2 別れ
出ていくにあたって、いろいろ準備が必要かと思ったけれど、わりと早く終わってしまった。
文明崩壊後、個人の持ち物は激減したから、持ち出すものも多くないのだ。
社会が崩壊した以上、お金だのなんだのは持っていても仕方ないし、集落単位の生活では食料等の消耗品は共同管理にして分け合うほうが角が立たない。
だから追放前の準備はほとんどなくて、あいさつ回りのほうが多いくらいだ。
そういうわけで、僕はA大村の中庭に面した教室のひとつに来た。
この小さな教室は、A大村の中枢といえるだろう。
「カグヤ先輩、いますかー?」
ノックをして声をかけると、室内でがしゃがしゃどったんばったんと愉快な音を立ててから、涙目の巨乳美人が勢いよく飛び出してきた。
「いっくん! 出ていっちゃだめ!」
そのまま抱き着かれて押し倒されそうになるけれど、踏ん張って抱きかかえる。
わぁい、布越しに柔らかくて巨大なものが……じゃなくて。
「カグヤ先輩、もう聞いたんですか?」
一部以外はほっそりした体を地面におろすと、先輩が僕の胴に両腕を回して涙目でこくこくと頷いた。かわいいなぁ。
ウェーブした長髪からは太陽と土の匂いがして、一緒にいるだけで安心してしまう。
彼女こそがカグヤ先輩。一番仲がいい先輩だ。
「いっくんが出ていく必要ないよ、いっくんがいないとA大村が滅んじゃうよ!」
「いやいや、滅ぶってことはないでしょう。
カグヤ先輩の『農耕:A』スキルがある限り、A大村は不滅ですよ」
僕のあんまり厚くない胸板に小さな顔をぐりぐりすりすりするカグヤ先輩をやんわりと引き離そうとしつつ――全然離れねえな、この人。
ステータス補正系スキルは持っていないはずなんだけれど。
言動は小動物みたいなカグヤ先輩だけれど、A大村の食糧事情の大半を一人で解決した逸材である。
A大村が村として成立できたのは、ひとえの彼女の功績だ。
農家生まれで農学部所属四年――文明崩壊時は二年だった――の、カグヤ先輩は一万人にひとりしか発現しない(と、噂されているほど希少な)Aランクスキルを持っている。
Aランクの補正は『伝説級』に相当し、その効力は『カグヤ先輩がかかわった農作物は病気にもならず、収穫量も多く、味も最高級になる』というもの。
ちなみにBランクスキルは『達人級』。生涯をその道に費やした求道者と同等の補正。
Cランクまで落ちると『プロ級』になる。
カグヤ先輩の『農耕:A』と培ってきた農耕の知識や経験がなければ、それこそA大村が滅んでいたかもしれない。
重要度は僕よりもはるかに上だ。
鼻をずびずび言わせながら僕に抱き着いている光景だけ見ると、あんまり凄くなさそうだけど、本当に凄い人なのである。
「でもいっくんは私の生きるモチベーションなんだよ!?
いっくんが出ていくなら私も出ていく!」
「それはやめてください! みんな餓死しちゃいますよ!
ていうか、カグヤ先輩は戦闘系スキルどころかステータス補正スキルも皆無なんだから、外に出たらすぐ死んじゃいますよ」
「ふみゅ……」
しおれた花みたいになったカグヤ先輩は、僕の胸板にもう一度顔をぶつけた。
「……すぅ……はぁ……」
「カグヤ先輩そこで深呼吸しないで、やめて、ちょっと汗かいてて恥ずかしいから」
「すぅーっ……ズッ」
「ねえいま何を吸ったの? カグヤ先輩? 何を吸ったの?」
「でもね、いっくん。いっくんの『複製』は間違いなく村に必要な能力だよ。
いっくんに出ていってほしくないっていう、私の個人的な感情は度外視しても、いっくんを追放するのは間違ってる。
あまりにも大きな損失だよ。
狩猟班のアンポンタンにはわからないみたいだけど、いっくんの重要性は狩猟班よりもはるかに高いんだよ?」
「急に真面目にならないで」
あとアンポンタンって単語めちゃくちゃ久々に聞いたな。
僕はため息を吐きつつ、今度こそ本当に先輩を引きはがす。
「過大評価ですよ。
僕の能力はそれなりに便利ですけど、必須級かと言われるとそうでもないでしょ?
