26 傷舐め
エモエモシーンなので普段の倍くらいの文章量があります。
チャンピオンに負ける気はさらさらなかった。
僕は勝つつもりだった――ただし。
負ける気はなかったけれど、負けた場合のことを考えていなかったわけではない。
リスクヘッジは当然。
具体的には。
「お兄さんよりも上の序列に私を置いておけば、私がお兄さんを奴隷として専属指名しても不自然じゃない――対応策がハマって、よかったね」
そういうこと。
もっとも、もしかするとユウギリに不許可を出される可能性もあるかと思っていたんだけれど、
「ナナちゃんが『ずっとイコマのことをめちゃくちゃにしたかった』って、迫真の演技で言ってくれたおかげだよ。
ユウギリも見事に騙されちゃってたね」
「えへへ。
そりゃまあ、騙してないからね。
私はいつだって本気で……じゃないや、うんそう、演技演技」
……。うん。
深く掘り下げないでおこうと思うけれど、満面の笑みで僕の太ももに頭を乗せて膝枕を堪能しながら、僕のミニスカの下まで指を入れて肌をさわさわしてくるナナちゃんの姿こそが答えな気もする。
おいこら、やめろ。おさわり可の店じゃないんだぞ。
「いやー、ユウギリの領域内ではちゃんと奴隷として扱わないとね!!
だからこうして触っているだけで、これもまた演技なんだよね!」
「名演技だね、ナナちゃん」
「でしょ?
ていうか、脱毛直後の男の肌って、一周回ってなんかエロいんだね。
すべすべなんだけど、粗さが残っているっていうか……見た目は美少女なんだけど、触るとやっぱり硬さを感じるっていうか。
ギャップでご主人様を誘惑するとは、マコはわるいメイドだね」
「どう見ても悪いのはナナちゃん側だけどね」
「ぐへへ」
「笑い方!」
ともあれ。
ベッドに腰かけて、ナナちゃんの頭の重みを太ももに感じつつ――嘆息する。
そんな僕を、ナナちゃんがじぃっと見つめて、言った。
「タマコちゃんも相当だけど……負けず劣らずいろいろ限界だね、お兄さん」
「あー、わかる?」
「わかるよ。ずっと見てたもん、お兄さんのこと」
優しく苦笑したナナちゃんが、おもむろにスカートをめくって顔を突っ込んだ。
「おいこら」
僕の制止を無視し、ナナちゃんが頭でスカートをずり上げながら僕の腹筋まで顔を近づける。
なにをする気だ、このお嬢様は。
「ぺろん」
と、いきなりヘソに生温かくて湿った柔らかいものが触れた。
いや、これは触れた――なんて生易しいものじゃない。
舌だ。
ナナちゃんの細い舌が、ちろちろと優しく、けれど大胆に僕の腹部を舐め回しているのだ。
思わず後ろに倒れ込んでしまい、ベッドの上に横たわる。
「ひゃわっ!? ちょ、待って!?」
「あれあれ、さんざんヒトのこと舐めまわしておいて、自分が舐められるのは苦手なのかな?
うふふ、お兄さんのヘソかわいー」
「こら、ナナちゃん……!」
「ご主人様とお呼び! ASMR風に」
そんなえちち屋ちゃんみたいな技術はない。
体勢的には、すでに下半身を押さえられている状態である。
ここから返すのは、至難の業だ。しかも、ヘソを舐められていて力が出ないし。
ゆえに、こちらの選択肢は――。
いや。
いっか。
なんとなく、抵抗する気にもなれなくて、こないだみたいなプロレスに発展することなく、僕はベッドの柔らかさに体を任せることにした。
どうにでもなれ、とでも言わんばかりに。
すると、ナナちゃんが僕のへそから舌を離して、少し寂しそうに、スン、と鼻を鳴らした。
「お兄さんさ、過去一で沈んでるでしょ」
「……そう? 僕、意外とメンタル強いタイプだと思うんだけど」
「そうだよ。そういう味のヘソだよ」
「第五部みたいな判断のしかたをするな」
護衛チームのリーダーか、キミは。
……だけど、まあ。
へその味は冗談だとしても、ナナちゃんから見て僕がひどく落ち込んでいるように――カラ元気を回しているように見えるのは、事実なのだろう。
「負けたのがショック……ていうわけじゃないね。
お兄さん、負けたらアプローチ変えて次に行くタイプだからさ」
「よくご存じで」
「負けたのがショックじゃないなら、どうして落ち込んでいるのか。
自己分析の答えは、お兄さんの中ではすでに出ていて、だけど、その結果こそがお兄さんを真に凹ませているもの……でしょ?
