38 生きたい理由
医務室が無人だとわかると、フジワラ教授は外へ飛び出していった。
僕は一度、応接室に戻って、トモさんを応接室から出さないよう兵士に頼んだ。
タンバくんはもちろん、ナナちゃんやヤカモチちゃんも駆り出して、ミワ先輩に捜索隊を編成してもらって、古都内を駆けずり回って。
けれど、マツシタさんを見つけたのは、結局フジワラ教授だった。
朝廷本部からほど近くの、斜めに傾いた五階建てのビルの廃墟。
そのてっぺんに立つ彼女を見つけた。
教授が下から必死に呼びかける声は、雨にかき消されて届かなかったのだろう。
マツシタさんの小さな体が、雨の中に跳んだ。
跳んで、落ちた。
見つけたのが、あるいは僕であれば。
空気の『複製』や『粘液魔法』による緩衝材生成で対応できたかもしれない。
見つけたのが、あるいはタンバくんであれば。
傾いたビルを駆けあがり、マツシタさんを抱きかかえて、着地を決めたかもしれない。
到着が数分早ければ、結末は違っていたのだと思う。
でも、そこにいたのはフジワラ教授だった。
気がよくて、優しくて、頼りになって、意外とお茶目で、けれど、肉体的には引退を決意した初老の男性でしかなくて。
僕たちは、間に合わなかった。
兵士の連絡を受けて現場に急行したとき、教授は僕を見なかった。
割れたアスファルトに膝を付き、もう動かない小さな体を抱く背中を僕に向けていた。
真っ赤に染まったコートの裾は、灰色の空の下では黒く見えるんだな、とぼんやり思った。
「……『傷舐め』は必要ないよ、イコマくん」
しゃがれた震える声で、教授は言った。
「彼女は逝ってしまった」
「そんな――」
「救えなかった。間に合わなかった。結局、僕は……ああ、僕は余計なことをしたんだな。妻の幻影を見て、なにかできると過信して。なにもできずに、若い命を失った。こんなことなら、最初から――」
僕はなにもしなければよかったんだね、イコマくん。
教授のそんな呟きに、脳みその後ろ側がひどく軋んだ。
それは違う。それは違うよ、教授。
なにもしなければよかったなんて、悲しいことを言わないでよ。
そんなのは、間違っている。
間違っているけれど、いま目の前に広がる現実を否定するだけの力が、僕にはない。
駆けつけたタンバくんが息を呑み、ナナちゃんが悔しそうに下唇を噛んだ。
教授のそばに近寄って、マツシタさんを見る。
損傷がひどくて、血だらけで、雨のせいで体温も奪われていて、心臓も止まっている。
この状態から救えるとすれば、必要なのは『傷舐め』じゃなくて、もっと……。
……もっと、なんだ?
ぞわり、と皮膚が粟立つ。
目の前にある命を回避するために、なにが必要だ?
どんな材料があればいい?
外傷特化の『傷舐め』じゃダメ。それはわかっている。
でも、それ以外なら救えるものもあるのか?
止まった心臓を動かし、沈んだ肺を膨らませ、消えかけの魂を繋ぎ止めるための手段を、見たことがあるんじゃないのか。
AED?
心臓動かせばいいってもんじゃない。
救急車?
文明はとっくに滅んでいて、僕らじゃ高度医療を施すことはできない。
ここには、マツシタさんを救えるものは――ない。
でも、でも、だ。
僕はキオに頼まれたんじゃなかったのか。
任せろと、そう応じたはずだろう。
だったら――やるしかない。
ないなら作る。
鉄則だ。
僕の顔を見たナナちゃんが、険しい顔で首を横に振った。
「お兄さん、待って。だめ。それは最後の手段」
「止めないで、ナナちゃん。とっくに最後なんだよ、いまが」
「……わかった。あとでめちゃくちゃ叱るからね」
ナナちゃんが兵士たちに指示を出す。
人払いと、雨除けの準備をやってくれるらしい。
いつも頼りになる。
僕は僕の仕事をしよう。
さあ――集中しろ。
深い集中が必要だ。
瞑想に何時間もかけている暇はない。
いますぐ『竜種』の内側に潜り込め。
『粘幻魔法』をベースに複合魔法の形式を継承。
『傷舐め』の高ランクの治癒力を保持、強化しながら『影魔法』の空間操作と拡張性を追加。
リソースとして『統率』もぶち込んで足しにする。
イメージしろ。
ざく、と皮膚から音がする。
右太ももの内側から、固いなにかが突き出して生えた。
痛みが走る。
ざくざく、と体中で痛みが鳴り響く。
また何枚か生えたらしい。
気にしない。
ただ一度、目の前の悲劇を覆せるなら、ほかのなにも気にしない……!
「創作――『限定蘇生魔法・影式:A』!」
ずるり、と僕の影が蠢いた。
教授の手からマツシタさんの体を受け取って、影で包み込む。
細菌や悪性のものを拒絶し、保全する。
影の内部は疑似的なオペ室だ。
いまこの場所で救えないから、救える場所そのものを作った。
大層なものではない。
『竜種』の現実改変能力で、既存のスキルを捻じ曲げて作った、マツシタさんを肉体を救うだけのスキルだ。
活動を止めた脳に幻覚を送り込み、脳内物質を無理やり励起させる。
マツシタさんの血を媒体に同成分の粘液を生産し、輸血を開始。
損傷部位は傷舐めの治癒力を直接ぶち込んで治癒開始。
けれど、それだけでは鼓動が戻らない。
止まった心臓を動かせるようにするだけじゃ、だめなのだ。
彼女自身が生きたいと思っていない。
冷たい体を温かくさせるものがない。
逝きたがっている魂を繋ぎ止めるピースが足りない。
それは、僕には用意ができない材料だ。
だから。
「教授!」
影式を維持しながら、隣で呆然としている教授に叫ぶ。
「理由をください! マツシタさんが生きたいと思える理由を!」
教授は『理由』を提示できるのか。
★マ!




