【短編】カタブツ男子に、甘々恋愛小説を音読解説させたいド近眼女子
「そ、それで、男がその女のことを好きだと言ったんだ」
「男って?」
「あいつだ、なんでもかんでも”面白い”って言うやつだ」
「”俺の女になれ”の人?」
「そいつだ。お前、いい加減、登場人物の名前覚えろよ」
「むずかしい」
「台詞は覚えてるじゃねえか」
「むずかしい」
「はあ~~。なあ、やっぱり、文章そのまま読むんじゃだめか?」
「酒郷君の言葉で聞きたいんだよ。ダメ?」
「……。続き、行くぞ」
「ありがと!」
+ + +
私、家入 理子は、自分の目の悪さに日々、辟易としていた。
私の家は、ごく普通の一般家庭だ。
父は、大きくも小さくもない会社の一般営業職で、母は美人でも不美人でもなくちょっとだけふくよかで、週に三回、近所のスーパーでレジ打ちパートをしている。
間取り大き目の賃貸マンションの一室に家族で住んでおり、父、母、高校二年の私と、中学三年の生意気な弟の四人暮らしだ。
私も、弟も、勉強は得意でも不得意でもなく、テスト勉強すれば平均より良い点は取れるかなという程度。
運動は二人とも少しだけ苦手。
たぶん、父も母もそんなに得意ではない。
弟なんかは、家族で唯一身長も高いのに、運動音痴気味なのは同じなのだから、遺伝というのは恐ろしい。
そんな、どこにでもいそうな私たち家族の共通点は、家族全員がひどい近視だということだ。
家入家の近眼は筋金入りで、先祖代々、由緒正しい近眼一家だ。
父の兄も、祖父母も、母方の従妹の大学生のお姉ちゃんもみんなひどい近眼だ。
家の中には、眼鏡と眼鏡ケースや眼鏡拭き、コンタクト用品、果ては、父が新聞を読むのに使うルーペまで、各種様々な近眼グッズが揃っている。
母が思い出したように買ってくる眼鏡クリーナーや、曇り止めクリームは、特に誰に使われるでもなく、洗面所の一角を占めている。
私も、眼鏡が無ければテーブルの向かいに座る人物の表情も見えなくなるほど、目が悪い。
輪郭すらぼんやりだ。
色しかわからない。
私は、普段学校に行く時は、母と買いに行った眼鏡をかけている。
念のため、予備の眼鏡をカバンに入れて持ち歩くよう言われているので、私の通学カバンには、常に眼鏡ケースがふたつ入っていることになる。
友達とのお出かけ用にワンデーのコンタクトも買ってもらっているが、あまり日常使いしてはいない。
今日も、制服に着替えて通学カバンを持った私は、靴紐を結んだあと、すっかり堂に入ってしまっている動作で眼鏡を持ち上げ据え直すと、学校へ向かう。
世の中の近眼ではない人は、少し勘違いをしていると思う。
近視は近くの物がよく見え、遠視は遠くの物がよく見えるのだろう、と。
それは誤りだ。
近視は『近くない物が見えない』のであって、近くの物だからといって、それが人より”よく”見えるわけではないのだ。
普通だ。
近くだけが普通に見える。
そして、ド近眼といえる私にとってその”近く”の範囲は、鼻先に触れるほどの近さのみを指すのである。
普通に授業を受け(席は最前列で固定だ)、普通に友達とお昼を食べ、普通に放課後になって帰ろうとした時。
靴箱のある玄関ホールへ向かって、教室のある三階から階段を下りている最中のことだった。
今日は、友達と、一度帰ってからカラオケに行こうという話をしていた私は、普段よりも足取りが急いていたと思う。
ポケットに入れたスマホが”ブブッ”と短く、メッセージの着信を告げたことにも気を取られていた。
踊り場で、手すりを掴んでターンを決め、階段を下りながら着信したメッセージの概要だけでも見ようなんて、気もそぞろだった私は、階段を上がってきている男子生徒に気づかなかったのだ。
「うわ」
「あ!」
ドッと。
踊り場をぐるりと回った瞬間、同じく、手すり沿いに上がってきていた大きな体にぶつかった。
相手の胸のあたりだろうそこに、顔からぶつかり、バウンドするように後ろにのけぞる。
眼鏡ごと思い切り顔をぶつけ、かなり痛い。
ぶつかった衝撃で、掴んでいた手すりから手を離してしまったのは、私に運動神経がないせいだろう。
階段下に落ちることだけは避けたかったため、後ろ向きに尻もちをつくことを覚悟するが、私の腕がグンっと掴まれたことで、私の体は急制動することになった。
