53 閑話 タンバ、また走る
作戦はなかった。
ただ、最初に爪の一撃を避けたとき、イコマに囁かれたのだ。
『攻略を、お願い』
それだけ。
お願いと言われても、なんともわからない。
自分にできることは、走ることだけなのだ。こんな巨大な相手、どうすればいいのか。
でも、見上げるたびに大きくなる様子を見て、気づいた。
――見上げ入道ですね!
小学校の図書室で見たことがある。
見上げれば見上げるほどに大きくなって、最後は見る人が後ろに倒れてしまう妖怪。
『見上げ入道、見越した』と言いながら前に倒れると、小さくなって消えてしまうはずだ。
幸い、自分は狙われていないので――戦闘の余波が大きいので、できるだけ距離を取って――呪文を唱えながら地面に突っ伏してみた。
キヨモリは消えなかった。
――ということは、実際に見下げる必要があるのですね。
うなずいて、タンバは周囲を見回した。
日本庭園だ。小さな庵はあるが、高さが足りない。十メートル以上ある竜を上から見下ろすことはできそうにない。
唯一、可能な場所があるとすれば。
――あの竜の頭上、とかでしょうか。
難しいですね、と悩む。
竜の背中を駆け上がること自体は可能だ。『スピード強化:A』に加えて『忍術』スキルがあるから、鱗だらけの急斜面でも問題ない。
しかし、相手は躍動する竜だ。腕を振るだけで、鱗がうねり、逆立ち、斜面は切り立つ崖になる。
変動するルートを、竜に気づかれないよう、足先の重みを可能な限り消しながら走らなければならない。
ただでさえ難しい踏破だ。
――無理ですね。
加えて、最悪なのが『見上げると大きくなる』点。
走行中は『自分の行く先』を見るのが基本だ。この場合はキヨモリの頭上を目指すから、とうぜんキヨモリを見上げる形になる。
――登るために走れば走るほど、大きくなりますよ、コイツ。
攻略は無理だ。しかし、撤退しようにも竜が見逃してくれそうにない――いや、タンバだけなら逃げられるかもしれない。
いまは相手にされていないから。
だが、イコマは逃げられないだろう。完全に目をつけられている。このままではじり貧で負けそうだ。
というか、そもそも自分だけ逃げるわけにはいかない。
――『攻略、お願い』と言われましたから。
どうすべきか……頭を悩ませていると、キヨモリの頭が爆発した。
厳密には、投じられた手りゅう弾が、だ。
空気が揺れ、爆音が響くが、竜に傷はない。
やはり、見下ろす以外に攻略法はない。
その時、一瞬、竜の腕を器用に避けているイコマが、こちらを見た。
口元が笑って、動いた。
――え?
タンバは読唇術を使えないが、その単語だけはわかった。
『走って』だ。
それが、どういう意味かはわからない。だが、考えるより先に、タンバは足を前に踏み出した。
景色を置き去りにして、キヨモリへと接敵する。
唇を曲げる。笑う。イコマが笑ったように、笑ってみせる。
――理由なんて!
走ればわかる。
走らなければ、わからない。
カッ、と視界が白く染まって、音が遠くなっても、タンバは足を緩めなかった。
スタングレネードが視界を埋める前に、己は竜の背中を見た。
なら、できる。できない理由はない。
瞳を閉じる。どうせ見えないなら、いっそ目をつむってしまえばいい。
――英雄ではないのなら、です……!
タンバはニンニンとか言わないし、漫画みたいにどろんと巨大なカエルを出したりもしない。感度を三千倍になんか、したくてもできない。
でも、いまだけはソレが必要だ。照れも否定もなく、行動を為すための確信が。
言葉にはしない。心の中だけで、宣言する。
――僕は攻略派兵団の忍者、タンバ! 走ります!
走る。尾の先、硬い鱗を踏んで、背中を駆けあがる。
走る。背に生えたとげに手をかけ、滑らかな鱗にスニーカーの先を引っ掛けて、身体を持ち上げる。
走る。視界は白い。音は遠い。その状態で走るのは、恐ろしい。恐怖が身を襲う。
走る。それでも、走る。恐怖を置き去りにして、ただ走る。
時間にして約五秒。
タンバには、永遠に思えるほど長い五秒間。
全身に脂汗を流しながら、タンバは太いなにかに身をぶつけた。
衝撃で呼気を吐き出しながら、縋り付く。
恐る恐るまぶたを上げると、ほんの少しだけ回復した視界が、細かく波打つ模様を見た。
角だ。怪竜キヨモリの、二つの角。その片方に、タンバはしがみついていた。
は、と息を吐き、もやがかかる視界を下に向ける。
竜の頭、妖しく光を反射する鱗を、己の足が踏んでいた。
遠くでだれかが叫んだ。なにをしたのですか、と。
否、その声は近くで響いたものだ。
耳が回復しきっていない。かなり離れていたタンバですら、スタングレネードの威力は絶大だった。
だから、応じるべきは自分だ。
「見上げるたびに大きくなる、見上げ入道……ですよね。図書室のようかい図鑑で見たことがあります」
自分で吐いた言葉さえよくわからなくて、思わず少し笑ってしまう。
イコマは、タンバを信じてスタングレネードを投げたのだ。むちゃくちゃすぎる。行動不能になったらどうするつもりだったのか。
『――全力で動く竜の体を、私に気づかせぬまま登ったのですか!?』
また、遠くで……近くで声がした。
――ええ、そうです。
応じよう。言うべきセリフを、いま言おう。
「見上げ入道――見越しました!」
がくん、と足場が沈む。
竜が、その体のサイズを大幅に小さくしたのだ。
タンバくんずっと走ってんな……。