ないと困ると思いますけど、ないと滅ぶってほどじゃないはずです」
特にこのA大村はそれなりに規模が大きい集落で、人手も比較的多い。
近畿地方の田舎にある私立A大学が原型となって成立したから、労働力として数えられる学生の住民が多いのだ。
二年前の文明崩壊から、人類は中世のような集落単位の生活に逆戻りしている。
日本は比較的ラッキーだった。学び舎が多く存在したからだ。
災害時の避難場所に指定されていた公立の学校は、天変地異でも崩れなかった建造物が多い。
集団生活しやすい構造もあって、この二年間で集落の基本単位は『学校』になった。
我がA大学は私大特有の見栄か、あるいは本当に奉仕の精神か、そのどちらかがあったらしい。
災害時に近隣住民に貢献できるよう、耐震強度の非常に高い建物で構成されていたため、すんなりと集落化した。
たった二年前、されど二年前。恐ろしくも懐かしい、滅びの記憶。
ここで過ごした二年間を想って、目線を上げる。
カグヤ先輩の頭越しに見える教室の窓、その向こうに中庭が見えた。
元は芝生にベンチが置かれた憩いの場だったけれど、いまはぜんぶ耕して野菜畑にしてある。
「……一緒に畑を耕しましたよね」
「過去形で言わないでよぅ。これからも手伝ってもらわないとダメなのに」
「そういうわけにはいきませんよ。
出ていかないとホラ、レイジに力ずくで追い出されちゃいますし」
すん、とカグヤ先輩が鼻を鳴らした。
「狩猟班の班長、きらい。
変な目で見てくるし、妙になれなれしいし。
……いっくん、追い出そうとするし」
「でも、あいつらがモンスターから大学村を守ってるのは事実です。
だから発言力も影響力も大きいわけですし――性格は悪いですけど」
「……ねえ、いっくん。
やっぱり私も一緒に行っちゃ、だめ?」
「う……」
上目遣いは卑怯だ。
なんでも許したくなってしまう。
だけど、
「ダメです。カグヤ先輩はA大村に必要な人間なんですから」
ここはきっぱりと断らなければならない。
カグヤ先輩がいなければ、この村は崩壊する。
A大村集落の住民はおよそ五千人弱。近畿地方でも指折りの巨大な共同体だ。
それだけの人間が住む村を失うのは、人類にとってあまりにも大きな痛手だろう。
「だから、お別れを言いに来たんです。
さようなら、って」
「うぅー……」
動物みたいに唸ってから、カグヤ先輩は潤んだ瞳で僕を睨んだ。
「そうだよね。いっくん、もともと出ていきたがってたもんね。
ちょっと『渡りに船だ』とか思ってるでしょ」
「ぐっ」
「そうだよね。夢だって言ってたもんね、日本一周旅行。キャンピングカーだっけ?」
「ま、まあ……文明崩壊前の夢、ですけど。
いまはそんな時代じゃないですし……」
「でも、そういうスローな生活したいとは思ってるでしょ。
しかも自由気ままに一人旅がいいとか考えてるでしょ」
図星を突かれた。
正直なところ、追放されたら好き放題の生活ができるとは、ちょっと思っていたのだ。
先輩は腕組みをして――立派な双丘が腕の上に乗る――言った。
「連れてってくれたら許す」
「……いや、さっきも言ったけどダメですって」
「うん。だから、今じゃないよぅ。
この世界がもうちょっとマシになって、A大村に私が必要なくなったら、ちゃんと迎えに来てね。
ぜったいだから。来なかったら……ええと、呪っちゃうからね!」
そう言われて、思わず笑ってしまった。
呪われるのは嫌だなぁ。
「わかりました。いつか、カグヤ先輩を迎えに来ますよ。
でっかいキャンピングカーに乗って、一緒に旅行しましょう」
「ん。じゃあ、さようならだけじゃなくて、もっと言うことあるでしょ?」
かなわないなと思いながら、僕も先輩の瞳を正面から見つめ返す。
ちょっと照れ臭い。
「また会いましょう、カグヤ先輩」
「ん! またね、いっくん!」
親しい人に笑顔で別れを言えたのは、とても嬉しいことだ。
再会の約束までしてもらえるなんて、カグヤ先輩は本当に後輩思いのいい先輩である。
もっとも、キャンピングカーが走れるような道は、もう日本中のどこにもないかもしれないけれど。
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