謎の店主
「おしゃれなバーか。そう言ってもらえてうれしいねぇ」
僕と西島はすぐに振り返る。
「ごめんごめん。驚かせちゃったねぇ。こんばんは、若いカップルさん」
その人は僕らの目の前に突然現れた。
店内は狭く、どこにも人が隠れるような場所はない。
出入りする場所も僕たちが入ってきた0の扉くらいしかなかったはず。
しかし、どこからともなく音もなく急に姿を現したのだ。
「こ、こんばんは。勝手に入ってすみません」
平静を装って答えるが、緊張のあまり声がうわずった。
「こんばんは。おじゃましています」
僕よりも西島の方がよほど冷静だ。
「店を留守にしてしまっていてごめんねぇ。氷を買いに行っていたんだよ」
その人は申し訳なさそうな笑みを浮かべて言った。
嘘だ。
その人の手には氷なんてない。バーカウンターの下に冷凍庫があり、そこに入れたのかもしれない。しかし、それならどこから入ってきた。改めて店内を見まわしてみても出入りできるところは0の扉しかない。
「あの、このお店について色々と聞かせていただけませんか?」
西島は嘘に気づいていない?
そもそも違和感すら覚えていない?
それどころか信じてしまっている?
この場にいてはいけない。
この人と話してはいけない。
今すぐ逃げなければいけない。
本能がそう訴えている。
「すみません。僕たち未成年なんです。ご迷惑になるからすぐに帰ります」
店を出ようとするが、また一瞬で僕らの目の前に現れた。
目にも止まらぬ速さで移動しているのか、一度姿を消してまた現れるかのような動きだ。
「気にしなくていいよ。今日は店の再開記念日だから特別。さあ、お好きな席にどうぞ」
バーの店主は優しく柔らかな物腰で席へ案内する。僕らは言われるがまま席に座ってしまった。
バーカウンターを挟んでその人が前に立つ。だが、頭のてっぺんしか見えていない。それから踏み台に乗ってようやく顔が見えた。
「いきなりこんなこと聞くのは失礼だと思いますが、年齢はおいくつですか?」
西島が聞き辛そうに口を開く。ちょうど僕も同じことを質問しようと思っていた。
「こんな見た目でもあんた達より年上だし、ちゃんと成人しているからねぇ」
こんな見た目というのは、その人が少女のような姿をしているからだ。いや、幼女と言い換えても違和感がない。
世間の汚れを知らなそうなほど澄んだ目、ふにふにと柔らかそうな肌、さらさらとした髪、透き通るほど白い歯が印象的だ。
この人がここで働く姿が想像できない。風景と容姿があまりにも不釣り合いすぎる。公園や遊園地で遊んでいる姿の方がまだしっくりくる。
その手の人には天使に見えるかもしれない。しかし僕には、得体の知れない不気味な存在にしか見えない。
「ここは、あなたが経営するバーですよね?」
「そうだよ。それ以外のなにに見えるっていうんだい?」
化物の住処、と言いかけてやめた。それは嘘にも冗談にもならないから。
「おっと、お客さんに何も出さないのは失礼だねぇ。何が飲みたい? なんでもあるよ」
「ありがとうございます。でも、僕たち未成年ですから」
「安心しなよ。アルコールや変なものを飲ませるつもりはないから」
この人と話をしているだけで胸がざわつく。言葉も態度も容姿も空気も全てが偽りのようだ。
鼻が曲がりそうなほど嘘くさい。
この店に入ってからずっと嫌な気分になっている。
まるで店に騙されているようだ。
いや違う。今日は0番街に足を踏み入れた時からおかしかった。
昨日までは酒とゲロと香水が入り混じったようなひどい臭いが漂っていた。
だが今日はそれ以上にひどい。街から嘘の臭いがするなんておかしいと思っていた。
その臭いの発生原因は、きっとこの店やこの人に関係があるはずだ。
「さっきから顔色が悪いけれど、大丈夫かい? 水でも飲んだ方がいいんじゃないか?」
天使のような優しい笑みを浮かべているが、悪魔のように不気味な気配を放っている。
「いいえ。お気遣いなく」
どんどん嘘が濃くなっていくように感じる。
目や鼻、肌に至るまで全身で痛いほど伝わってくる。
しっかり意識を保っていないと今にも倒れてしまいそうだ。
今の僕には口を開く体力も気力もないが、西島は大きく口を開いた。
「ここ最近0番街に遊びにきているのですが、ここにお店があることを知りませんでした」
「昨日までずっと閉めていたからねぇ。あんた達が見つけられなかったのも無理ないよ」
そういえば店主は今日が再開記念日と言っていた。
「おしゃれで落ち着いた雰囲気のお店ですよね。特にあの扉が素敵です」
彼女は0の形、楕円形のガラスがはめこまれた扉を指さす。
「ありがとう。あたしの一番のお気に入りだ。あんた達が酒を飲める年になったらまたおいで。一杯サービスするからさ。まあ、その時まで店を続けられていたらいいんだけどねぇ」
店主は急に悲しい表情をのぞかせる。見た目は幼女なのに色気のようなものを感じた。けれどそれもまた嘘くさい。
「0番街を訪れる客はどんどん減っているらしいですね」
気分の悪さをこらえながら僕も話の輪に加わる。
「昔は鉄道会社の男たちがたくさん遊びに来てくれたけど、最近は顔も見せてくれなくなったねぇ。まあ、あたしも年を取ったからねぇ。こんなおばさんとは飲みたくないか」
「もしかして、お店を閉めていたのは0番街の怪人と何か関係がありますか?」