バキ
靴越し、足の裏に、嫌な感触があった。
踏んだ。
華奢で、硬くて、そして時に脆い”それ”を、私は踏んだ。
それが何かなんて、私には簡単に想像がついた。
眼鏡だ。
私の生命線、その眼鏡だ。
私は、ぶつかった男子生徒に腕を掴まれたまま仰け反り、その姿勢のままで少しの間、呆然とした。
他に見ている人がいたなら、まるでフィギアスケートのペアが踊り切った姿にも見えただろう。
拍手喝采がないのは、観客がいなかったからか、私のポーズが見るに堪えない滑稽な恰好だったためか。
「大丈夫か?」
男子生徒から、心配げな声がかけられた。
おそらく、私が転ばないよう腕を掴むことで支えてくれている男子生徒は、心配してくれているはずだ。
それが”おそらく”なのは、顔はおろか、全体的に黒くて学ラン姿なのかなーという程度しか、わからないからだ。
眼鏡のない私の視力をなめてはいけない。
なんの自慢にもならないが。
あと私の視力でもわかるのは、男子生徒がデカいこと。
私は身長が一四〇センチメートルしかなく、小柄なほうだが、彼は一八〇センチメートル以上はありそうで大柄な体格だ。
私のほうが階段上にいるというのに、彼のほうが上から引っ張ってくれているこの状況は、なんだか納得いかない。
「大、丈夫」
答えながら、私のほうからも彼の腕に掴まり、そっと、そっと足を持ち上げる。
カチャッ、カチャリ、と、明らかに複数に離れ離れになってしまった音がしている。
私が立ったのを確認した彼は、私と同じく踊り場のフロアまで登ってきて、それでも様子を見てくれている。
その場から動かない男子生徒をさておいて、私はしゃがみこんで足元を探った。
ぼやっとしか見えないので、眼鏡の落ちていそうなあたりを、さわさわと手を動かし探る。
おしゃれぶって深い茶のフレームを選ぶんじゃなかった、踊り場は板張りになっていて茶色は保護色だ。
私の視力では輪郭すらつかめない。
これが蛍光ピンクのフレームなら、どこにあるかすぐ分かっただろうに。
蛍光ピンクの眼鏡をかけるのは、自分のキャラ的に遠慮したいけど。
「あー、これだな。すまん」
男子生徒の黒い袖の腕が伸びてくるのが分かった。
眼鏡を拾い上げてくれたらしい。
私は立ち上がった。
カバンに予備の眼鏡が入っていることに気づいたからだ。
そそくさと、肩にかけたカバンから手探りで眼鏡ケースを取り出し、かける。
踊り場まで上がってきている男子生徒は、本当に背が高い。
私の頭のてっぺんは、彼の肩にも届いていないだろう。
責任は折半と言いたいところだが、私の前方不注意とスピード出しすぎが原因なのは明らかだ。
申し訳なさそうな彼に応えようと、予備眼鏡をかけた顔を上げ、口を開く。
「拾ってくれてありがとう。君のせいじゃないから大丈……」
私は、言葉を言い切ることができなかった。
予備の眼鏡をかけ、見上げた彼の姿が、あまりにも好みど真ん中だったからだ。
大きな体。
広い肩幅に厚そうな胸板。
短く整えられた黒髪は精悍で、男らしい顔立ちを際立たせていた。
キリリとした目元に高い鼻、肉感のない唇。
男らしく大きな体なのに顔立ちは涼しげで、凛とした雰囲気を感じた。
ズキュンなんて可愛いものじゃない。
ドゴン、だ。
私は、はっきり自覚する恋なんて生まれて十六年と少し、したことなかった。
まさに今、好みのタイプが確立した。
「?」
彼は、私が言葉につまって彼を見上げているのを、不思議そうに待ってくれている。
私は、一度はかけた眼鏡を外すと、カバンへしまった。
「眼鏡がないと困る。家まで送って」
「今、かけていたのは」
「なんのこと」
「いや、眼鏡」
「なんのこと」
もう、眼鏡を外してしまったのでぼんやりとしか見えないが、彼が困惑しているのが分かる。
私、恋をすると強引になるタイプだったんだなと、自分の新たな一面を垣間見ていた。
それから、強引に家まで送ってもらい、連絡先を交換し(操作もやってもらった)、彼の個人情報を手に入れた私は、彼にせっせと迫って迫って迫りまくった。
迷惑も顧みず(ちょっとだけ空気を読みつつ)、嫌がられないギリギリを責めていたと思う。
彼は、隣のクラスで、酒郷 成十朗という名前だった。
もう、名前からして格好いい。
武士か?
