29 閑話 アダチ
コロシアムに立つアダチは、マスクを外していた。
いつも通りの闘技場。いつもと違うのは、エキシビジョンマッチだということ。
「……イコマはんを殺したくはないんです」
顔をゆがめてそう言った。
「せやけど、こうして挑むなら、叩き潰さなあかん。
二度目や。チャンピオンとして、二度目は息の根止めなあかん」
レスラーのマスクを装着して、アダチは冷たい殺意を纏う。
対面のイコマもメイド服のプリムをつけて、準備万端だ。
「……いっこ聞いてええですか? なんでメイド服?」
「いや、正装なんで……」
「そ、そうでっか……」
――まあ、ひとそれぞれやしな。うん。
通常、専属の使用人は男性であれば執事服を選ぶ。
わざわざ露出の多いメイド服を、わざわざ女装して着こなすあたり、そういう趣味なのだろう。
『エキシビジョンマッチ、開始じゃ。さっさと終わらせい』
観客は多いが、明らかに盛り上がりに欠けている。
一度、はっきりと明暗分かれた相手だからだろう。ユウギリもつまらなさそうにあくびをしている。
ユウギリは舐めているが、アダチはイコマのことを決して軽んじていない。
むしろ、冷静な判断と狂気的な言動が入り混じった、予測不可能な男だと捉えている。
――油断は禁物!
だからこそ、アダチは最速で終わらせようと思った。
アダチにしては珍しく、自分から打って出たのだ。こぶしを握り締め、プロレスで培った技術をフルに生かしたステップで接近する。
地球が壊れる前は、マスクをかぶったヒールレスラーだった。
●
アダチの娘が病に倒れたのは、離婚してからだ。
妻は不倫をしていて、親権はレスラーとして稼いだ金で弁護士団を雇い、もぎ取った。
自分のなにが不満だったのか、裁判の中でいやというほど聞かされた。
ヒールとは程遠い私生活。真面目な仕事人間。
そんなヒトだとは思わなかった――。
破天荒なのはリングの上だけ。
それが悪いとは思わない。そういう仕事で、そういう役割だ。
だが、そういう仕事も、そういう役割も、派手好きの妻には伝わらなかったらしい。
振り返ってみれば、なぜ結婚したのかさえ、思い出せない。
好きだったはずなのに、面倒な思い出とひどい言葉だけが浮かんでは消えていく。
タマコの親権を奪い、ひどい癌だと判明したあとも、アダチはがむしゃらに働いた。
莫大な治療費を支払うために、プライドを捨ててバラエティのテレビ番組にも出まくった。
とにかく金が必要だった。
すでに余命宣告されるほどの状態で、世界でも先進的だとされる、保険の利かない治療法も取り入れたからだ。
娘は、そんな自分に呆れたようにこう言ったものだ。
「忙しいんやから、無理して病院来やんでええねんで」
それでも毎日、仕事終わりや仕事前に病院に向かって、たわいない話をした。
今日はどんな検査を受けた、今日はどんなテレビを見た、通信教育ではなにを習った――。
「パパの試合、見たで。カッコええやんか」
何気なく放たれた言葉に、泣いてしまったことをおぼえている。
号泣した。嬉しくて、誇らしくて、そして悲しかった。
なぜタマコが。どうしてなんの罪もないこの子が。
病に侵されなければならないのか。
ナースにドン引きされるくらい泣いて、また明日から必死に働こうと思った。
しかし、翌日に地球が壊れた。
病院という施設は頑丈で、耐震基準もしっかりしていたから、天変地異自体は耐えきった。
地震も津波も大嵐も耐えて、けれど、大阪市内であったことが災いした。
竜の襲来。混乱のさなか、アダチは這う這うの体で病院に辿り着き、タマコを抱えて逃げた。
大阪市外、山間部の高校に避難できたのは、不幸中の幸いだったが、それでも不幸には違いなかった。
治療が止まった以上、余命を先延ばしにできない。
むしろ、押しとどめていた癌の進行が、堰き止めていたダムが決壊するかのように、猛烈な勢いを取り戻してしまった。
それでも二年間を生き延びたのは、タマコ本人の意志の強さだろう。
ぎりぎりのところで、生き延び続けた。
アダチの住んでいた高校集落は貧しかったため、タマコを養い続けるのは難しかったが、それでも二年を生き延びて、ユウギリが目覚めた。
最悪な状況で、しかし、僥倖だった。
闘技場で勝てば、タマコを救える。
二年前かぶっていたマスクは捨てて、新たに布を張り合わせてマスクを作った。
悪役ではなく、ホンモノの悪になる必要があった。
勝てば勝つほどに、専属メイドに指名した娘との会話は減っていった。
かまわない。
誇りは捨てた。涙も。あのときの感情も。
かまわない。
がむしゃらに勝ち進み、時には殺した。
エキシビジョンマッチと称して、若い女性を惨殺したこともある。
武器を割り、服を剝いで、全身の骨を砕いてやった。
ひとを殺すときは、いつだって震えていた。殺したくなんかなかった。
ただ、必要だったのだ。そうしなければ、ユウギリが満足しないと思ったから。
気の良い若者をいけにえに捧げて、娘を竜にして、アダチの仕事は終わった。
娘に嫌われても、生きていてくれさえすればいい。
だが、エキシビジョンマッチがセッティングされた。
何者かが、ユウギリに再試合させる価値があると提言したらしい。
もう、やめてほしかった。
エキシビジョンマッチだ。人々が見たいのは、チャンピオンによる殺戮ショーだ。
マスクを脱いで入場したのは、ただのアダチとして若者に向き合いたかったから。
それでも結局、アダチは悪のマスクをかぶった。
かぶって、いやというほど実感する。
もはや、こうしてマスクをかぶって闘技場に立つ自分も、まぎれもなく自分なのだ。
ホンモノの悪としての自分を、否定したりはしない。
だって、そうでなければタマコを救えなかったのだから。
●
アダチのスキルは『タフネス強化:A』ひとつだけだが、自前の技術はプロ以上だと自負している。
リングとは広さが違うし、禁止行為も存在しない。
あえて言えば、ユウギリが指定した武器以外は持ち込めないことか。
闘技場の土を目潰し代わりに投げる剣闘士もいたが、逆にいえばこの円内には土くらいしか利用できるものはない。
真正面から戦うしかない状況であれば、アダチは無類の強さを誇る。
対するイコマもまた、接近戦を選択していた。
遠距離攻撃を主体とする男が、薙刀を捨て、口を拭うような仕草をしながら吶喊してきたのだ。
『なんじゃ、やけくそか。つまらんのう』
ユウギリの発言に、アダチは眉をひそめた。
――策があるんか?