西島が真剣な表情で尋ねる。とうとう本題を切り出した。
「0番街の怪人?」
「0時0分0秒ちょうどに0番街に現れるという怪人です。突然どこからともなく現れて、人間をさらっていってしまうのです。一時期、この街で何人もの人が行方不明になったという話を聞いたことはありませんか? そして怪人が現れる時、必ず扉が現れると聞いています。その扉とはこのお店の扉のことではありませんか? そしてあなたは……」
「0番街の怪人だと……そう言いたいのかな?」
西島と店主の間に流れる空気が一瞬にして変わった。
それが気分の悪さを一気に吹き飛ばしてくれた。
このまま二人のやりとりを傍観しているわけにはいかない。
「連れが失礼なことを聞いてしまってすみません。僕たちはそろそろ帰りますから」
席から立ち上がって西島を連れ出そうとするが、彼女はピクリとも動こうとしない。
店主も表情一つ変えずに立っている。二人は真剣な目つきで視線を合わせたままだ。
「答えてください。あなたは0番街の怪人ですか?」
「最近の女子高生は、おもしろいことを聞くんだねぇ」
「私はまじめに聞いています」
「あたしもまじめに答えてるよ」
「それなら」
「あたしはこのバーの店主だよ」
「0番街の怪人ではないのですか?」
「あはは。違うよ。怪人なんているわけがないだろ」
西島の顔色が次第に曇っていく一方で、店主はどんどん上機嫌になっていく。
「でも、人が行方不明になったこととお店を閉めていた理由が関係ないわけではないよ?」
「本当ですか? 詳しく聞かせてください」
「悲しいことに行方不明者の多くは、ここの常連客だったんだよ」
店主は昔を思い出すように話す。
「あの頃は毎日のように警察官がこの店にやってきたよ。行方不明になったという人の写真を見せられて、この人を知らないか、この人との関係は、他にいっしょに来ていた人はいないのか、って嫌になるほど質問されたよ。あいつら営業時間なんてお構いなしでやってくるからねぇ。そのせいで楽しくお酒を飲みに来た人たちがどんどん寄りつかなくなったねぇ」
「それって営業妨害ではありませんか?」
西島が店主を同情するように言う。
「仕方ないよ。あいつらにとってはそれが仕事だから」
店主は諦めたような口調で話を続ける。
「警察官が来るようになって周りの店からも苦情がくるようになった。ここは歓楽街だから。綺麗な商売よりも汚い商売をしている奴らの方が多い。そんな奴らにとっては警察なんて来てほしくないに決まっているからねぇ」
「同じ場所で商売をしているなら、助け合うことはできないのですか?」
「あんたは優しくていい子だねぇ。でもここには、救いの手を差し伸べる優しい人はいないんだ」
西島は身を乗り出して話を聞いている。
「そのうちあたしも疲れちゃったんだ。店を開けても来るのは事情聴取に来る警察官や不満を言いに来る商売人ばかり。いつの間にか酒を飲みに来る客は一人もいなくなっていたよ」
「そうだったのですか。私、事情も知らないのに……すみませんでした」
西島はイスに座ったまま頭を深く下げた。
「謝らなくていいよ。しばらく休んでいたら警察からの連絡もなくなったし、周りの店からの苦情もなくなった。それで、そろそろお店を再開しようと思って準備を進めていたんだ。そして今日、久しぶりにお店を開いたら本物のお客さんが来てくれたんだ。本当にうれしいよ」
店主は満面の笑みを浮かべて僕らを見てくる。
「なにも注文していないので本物のお客さんと呼ばれると恐縮してしまいます。だけど、私もうれしいです。こうして再開記念日の最初のお客さんになることができて光栄です」
「それにしても、0番街の怪人ねぇ。そんな奴がいたなんて知らなかったよ。あたしの常連客をさらっていったのもそいつなのかな。だとしたらムカツクねぇ。それに、そいつが現れる時に『0の扉』が出てくるって? うちの扉のデザインを勝手にパクるんじゃないよ!」
店主は怒っているように話しているが、実際はとても楽しそうだ。
全身に嘘を塗りつけたような人間なら今までも見たことがある。そういった奴の大半は詐欺師で、そうでなくても悪人だから気をつけろと父親から教えられた。
だがこの人は、そういった奴らとは次元が違う。
まるで『嘘』を人間の形に整えて作られたような存在だ。
姿を見ているだけで、話を聞いているだけで、どんどん嘘をつかれているようで不快になる。
「そうだ。あんた達の名前を聞いてもいいかな?」
店主が唐突に尋ねてきた。
いったい、どういう意図があるのだろう。
「言っただろ。成人してからもう一度来てくれた時、サービスしてあげたいってさ」
ダメだ。
絶対に答えてはいけない。
「すみません。僕たちは失礼します」
そう告げると、それ以上話をしないために席から立ち上がる。
「私は西島ふじみです」
まだイスに座っていた西島が自分の名前を告げてしまう。
「西島ふじみ。綺麗でとてもいい名前だ」
「そうですか? 綺麗な名前ではないと思いますけど」
「そんなことないよ。いい。実にいいよ。奪ってしまいたくなるほどいいよ」
その瞬間、店主が顔全体を歪ませるように笑った。
気持ち悪い。
怖い。
恐ろしい。
おぞましい。
そんな言葉では形容できない顔をしている。
「西島ふじみ」
店主が不気味な顔のまま名前を呼んだ。