57 閑話 キヨモリ、散る
キヨモリは、着込んだぬらりひょんの型……その腹から、ぼろぼろと中身の液体をこぼして、膝をついた。
痛みがひどい。だが、それ以上に、驚愕があった。
――まさか!
気づいた。
どうやって、ぬらりひょんたる自分に、切り替えの隙を与えず攻撃を届かせたのか。
『馬鹿、な……!』
思わず悪態が漏れ落ちた。
ほんとうに馬鹿な作戦だ。あきれ果てる。
――判断する時間を削るため、その場にいる仲間二人を斬れと……そう命じたのですねぇ!?
傷みで痙攣する眼球を動かして、視覚から情報を得る。
腹を裂かれたのは、イコマも同じ。だが、青年の傷はそれほどひどくないように見える。
キヨモリは瞬時に看破した。
全身をコーティングしたあるものが、イコマへの一刀を軽減し――同時に、裂かれた腹を癒している。
ぬらぬらと光る、分厚い液体状の膜の残りかす。
『傷舐め:A』のローションで織られた防御膜が、いま、イコマの腹に癒しの効果を与えている。
――肉を切らせて肉を切り、しかし、己の肉だけ治す算段をつけておくとは!
びちゃ、と口からも液状の塊が出た。
ぬらりひょんは妖怪総大将だ。その能力は、違和感なく集団に紛れ込み、茶を飲んだり飯を食ったりするもの。
しかし、その伝承から逆算すれば、ひとつの答えに行き当たる。
「ようかい辞典で読みました。ぬらりひょんには、戦闘力がないのでしょう? おそらく、常人と変わらない程度。であれば、腹を切られ、血を失えば……動けなくなるのもとうぜんですね」
忍者刀を構えた少年が、淡々と言う。
体が動かない。ぬらりひょんとしての己が、ほとんど死にかけだ。
このダンジョンにおいて、キヨモリは己を『ぬらりひょん』だと定義している。
京都嵐山ダンジョンのルールを成立させるため、伝承と己を同化させた。
ゆえに、いまここで血を流し、這いつくばっているものは。
「ぬらりひょんでもなければ妖怪でもない、竜の残骸。あなたの負けです、キヨモリ」
常夜の月に照らされた忍者刀が、舞い散る紅葉の下で、ぎらりと光を反射した。
己が首元に突きつけられたその銀光があまりに美しくて、キヨモリは思わず息を呑んだ。
――ああ!
悟る。
竜の心のうちに、あるものがあった。
感情だ。あまりにも強く、激しいもの。
ぞわぞわと全身を駆け巡ったそれは、喉奥から引き絞った空気とともに放たれる。
『あ、ああああ……ッ!』
感嘆。嫌悪。陶然。狂乱。そして、歓喜。
――これが、これが……恐怖なんですねぇ!
さんざん食らいつくしてきたものだ。
どういうものか、理解はしていた。食っていたのだから。
だが、理解はしても、実感はしていなかった。
竜の身だ。恐怖など、これまで一度も感じたことがない。
竜の心臓がきりきりと捻じれ、軋む。初めての感触に、キヨモリは感涙した。
――よもや……己の恐怖がこれほど甘美だとは!
これほどまでに強烈な感情を、キヨモリは味わったことがなかった。
当然だ。竜は人間の恐怖の結晶。人間に恐怖することなんて、あり得ない。
だが、いま己が抱いている感情は、間違いなく死への恐怖。
そこで、はたと気づいた。
――進化しているのですねぇ!? 私も、人類と同じように!
大昔、竜がまだ当たり前に存在していたころとは違う。
文明の発達と共に消えた竜は、二年半前に再び暴れ、眠った。
文明の裏側に潜みながら、しかし、文明の影響を受けていた。
ゲームかぶれのドウマンがそうだ。
なぜそうなったか。そこには必ず原因がある。環境の変化が、恐怖の権化たる竜の在り方を捻じ曲げた。
竜にとって環境とはすなわち恐怖。人類が持つ想像力のプール。
文化そのものが、竜の孵卵器だと仮定するならば。
――人口増加による想像力の飽和が原因! だとすれば、竜王様の狙いは、もしや……!?
惜しい、と思う。ほんとうに、惜しい。
もう少し長生きできれば、もっと面白い光景を見ることが出来たに違いないのに。
だが、キヨモリにとってなによりも惜しいのは、二度と『死の恐怖』を味わえないことだろう。
人類がいる限り、竜は何度でも蘇る。発生する。自然現象のようなものだ。
だが、次に発生したとき、キヨモリは別の竜になっているはずだ。
――人類は、ほんとうに……素晴らしい生き物ですねぇ!
死への恐怖を楽しみ、嗤う。
キヨモリは思う。考える。この恐怖をくれた人類たちに、最期に遺すべき言葉はなにか。
血反吐で詰まった喉奥から、悲鳴以外の音をひねり出さなければ。
ごぽり、と泡交じりの血塊を垂らして、キヨモリは嗤った。
『……竜王様は、すでに目的を果たしています』
ぽろりと言葉が落ちる。
怪訝そうに首をかしげ……すぐに、険しい顔色を浮かべる少年。
その表情を見ることが出来ただけで、十分だろう。
『……ふは』
嗤って、キヨモリは最後の力を振り絞る。
竜は竜を殺せない。自殺もできない。だが、死にかけの小さな体を起こすくらいなら、可能だ。
だから、そうした。
喉元に突きつけられた忍者刀の刃が、首を割り開く感触を楽しむ。
この冷たさは、死そのものだ。恐ろしい。恐ろしいがゆえに――素晴らしい。
タンバが慌てて刀を引く前に、キヨモリは成し遂げた。
恐怖の中で、しかし、キヨモリは充足を感じながら、なかば自らの意志で首を落とし――息絶えたのである。
イコマとタンバのツーマンセルだから出来た攻略法ですね。
ナナちゃんなら「は? そんな作戦いや」って言って終わるので。




