の姿をした怪人から耳障りな挑発が投げかけられる。
だがこいつの言う通りだ。
悩む必要のない簡単な質問だ。
ただ名前を答えればいいだけだ。
「彼女の……名前は……」