私たちの高校は、学校指定の上履きに赤・青・緑のラインが入っていて、私の学年と同じ赤のシューズである彼が同じ学年だということは分かっていた。
見上げるほど高い身長の彼は、体格も大きく、聞けばご両親が柔道をやっていて、彼も幼いころから習っているらしい。
強い。格好いい。
クラスが隣だったのは幸運で、私は休み時間になると彼の元へ飛んでいき、彼に色々と話しかけた。
彼は、突撃してくる私の扱いに困り、戸惑っているようだったが、決して邪見にはしなかった。
武道をやっている彼は礼儀正しく、友人も多い。
そんな彼の友人たちも気のいい人ばかりだ。
休み時間の度に毎度やってくる私を、彼の友人たちは面白がり、ありがたいことに話の輪に積極的に入れてくれた。
彼のことを色々と教えてもらううち、彼が活字を読むのを苦手にしていることを知った。
史実を扱った歴史物や教科書の参考書なんかはむしろ好きな部類らしいが、詩や恋愛小説などの内容は、目が滑って内容が全く入ってこないらしい。
「面白いのに! せっかく目が良いのにもったいないよ」
私が言うと、彼も、彼の友人たちもキョトンとした。
そして、彼、酒郷君が言ったのだ。
「なんだ? 目が悪いと小説って読めないのか?」
彼が、私に興味を持った!
それまで、私があれこれとする質問に答えてくれるだけだった彼のほうから話しかけてくれたことが嬉しくて、私のテンションは急上昇だ。
「そう! そうなの!」
私は、背の高い彼に、ぴょんぴょんと飛び跳ねなんとか視界に入る努力をしながら、勢い込んで話す。
そして、私は、近眼の苦しみを臨場感たっぷりに語って聞かせた。
目が悪ければ、ピントを合わせるのに苦労する。
度の強い眼鏡をしたまま本を読めば、たった一時間やそこらでもかなり疲れるし、かといって裸眼では、行を追うのも大変なのだ。
私は、視力が急激に悪化した中学卒業あたりから、それまで大好きだった『ラブキュン』のシリーズすら追えなくなった。
そして、私が『ラブキュン』の良さにまで言及し始めた時だった。
「じゃあさ、サカちゃんが読んで、聞かせてあげたらいいじゃん」
彼の友人(名前は覚えてない)の一人が、そう提案してきた。
友人は、「俺、天才じゃね?」と得意げだ。
他の友人たちも「あーたしかに」「理にはかなってるか」と肯定的だ。
「おいヒロキ、なんで俺が」
「サカちゃんは苦手克服できるし、リコちゃんはその好きな『ラブキュン』読めて二人ともハッピーじゃん」
そして、友人ヒロキ氏は、私に目線をやると、意味深に口角を引き上げ、悪い笑みをした。
ヒロキ氏! いいやつじゃん!
