39 幕間 フジワラ、ふたつの理由
フジワラは、己の人生を堅実なものだと考えている。
派手なところのない、ありきたりで真面目なものだと。
だが、あえて一点、冒険したことを挙げるとすれば。
――結婚だな。
妻と一緒になるとき、父母には強く反対された。
出身地や職業が、気に入らなかったらしい。
出会った場所は大学だった。
ともに古典の研究を志し、同じ院に進み、議論を交わすうちに恋仲になっていた。
つまり、恋愛結婚だ。
世間一般でいえばよくある恋愛が、フジワラにとってはまごうことなき冒険だった。
――いや。だれかにとって当たり前のことも、違うだれかにとっては大いなる冒険なのかもしれないな。
つまるところ、人生は冒険の積み重ねで。
冒険とは『未知の恐怖』への挑戦だ。
知らないところへ足を踏み出す勇気を持つこと。
新しいなにかへの期待そのもの。
――マツシタくんはすでに、その勇気を持っているはずだ。
そう思いながら、影に近づく。
治療中のマツシタが透けて見えた。
褐色の肌に銀色の髪を持つ、小さなドワーフに見える。
失った妻を重ねて見ることもあった。
あるいは、ついぞ得られなかった娘を重ねて見たことも。
けれど、いまは。
「……きみ自身を見よう。きみが見たくなくとも」
小さく呟いて、雨に濡れるアスファルトに膝を付く。
「マツシタくん。きみにはふたつ、大きな勘違いがある。ひとつは過去の勘違い。もうひとつは、未来の勘違いだ」
反応はない。
意識があるかどうかすら、さだかではない。
だからこそ話しかけている。
「まずは過去について話そうか。イコマくん、キオくんと会わせてくれないかね」
「……いちおう言っておきますけど、僕は影式の維持で手いっぱいなので、キオの相手はできませんよ」
「頼む。彼が必要だ。彼らと言うべきかな」
イコマはうなずいて、影を一筋伸ばした。
ずるりと蠢いて、巨大な人形が姿を現す。
錆びついた鉄と歯車、ひび割れた陶器で構成されたボディ。
限界を超えた赤い両眼が、イコマの作る影の繭を見て捉え、震えた。
『お、あ、まままま、まつしししたたた……』
だらりとぶら下げた魔剣が、しかし、燃えなかった。
落ち着いている。
――イコマくんの予測通り、戦闘中に暴走から脱していたな。
そして、これまでマツシタの危機に対応して飛び出していたことから、影の中でも外の様子はわかると推測していた。
マツシタはイコマがどうにかして作り上げた影の治療室の中だ。
キオが事態を理解していないわけがなかった。
「キオくん。いま一度、教えてくれ。きみは……きみたちは、どうしてほしい?」
『……すくい、を。まつした、すくい。たのむ』
「違う。マツシタくんをどうしてほしいか、ではない。きみたちがどうしてほしいか、だ」
意外な言葉だったのだろう。
赤い両眼がぱちくりと瞬いた。
「わからないなら教えておこう。マツシタくんにとって、生とは苦しみだ。いま、彼女にとって救いとは生からの解放だ」
ざり、と歯車が音を立てた。
は、と息を吐く。
フジワラだって言いたくない。
けれど、この大前提を確認しなければ話にならない。
「マツシタくんに生きていてほしいというならば、それはキオくん。きみの我がままであり、僕の我がままでもある。つらくて苦しくて、そして人生をかけた長い戦いを強いるおこないだ。わかっているのかね?」
次回、雨上がり。
★マ!




