はじまりはじまり
「どうか私を殺してください」
目の前に立つ女の子は頭を深々と下げた。同時に、彼女の長い黒髪もだらりと下がる。
そのまま首も落ちてしまうのではないかと錯覚したが、頭はあるべき場所にしっかりと収まっている。
「今、なんて言った?」
僕は嘘が嫌いだ。
しかし、できればそれは嘘であってほしいと思って尋ねる。
「どうか私を殺してください」
女の子は頭を下げたまま、先ほどと一字一句違わない言葉を口にした。
思わず顔をしかめる。答えがわかっていたのに無駄な質問をしてしまった。
「顔を上げてくれる?」
「……」
「顔を上げてください」
「……」
僕は一度だけ大きなため息をつく。それからゆっくりと大きな声で彼女の名を呼ぶ。
「西島さん!」
彼女の体が微かに動いた。しかし、顔は上げてくれない。
このままでは一向に話が進まない。学園の中でも人気のない場所とはいえ、こんなところを誰かに見られたら……。
「どうか私を殺してください」
また同じ言葉。それはまさしく殺害依頼。
とはいえ僕は殺し屋でも殺人鬼でもない。
ただの高校生だ。
なにか不思議な力を持っているわけでもなければ罪を犯しても許される特別な存在でもない。
痛みも苦しみもなく人をあの世に送ることはできないし、どんな理由があっても人を殺せば警察に逮捕されてしまう。それに、たとえ大金を積んで頼まれても人殺しなんてしない。絶対にしない。
「どうして僕にそんなことを頼むんだよ……」
「ご迷惑というのは理解しています。申し訳ありません」
「なら、この話は聞かなかったことにしていいかな」
「だけど、あなたにしか頼めないんです。あなたでなければダメなんです。あなたが殺してくれるなら、もう思い残すことはありません。だから、どうか私を殺してください」
大人しそうな見た目に反して彼女の意志はとてつもなく固いようだ。
どうやら僕の言葉では全く歯が立たないらしい。
「人を殺すのは犯罪だ。そんなことできるわけないだろ!」
知らず知らずのうちに怒りが頂点に達したのか、語気を強めて言ってしまった。
だが謝る気はない。そもそもふざけたことを頼んでくるあちらが悪いのだ。
このまま話を続けても意味がないと思って彼女に背を向ける。
「大丈夫ですよ。私を殺しても罪には問われませんから」
西島が不可解なことを言い出した。
これ以上付き合っていられないと言うつもりで振り返った。
だが視線の先には、さらに不可解な光景が広がっていた。
彼女は鋭い刃のついたカッターナイフを握りしめているのだから。
「え……?」
状況をすぐに理解できず、間の抜けた声が口から漏れた。
どこから取り出した。
というか、どうしてそんなものを持っているんだ。
西島は右手を高く上げてから勢いよく振り下ろす。カッターナイフの鋭い刃が左手に突き刺さった。彼女は苦悶の表情を浮かべると同時に小さな悲鳴をあげ、左手から真っ赤な血が流れる。
なにが起こっているのか理解が追いつかず、僕はその場に立ちつくす。それから血が地面に落ちていくところでようやく冷静さを取り戻した。
「なにしてんだ! そんなことしたら死ぬぞ!」
慌てて駆け寄ると、すぐに左手を強く握って止血してやる。それでも血はあふれ続ける。彼女が着ている黒いセーラー服や朱色のスカーフにも少し付いてしまった。血がにじんだスカーフは異様に黒ずんで見える。
「大丈夫です。私は死にません。いえ、死ねないのです」
「この状況でなに言ってるんだ。だったら君の左手から流れ続ける赤い液体はなんだよ」
西島がカッターナイフを離して僕の右手に触れる。
そのまま優しく握られ、止血していた彼女の左手からそっと離される。
「見てください。もう血は止まりましたから」
そんなことあるわけない、と思いつつ見ると、本当に止まっていた。
それどころか刃物を刺した傷跡がどこにも見当たらない。
刺したのは手のひらでなく手の甲かと思って裏返す。だが、そこにも傷はない。
指の一本一本も自分の手で触ったり握ったりして確認する。だが、どこを探しても見つけることができなかった。夢でも見ているのかと思ったけれど、僕の手や彼女の制服には血がついている。
だからこれは現実の出来事だ。
しかし、いったいなにがどうなっているのか。
「すみません。少し、くすぐったい、です」
「あ、ごめん。でも、どうして……?」
「私は化物です。どんなに傷ついても死ねない、不死身の化物ですから」
悲しいことに、その言葉に嘘はなかった。
「だから、どうか私を殺してください――騙り部さん」