だから普段通りの行動を意識がけて、それが私にはカラ元気に見えてる」
僕よりも僕の分析が上手だね、ナナちゃんは。
ぜひともコツを聞きたいものだ。やっぱりヘソの味か?
「そういうニーソックスの味してるもん。はみはみ」
「それはもう僕の味ですらねえじゃねえか」
ナナちゃんが頭を引き抜いて、顎に付いた涎をスカートの端で拭った。こら。
「お兄さんは、負けて落ち込んでいるわけじゃないけど――それでもやっぱり、負けて落ち込んでいるんだよ」
「おやおや、一瞬で言ってることを翻したけど、いつもの狂人ムーブかな?」
「いつも狂人なのはお兄さんのほうでしょ」
ナナちゃんは、ぽんぽんと僕の頭を叩く。
ホワイトブリムの先端が揺れ、灯に照らされたフリルの影が踊る。
「お兄さんは、負けたの。
試合にじゃなくて、アダチさんに。
アダチさんの気迫というか、覚悟というか……そういうのに負けたんだよ」
「そういうのって、ふんわりしてるなぁ」
「私は分析苦手だもん。アダチさんのことはわからないよ」
「僕のことはわかるのに?」
「ずっと見てたからね」
ナナちゃんが、目を正面から僕にあわせて、笑った。
「お兄さんのことは、わかる。
話も聞いてあげる。
だから、無理して普段通りにすることないよ」
ね? と問われると、僕は返す言葉もない。
ただ、天井を見上げて、部屋中に人工的な温かさを醸し出すLEDの灯りや、窓から差すネオンのぎらついた光を見た。
それから正面を向くと、ナナちゃんの瞳にも、光があると気づく。
空虚な灯りだらけのなにわ地下迷宮で、だけど、この光だけはホンモノだと、ぼんやりと思った。
「……間違っていないって、思っちゃったんだ。
少なくとも、僕には否定できないなって」
言葉は、案外とすんなり口から零れ落ちていく。
「うん」
短い相槌と共に、ナナちゃんが僕の頭を抱き寄せて、胸に掻き抱いた。
「少なくともヒトを害したことについては、人道に反している、アダチさんは間違っている――でもさ。
タマコちゃんを救って、長生きさせることを望むなら、きっと、アダチさんの行動は……人道に反していても、彼の信念上では間違っちゃいない」
間違っていないなら正しい、なんて簡単で傲慢なロジックを信じるつもりはないけれど。
「僕がアダチさんの立場なら、アダチさんの能力なら……彼と同じことをしたかもしれない。
悩んで、悔やんで、だけど……大事なヒトを助けるためなら、さ」
彼もまた、悩んだだろう。
彼もまた、悔やんだだろう。
けれど、悩み、悔やみながらも先へ進むと決めて、僕と対峙し、ねじ伏せた。
そして、彼は勝った。
古都の英雄を地の底へと叩き落とした。
それによって、ユウギリは彼の願いを聞き届ける――そういう見世物を、成立させた。
「……僕はさ。
軽い――のかも、しれない」
お前の拳は軽いのだと、アダチさんは言った。
まったくもって、その通りだ。
「僕は大事なヒトが無事であればそれでいいんだ。
ナナちゃんが、カグヤ先輩が、ヤカモチちゃんが――古都のみんなが、無事であれば。
平凡で、野心もなくて、ささやかで……そういう世界で、ゆっくり旅とかできたらなって、願って行動してた」
「うん」
ナナちゃんの鼓動と体温が、布越しに頬に流れ込む。
温かくて、思わず泣きそうになってしまう。
「だから、わかる。わかっちゃうんだ。
アダチさんにとって、タマコちゃんは大事でさ。
そのヒトのためなら、なんだってやるし、なんだってできる。
悪いことを、正面からやってのけてしまう――願うだけじゃなくて、確実に現実にするんだって、そういう覚悟の差がさ。
ううん、信念っていうのかも」
「うん」
理解してしまう。
僕とアダチさんの共通する部分が、胸の中にあって。
その部分が、アダチさんに共感して、理解を得てしまった。
彼にとっての正義が、なにであるかを。
気絶する直前、僕は彼の正義を否定できないと思った。
それは、彼の正義が――根っこのところで、僕の中心にあるものと似ているからだと、気づいてしまっていたからだ。
彼の行いは人道に悖る。
殺人なんて間違っている。
間違いなく、間違っている。
だけど。
一ヶ月前、僕はレイジの両腕を切断し、結果的に追放に追い込んだ。
いまでも、あの行動を間違っていると思っちゃいない。
もっといいやり方があったかもしれないと思うことはあれど、あのとき、カグヤ先輩たちを守るために、やつの両腕をぶった切ったことが間違っていたなんて思わない。
だけど、だけど。
だけど、だけど、だけど。
それは、この過酷化した環境、壊れた地球において、殺人に相当する――そうじゃないか?
