思い出
僕がまだこの家に住んでいた頃、突然西島ふじみとその両親はやってきた。
その時のことは今でもよく覚えている。
彼女は虚ろな目と沈んだ顔をしていたから。
西島の両親と僕の父が家でなにやら話している時、彼女はふらふらと庭にやってきた。
今日のようにもみじの木に手をまわして遊んでいた。
その頃の僕は騙り部という屋号をえらく気に入り、人を驚かせたり笑わせたりするのが大好きだった。
そこで木の裏側にこっそりまわって同じように両手をまわす。
それから西島の両手を思い切りつかんだ。きっと驚いて逃げるだろうと思った。
だが彼女は悲鳴もなにもあげずにその場に留まっている。
不思議に思ったので無言で立ちつくす彼女に尋ねた。
「ねぇ、なんで驚かないの? どうして逃げないの? 怖くないの?」
「化物だから」
西島は表情を一切変えずにサラッと言う。不思議な女の子だと思った。
それからひと月に何度か西島とその両親はここに来るようになった。両親は父と話し、彼女は僕といっしょに家の中で遊んだり秋葉山を探検したりした。いつも表情を変えず、ほとんど無言で、おもしろいのか楽しいのかわからない。西島は家で遊ぶより、山を探検するより、もみじの木の下で話すのが好きだということはわかった。もっとも、話すのは僕ばかりだったが。
そんなある日、庭で遊んでいる時に彼女は木の枝で手の指を切ってしまう。
傷口が深くて赤い血が流れていく。
慌てた僕はすぐに親を呼んでこようとしたが、彼女は冷静に答えた。
「大丈夫。どんなに傷ついても死ねないの。だって私は不死身の化物だから」
そのうち血は止まり、傷口も少しずつふさがっていき、最終的には元通りに治ってしまった。
僕が驚いていると西島がまた口を開いた。
「ねぇ、【かたりべ】ってなあに?」
自分からこんなに話すなんて珍しいと思ったが、僕は祖父や父、親戚から教えてもらった話をおもしろおかしく聞かせてあげた。
西島は特に秋葉山に住んでいた化物との騙し合いの話に興味を示した。
そこで、他にもいろいろな化物がいることを教えると少しうらやましそうな顔になった。
「いいなぁ」
僕の耳にとても感情のこもった声が届く。
騙り部になりたいのかと聞くと首を横に振られた。
それならどういう意味か聞いてみると彼女は答えにくそうに話す。
「ずっと昔の化物なのに、今もこうしてお話の中で生き続けているからいいなぁって」
「だけど、君も化物なんでしょ? 不死身の化物ならずっと生き続けられるんじゃない?」
その時の僕は何も考えず、軽い気持ちで言ってしまっていた。
西島はひどく寂しそうな表情を見せながら話す。
「ねぇ、あなたは私のことが怖くないの?」
その問いになんと答えたのか、しっかり覚えている。
それが悲劇の発端になったのだから。
もみじの大木の下に二人で腰かけ肩を並べて話し合う。
気温は下がっているけれど、隣にいる西島のおかげであまり寒さは感じられない。
そのかわり、流れている空気はとても重い。
「あの時、僕は嘘をついた。騙り部一門に古くから伝わる家宝、奇跡を起こす本【奇本】。それを使えば君の不死性をなくすことができて普通の人間になれると嘘をついた」
だが本当は家宝なんてない。
【奇本】というのは僕が今までに見聞きしたり考えたりした物語を書きためたノートで、いわば子どもの落書き帳のようなものだ。
それでも僕と西島は絶対に奇跡を起こせると信じて、それを箱に入れてもみじの木の下に埋めたのだ。けれど、実際に奇跡が起きることはなかった。
当然だ。【奇本】に奇跡を起こせる力なんてないのだから。
西島が僕の部屋に初めて入ってきた時に探していた本とは、【奇本】のことだろう。まだ地中に埋められていると知った時はホッとしていたのかもしれない。まだ奇跡が起きていないけれど、これから奇跡が起きるかもしれないと期待したかもしれない。
「君に嘘をついて希望を持たせるようなことを言ってごめん」
「いいえ」
こちらの謝罪はすぐに否定されてしまう。それでも僕は同じことを続ける。
「僕は君に不死身のふじみという名前を付けた。奇跡が起こらず、君が人間になれず、化物として生き続けることになった時のために。僕が騙り部として君のことを騙り継ぐと決めたから。不死身のふじみという化物のことをみんなに知ってもらうために」
騙り部一門には騙り継ぐ風習がある。
秋葉山にこんな化物がいた、秋葉一族に仕えていた、といった騙り部にまつわることを全て後世に伝えるためだ。情報は一門の間で共有され、皆が同じように騙られるようにしておく。
そうすれば、誰かが亡くなってもまた別の人が騙り継いでくれる。
そして騙り部が亡くなったとき、それもまた次の世代、そのまた次の世代へ騙り継がれる。
騙り部の命は尽きても騙り部一門の命は尽きることがない。
どれほどの時が経っても騙られ続けるだろう。
「化物と恐れられることを嫌がっていたのに化物なんて言ってごめん」
「いいえ」
もみじの木の下で肩を寄せ合って話しているが、楽しい雰囲気は一切ない。
それどころか気まずい空気が流れている。
今すぐ土下座でも何でもしたいが、西島はそれを許してくれない。
いっしょに奇本を埋め、不死身のふじみとして騙り継ぐと誓ったあの日以降、西島とその両親は来なくなった。
