40 幕間 フジワラ、雨上がり。
キオはなにも言わない。
陶器の肌を雨が流れ落ち、歯車の錆びに引っかかって溜まる。
「眠れない日もあるだろう。死にたくなる日もあるだろう。過去のつらい記憶を乗り越えるのに、どれほどの時間がかかると思うかね。……僕の妻は、三十年かかった」
そして、ついぞ父母と会わせられなかった。
今度は妻から言いたいことがあったかもしれないのに。
「そういう人生であっても、マツシタくんには生きていてほしいと願うのかね。きみ自身の我がままでもって、願うのかね?」
人形の錆びを含んだ赤茶けた水が、地面に流れる。
――血を流しているようにも見える。
フジワラはそう思う。
だれもかれもが血を流して生きている。
ややあってから、キオは言った。
『……ねね、ねがう』
「たとえ、その願いがマツシタくんにとっては呪い同然であっても、かね?」
真っ赤な両眼が影を見て、うなずいた。
『ねがう。おれたちは、マツにいきていてほしい。さきにいく、ぼくたちのぶんまでいきて。かなえられなかったわたしたちのゆめを、かわりにかなえてほしい』
――まったく、ひどい仲間たちだ。
一生のトラウマになるようなことを頼んでおいて、さらにひどい頼みごと。
トラウマを背負って生き続けろ、と。
自分たちを決して忘れずに生きろ、と。
「自分勝手だな。きみたちは。だが、僕も同意見だ。生き残ったからには、生き続けるべきだ。たとえ、だれを失ったとしても」
そっとポケットに手をやる。
指輪がひとつ、入っている。
「マツシタくん。聞いたかね? きみがすべきは、仲間と共に逝くことではない。仲間のために生きることだ。これが過去の勘違い。そして……」
フジワラは影に優しく微笑んだ。
「未来の勘違い。生きる気力を失っているなんて、うそだ。物作りをするときのきみは、とても生き生きしていた。きみはまだまだ人生を楽しめるし、楽しんでいいし、楽しむべきだ」
ホームセンターで。
あるいは研究本部で。
幾度となく、マツシタの輝く顔を見た。
「マツシタくん。きみがどれだけ否定しても、きみの本心は生きたいのだよ。義務感に引っ張られて、未来なんてないと勘違いしているだけだ。きみには未来がある。過去のつらい思い出を思い返して、枕を涙で濡らす未来だ。趣味に没頭したり、美味しいものを食べたり、なんでもないことで笑ったりする未来だ。いいかね? 暗くて、悲しくて、そして同時にとても楽しくて明るい未来が、きみにはある」
人生は複雑だと、フジワラは知っている。
刹那的な楽しみに人生の辛苦を忘れることもあれば、遠い過去のトラウマを思い出して丸一日なにもできないことだってある。
楽しくて、つらい。
苦しくて、おもしろい。
きっと、その繰り返しが人生だ。
「起きたまえ、マツシタくん。きみにはすべきことがあり、きみにはしたいこともある。起きる理由は十分にしめした。なにか反論はあるかね?」
ずるり、と影が蠢いた。
褐色の手が灰色の空の下で伸ばされ、泳いだ。
とっさに手を掴み、引きずり出す。
小さな体が躍り出て、腕の中に納まった。
「……無責任、です。好き勝手、言って。みんなも、フジワラさん、も」
銀色の前髪に隠された表情が少しだけ笑う。
フジワラもまた、笑った。
「文句があるなら、好きなだけ言いたまえ。生きていなければ言えないがね」
「ずるい、です。そんなの……生きる、しか。ないじゃないで、すか」
ふと、気づく。
雨はもう上がっていた。
★マ!
次回、イコマ視点に戻って反省会です。