僕は平安と安寧を望み、行動した。
レイジの命を、切り捨てて。
付き添う女性がいるからきっと大丈夫だろう、なんて言い訳で蓋をして。
だから、僕は否定できない。
「僕は、アダチさんを否定できない。
少なくとも互いに否定できない部分で、彼の覚悟に気圧されて……心が、負けたんだね。
負けたんだ。
試合に負けて、心も負けて、立ち上がれなくなっちゃった」
口に出すと、その事実をすんなりと受け入れられた。
「……うん」
そんな僕の吐露を、ナナちゃんは柔らかく受け止めて、頷いた。
「……軽蔑した?」
「ぜんぜん。私はお兄さんを軽蔑することは、絶対にな――いや、ううん……あんまり? ない? よ?」
なんで疑問形なんだよ。
むっとする僕に、ナナちゃんは苦笑した。
「こういうとき、ミワさんがいたら、皮肉っぽくそれらしいことを言ってくれるんだろうけど。
私には、わかんないから。
どれが正しいとか、間違っているとか、倫理がどうとか人道がどうとかさ。
倫理は二年の範囲だから、習う前に地球が壊れちゃったの」
だけどね、とナナちゃんは言った。
「習ってなくても、ひとつだけ確かなことがあるよ」
ナナちゃんはやさしく、僕の頭を撫でた。
「私がお兄さんと一緒にいるってこと。
わかんないけど、一緒にいる。
だって、絶対にわかるもん。
私にはわからないけど、お兄さんならわかるって、わかってる」
くす、と笑いが耳に落ちる。
つられて、僕も少しだけ笑った。
「ややこしいね、ナナちゃんのロジックは」
「簡単だよ。
私は難しいことわかんないけど、お兄さんはうんうん頭捻って、わかろうとして、最後はきっとわかる。
だから信じる。ついていく。それだけの話。でしょ?」
「……僕は、いったい何をわかっているのかな」
「うーん、なんて言ったらいいのかな。
地平線の先とか、境界の向こう側とか、見たことない景色とか、そういうエモい言い方するような場所というか、そこを目指す旅路というか……」
「――壊れた地球の歩き方、かな?」
「そう、それ。だから、私はお兄さんのとなりにいる」
ハッシュタグ。
ちょっと気取った、僕らの旅路を指す言葉。
「でも、僕の正義は……」
目を伏せる。
僕の行動の中心にあったはずのものは、ぽっきりと折れてしまった。
寒々しい平和への願い。
正義とかいう軽い言い訳。
みっともない。
「……結局さ。僕は、力を得て増長しただけの小物なんだよ」
そんな男に、ナナちゃんを付き合わせるわけには、いかない。
歩き方どころか、いま自分の足が地についているとすら思わないのだから。
「僕はここで奴隷をやるよ。
ナナちゃんは、ひとりで脱出して――」
「ぺろり」
言葉を遮って、ナナちゃんが僕を舐めた。
「――あぇ?」
ヘソではない。
ましてやニーソでもない。
僕の唇を、舐めあげた。
視界の正面にナナちゃんの顔があって、いたずらっ子のような顔で微笑んでいる。
頬は赤く染まって、恥ずかしそうに少し目は泳いでいるけれど。
「あのさ」
と、ナナちゃんは言う。
唇に、暖かく湿った残滓を感じる。
「私は――私たちはさ、お兄さんの正義についてきたわけじゃないんだよ?