間違いなく、なにかがある。やけっぱちではないだろう。
イコマはそういう男だ。少なくとも、アダチはそう思った。
――やとしても、その策ごと踏みつぶすだけや!
組み合いならば、自前の技術を持つアダチのほうが有利だ。
自前の技術までは『複製』できないのは確認済み。武器として手足を振るえば、アダチのタフネスがカウンターで破壊する。
どんな策でも、勝利は揺るがない。
コロシアムの中央。
顔を突き合わせるほどの距離で、アダチの右手がメイド服の薄い肩布を掴んだ。
ぬるっと滑った。
「……えっ?」
手が、布を掴み損ねた。
バランスを崩し、倒れそうになった体を支えるために、アダチは右足を大きく踏み出した。
ぬるっと滑った。
「ぬ、おお……っ!?」
股を大きく広げた体勢で、アダチはコロシアムの地面に転がった。
受け身を取ろうと、とっさに手を突っ張る。
ぬるっと滑った。
「なん……ッ!?」
べちゃり、と地面にぶつかる。
いや、それは構わない。アダチのタフネスからすれば、受け身など取る必要がない――いつも癖で動いてしまうが。
だが、異常事態だ。
この感覚は、過去に一度だけ経験があった。
レスラー軍団の一員として、覆面をしたまま、スポーツ系バラエティ番組に出たときのことだ。
お笑い芸人とガチ勝負という名目だったが、それではレスラー軍団の勝ちが揺るがない。
だから、ある条件が追加された。
そのときと、同じ。
「……ローションレスリング!?」
気づけばイコマを中心にして、謎の粘液が周囲に広がっている。
――『粘液魔法』か!
おもしろスキルだと思って考慮していなかったが、イコマは応用してきた。
プロレスかつ、素手というアダチのファイトスタイルにあわせて。
「……くっ」
立ち上がろうとするアダチに、ローションの影響をまるで感じさせない動きで、イコマが手のひらをぶち当てた。
破壊されない。攻撃ではない。
だが、触れられた右手が重くなる。
固める前のコンクリのような泥が、アダチの右腕に絡みついていた。
――なんや、コレ!?
想定外だ。あるはずのないものが、この闘技場内で発生している。
肉体と薙刀。それ以外の得物がある。環境が、いつもと違いすぎる。
この闘技場に泥なんてないはずだ。あるのは、土とネオンの灯りだけ。
そのはずなのに。
加えて、イコマの動きが鋭い。相手もローション塗れなはずなのに、バランスを崩すことなく地面を踏みしめ、泥を握りしめた両手で高速の連打を放ってくる。
痛みはないが、打撃のたびに泥が手足を重くする。
「ど、どういうこっちゃ! なんでイコマはんは、そないに動けるんや!?」
「毎日、ナナちゃんと粘液塗れになっていたので慣れているんですよ!」
「毎日ずっと特訓しとったんか!?」
「はい! 毎晩ヤってました! たまに昼過ぎまで!」
「昼過ぎまでか!」
「すみませんうそつきました! ―― 一回、夕方まで!」
「熱心やな!」
あれほどの技量と経験を持つ薙刀使いを相手に、ローションレスリングのスパーを毎日繰り返していたのか。
ならば、これだけ動き回れるのにも納得がいく。
「ローションを使ったプレイに関して、僕とナナちゃんはすでに一流と言っていいでしょう!」
――プレイ?
言い方にちょっと違和感はあるが、ともあれローションレスリングの経験はイコマに一日の長がある。
だが、もうひとつ謎がある。
「この泥は――なんや!? なんで、ワテの『タフネス強化:A』で破壊できへんのや!?」
ぶつけられた泥玉が、砕けないのだ。
なんで僕は「男二人がローションでくんずほぐれつしている状況」なんて書こうなんて思ったんでしょうか。
だれか教えてください。