私は、心強い味方を得て、彼に読み聞かせしてもらえるチャンスを手にしたのだった。
ていうか、友人方は、私の恋を応援してくれてるんだな。
ありがてえ。
名前どころか人数も曖昧なのに、なんだか申し訳なくなってきたから、今度からあだ名くらいは覚える努力をしよう。
+ + +
「これ! この小説なの」
「なんで読めないのに持ってんだ」
「気になっちゃう? 気になっちゃう感じ?」
「ニヤニヤすんな」
もう、たわいないやり取りが楽しすぎる。
今日は、授業終わりにファーストフード店に二人で来ている。
そう、二人。
酒郷君と二人きりだ。
店内めっちゃうるさいけど、もうなんでもいい。
放課後デートだ。
私は、家から持ってきた『ラブキュン』全八巻を、入れてきた袋ごと彼の前に置く。
彼は、その中から一冊取り出し、表紙を見て怪訝そうにしてから、パラパラと中身をめくり出した。
読んでいるのか、どうなのか。
彼のページをめくる速さは、彼の恋愛小説への興味のなさがそのまま現れているようだった。
「……悪いけど、読んで聞かすのめっちゃ恥ずかしそうな内容なんだが」
「ふふふ」
「何笑ってんだよ」
私は楽しくて仕方ない。
「じゃあ、じゃあさー、読み上げなくていいから、ちょっと読んで、その度にどんな展開になったのか教えてよ」
「そんなんで楽しめんのかよ」
「だいじょーーぶ」
「だから何笑ってんだよ」
彼は、いじられてるのが嫌なのか、私を疑わし気に見て、ちょっと嫌そうだ。
みんなと一緒の時より、彼が素に近いように見えて、嫌がられているのに楽しくなってきた。
私の愛情はちょっと、倒錯しているかもしれない。
ちょっとだけね!
文句を言う彼をなだめすかし、私と彼の『ラブキュン苦手克服会』は、彼がラブキュンを数ページ読み、そこで起きたことを私に教えてくれる形式を取ることになった。
流れでこうなったものの、この形式は思った以上の結果をもたらした。
彼は、思った以上に口下手で、恋愛小説の説明をとにかく胡乱に遠回しにしようとするのだ。
「あー、だからだな、男と女がぶつかって、その、ぶつかったんだ」
「ぶつかったんだ。 どこがぶつかったの?」
今読んでいるのは、一巻だ。
私が読めなくなったのは五巻を読み終わったあとからだから、一巻は読んだことがある。
それも何度も読み返したので、内容は頭に入っている。
けれど、彼にも読んでもらって、叶う事ならラブキュンにハマってほしかった私は、内容を忘れたことにして一巻から読んでもらうことにしたのだ。
今彼が説明しようとしているシーンは、主人公のミナコが、転校生のケントと曲がり角でぶつかり、あわや唇が触れ合いそうになるドキドキシーンだ。
私にどこがぶつかったんだと聞かれ、彼は黙ってしまった。
ラブキュン読み始めからしばらく、どんどん表情の険しくなった彼は、今では立派な仏頂面で恋愛小説を広げている。
確認のために読み返しているのか、言葉にできずに誤魔化そうとしているのか、彼は私がいじわるな問いを投げるたびに、ラブキュンを彼の顔の目の前に近づけ広げる。
座高もずっと低い私からは、本からはみ出した口がきつく引き結ばれているのがよく見える。
そして、意を決したように本から顔を出した彼の耳は、必ず赤くなっている。
「ほ、ほっぺだ」
だめだ、可愛い。
可愛すぎる。
私、かなり性癖が歪んでいるようだ。
「んふふふふふふふ」
「気持ち悪い笑い方やめろ」
「んふ、んふふ」
「止めれてないぞ」
彼は、そうしてその日、律儀にも一巻の終わりまで付き合ってくれた。
最後まで読んでも彼は顔を赤くしていて、とんでもなく可愛かった。
私は完全に目覚めてしまった。
+ + +
「サカちゃん、どうだった、デート」
「うるせえ」
「なんで、なんで。俺のおかげでデートできたんでしょ~」
「はいはい、あんがとな」
「どうだった、恋愛小説音読会は」
「……」
「えっなに、なに!? なんでそんな顔赤いの!?」
「なんでもない」
「なんでもなくないでしょーが! え、めっちゃ赤い、なになに!? 教えてよ」
「……」
カタブツ男子と、ド近眼女子の恋路の行方は。
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