お兄さんの正義じゃなくて、お兄さんについてきたの。
小物で、えっちで、たまに頭バグってて、だけど優しくて――だいすきな、お兄さんに」
ナナちゃんは、くすりと笑った。
「……でも、僕は間違っているかもしれなくて、ええと……そしたら……」
「もしもそうなら、私は間違っているお兄さんについていくし、私がわかる範囲でお兄さんを正す。
私がわからなくても、カグヤさんや、ヤカモチたちが正す。
それで、みんなわかんなかったら、みんなで間違えたらいいじゃん。
あーあ、やっちゃった、ダメだった、失敗した――って、一通り凹んで、悔やんで、償って。
それも全部みんなでやって、それからみんなでもう一度好き勝手やればいいの」
「好き勝手、って」
その言い様に笑ってしまう。
あまりにも無責任に聞こえる。
でも、となりにいてくれるなら……それで、いいのかも。
「……いいのかな?」
「さあ。私にはわかんない。
でも、お兄さんにはわかるでしょ?」
最後の最後でこっちに投げるのかよ。
本当に、この子は――と、思ったところで、ふと気づく。
ナナちゃんもナナちゃんで、好き勝手やってるのだ。
足を止めずに、彼女なりに。
そんな彼女がとなりにいるなら。
うん、と頷き、ナナちゃんを抱き締めながら体を起こす。
胸の奥にあった、重たい塊は、いつの間にかどこかへといってしまったらしかった。
「わ。な、なに? 急に抱き締められるとびっくりするんだけど!?」
「……違う道を歩く人がいて、僕らの道は彼の道とぶつかってしまって。
だけど、僕らも彼も、歩みを止めたらそこで負け。
ただそれだけの話なんだね。
正しいとか間違っているとかじゃなくて、貫くか貫かないかの話なんだ」
だったら、やるしかない。
最初の一歩を踏みだしたら、もはや道は進むか、戻るかの直線にしかない。
進むしかないなんてことはない。間違っていたら、戻ったっていい。
道を逸れて、新しい道を模索したっていいのかもしれない。
だけど。
立ち止まる選択肢だけは、絶対にない。
「ナナちゃん、このダンジョン、ぶっ潰すよ」
「最初からそのつもりでしょ?」
まったくもって、その通り。
ブレないなあ。そのブレないまっすぐさが、心底頼もしい。
強く抱きしめて、ナナちゃんという存在の輪郭を全身で感じる。
「だけど、僕はまだちょっと心のダメージが抜けてないから、ちょっと好き勝手をさせてもらってもいいかな」
「……うん? いいけど……なにするの?」
首をかしげるお嬢様に、僕はメイドらしくおしとやかにほほ笑んだ。
「ヒトが沈んでるのをいいことに好き勝手舐めまわしてくれた、いたずらっ子なご主人様に、本物の舌技をご披露しようかと思いまして」
「Oh……」
「もちろん、嫌なら嫌だと言ってほしいけど……そうじゃなかったら、大変なところまでぺろぺろしちゃうかもしれない」
「……た、大変なところまで……?」
「そう、それはもう、大変なところまで」
スン、とナナちゃんが鼻を鳴らして、ちらちらと僕の顔を見る。
「……え、ええと……ぺぺ、ぺろぺろ――だけ?」
「……だけじゃないかも、しれない。
ナナちゃんが嫌じゃなければ」
「い、嫌じゃない!
――あ、その、ええと……嫌じゃない、です」
ナナちゃんをそっとベッドに横たえて、その上に覆いかぶさる。
頬を真っ赤にして顔を背けた少女は、けれど、期待で潤んだ瞳を僕に向けて、か細く呟いた。
「……はじめてだから、やさしくしてね?」
奴はとんでもないものを舐め回していきました。
――あなたの心です。