そのことについて父親に聞こうとは思わなかった。今思うと西島の両親は彼女の不死性について知るために訪れていたのだろう。
だが、何度来ても原因や対処法はわからず、別のところを頼ることにしたのではないか。
西島が同じ秋葉市内に住んでいることは知っていたが、住所は知らないので会えなかった。学区が違うので小学校も中学校も別だ。
それでも僕は不死身のふじみという化物を奇本で人間にしてみせると周りに騙っていた。家族や親戚は応援すると言ってくれた。
しかし学校で言ったのは間違いだった。友達には嘘つき呼ばわりされていじめられ、教師には大人になれと言われた。通知表にも『嘘をつく傾向がある』と書かれた。
それを見た両親は、騙り部として立派に成長している、と大笑いしていた。とても嬉しかったけれど、それ以上に恥ずかしくて感謝の言葉は言えなかった。
高校の入学式で西島の姿を見つけた時は喜んだ。同じクラスだと知ってさらに嬉しく思った。
だが傷の治りが異様に速く、周りから化物ではないかと恐れられていると知った。
そこで、奇本による奇跡は起こらなかったと再認識する。
僕が嘘をついたから変な期待を持たせてしまった。そのせいで西島は傷つき悲しんだ。そう思った。
「騙り部がつくのは人を幸せにする嘘。人を不幸にする嘘ではない。騙り部として絶対に守らなければいけない規則を破ったんだ。だから僕は……」
騙り部失格。そう思った。
それから僕は嘘が嫌いだと嘘をつき、騙り部にはならないと嘘をつくようになる。
それでもまだ奇跡が起きることを期待して時折ここに来て、もみじの木の下に埋めた奇本を拝んでいた。それが彼女への罪滅ぼしになるとは思っていない。
「入学式であなたを見つけたとき、すぐに騙り部さんだと気づきました。同じクラスだからすぐに話しかけようと思いました。でも、あなたが嘘は嫌いだと言っているところを聞いて悲しくなりました。もう騙り部さんは奇本のことも不死身のふじみとして騙り継ぐという話も忘れてしまったのだと思っていました。あの時は……本当に悲しかったです」
やはり僕は……騙り部失格だ。
謝っても謝りきれない。
「でも、すぐに気づきました。騙り部さんは自分に嘘をついていると。本当は今でも嘘が好きで、騙り部になりたいと思っていると気がついたのです」
「え……?」
「一年生の頃から教室で本を読んでいましたよね。学校の図書室で本を借りていることも多いですし、お部屋の本棚にはたくさんの本がありました。嘘が嫌いだという人が嘘で作られた物語を読むでしょうか。それからパソコンで小説を書いていますよね。嘘をつくのが嫌いな方が物語を書くでしょうか。お義父さんもお義母さんも気づいていますよ?」
まさか、そんな……。全部バレていたなんて……。
「千と一夜を明かしてみれども騙り尽くせぬこの世の嘘なら騙ってみせよう命尽きるまで。
舌先三寸、口八丁手八丁、この世に騙れぬものはない。騙り部一門、ここにあり」
驚きを隠せない僕をさらに驚かせる言葉が西島の口から紡がれる。
幼い頃、僕が彼女に聞かせた騙り部一門の口上。
今でも一字一句間違えずに言えるとは思わなかった。
それについては驚くよりも嬉しいと感じてしまう。
「……まだ覚えていたんだね」
「はい。あなたが教えてくれたことですから。忘れるわけがありません」
西島は真剣な表情で僕を見つめて答えてくれる。その言葉に一切の嘘は感じられない。
だが今の僕にはそれが辛い。彼女の顔を直視することができない。嘘をつかれて辛いことは何度もあったが、真実を言われて辛いと感じたのは初めてだ。
「嘘しか言わない騙り部の言うことを簡単に信じたらダメだよ。だからもう……」
どうして僕の言うことを信じられる?
どうしてそんなに僕のことを信じられる?
人を傷つけ悲しませる嘘をついた、騙り部失格なのに。
僕には騙る資格なんてない。
だからもう、僕の言葉には耳を貸さないでほしい。
信じないでほしい。
「あなたの嘘は優しい嘘です。あなたの嘘ならなんでも信じます。素直で正直で優しいあなたがつく嘘が何度も私を救ってくれました。だから私にとって騙り部はあなただけです」
「違う。僕は……騙り部じゃない。ただの嘘つきだ」
「ただの化物だった私に不死身のふじみという名前をくださってありがとうございます」
「違う」
「人に恐れられ傷つけられるだけの私を騙り継ぐと約束してくれてありがとうございます」
「違う」
「奇本を使って奇跡を起こすと約束してくれてありがとうございます」
「それも……違う」
なぜなら奇跡は起きなかったから。
そもそもあんなものに奇跡を起こせる力はないのだ。
「奇跡はまだ起きていないだけかもしれません。これから奇跡が起きるかもしれませんよ?」
そんな都合よく奇跡が起きるわけ……。
いや待てよ。起こらないなら起こしてしまえばいい。
たとえ嘘でも起こしてしまえば本物になるのではないか。
可能性がゼロでないのなら……。
「西島さん。さっき僕の嘘ならなんでも信じると言ってくれたよね? それは本当?」
ようやく僕は顔をあげる。
彼女は真剣な表情だが、優しい目で見つめてくれていた。
「はい。本当です。私があなたに嘘をついたことが一度でもありますか?」
「嘘泣きされたことならあるよね」
「…………記憶にございません」
思い切り顔を背けてごまかされだが、その仕草があまりにかわいくて笑ってしまった。




