49 閑話 タンバ、走り終えて
タンバは濃霧を見て、一瞬考え、すぐに仕組みに気づいた。
――これが噂の風遁術、スキルの連打ですね!
両手を打ち合わせた際に、手のひらの間に霧を封じ込めて、連打で大量複製したのだ。
呼気やガスを増やせると言ったのと同じ手段。
おそらく、秒間十回かそれ以上。練度の高いAランクのスキルは、桁違いの出力を持つ。
倍々ゲームでねずみ算式に増えていく一握の霧は、空気の複製――爆発的な体積増加に伴う突風と共に、周囲に拡散される。
――速度では僕に勝てないと判断し、視界を潰してきましたか!
イコマは『スピード強化:A』に対抗しうるスキルが『複製:A』であるとわかっている。
だから、タンバの速度を潰しに来た。
しかし。
「甘いです……っ!」
タンバの武器は『スピード強化:A』だけではない。
『忍術:B』は、忍者の技術を再現する複合体術である。ニンニンとか言わないし、漫画みたいにどろんと巨大なカエルを出したりもしない。感度がどうのこうのもよくわかりません。ええ、わかりませんよ。ほんとうに。
ともかく、忍者にとって、目潰し……煙幕とは自ら使うものだ。
対策はいくらでも考えられる。
タンバは額のゴーグルをずり下ろして装着し、口元のマフラーをさらに引っ張り上げて口を保護した。
視界は悪いし、ダンジョン内の山道は足元も悪い。
それでも、走れる。
『忍術』スキルにより、悪路での走行も体術で補正可能。地面を見ずとも、さっき見た記憶と足裏の感触から走行ルートを想定すれば、あとは走るだけだ。
それに。
――山道は、那智勝浦のダンジョンで……トラキチとの戦闘で、慣れています……!
だから、タンバは再び走り出した。
濃霧で数秒は足を止められたが、しかし、結局タンバは走るしかないのだ。
――走れば、わかるはずです!
霧の中、山道わきの土壁を駆けあがり、空中で弧を描くようにしてイコマに仕掛けるつもりだ。
土壁から跳びあがって、抜刀。逆手で抜いた脇差――クキから与えられた無銘の忍者刀を、その真剣の刃を、ぶつけにいくのだ。
――走らなければ、わかりません!
タンバは思う。よく聡い子だと言われてきた。素直でよい子だと。
それでいいし、それがいいと思っていた。
けれど、やはり――思うのだ。
――トラキチは、いいやつではなかったのです。
ずきり、と心が痛む。
和歌山のダンジョンで、いったい幾人が遊び殺されたか。
二年前の天変地異で、集団暴走で、だれもが大切なひとを失った。
竜は存在するだけで人間を害する。そういう概念だ。
――だから、トラキチは悪いやつなのです。
事実、悪いとは思う。人間にとって、その存在自体が、悪だ。
――でも! 僕は!
濃霧の中で立つぼんやりとした人影に、タンバは思いのたけをぶつけるように、刀を振るった。
パワーはなくとも、速度はある。クキからもらった忍者刀は、切れ味も鋭い。
ざくり、と忍者刀がなにかを切り裂き、両断した。
――手ごたえあり!
会心の一撃だ。迷いを断ち切るような。
そう思ってから、ふと我に返る。
――え、あれ、やりすぎましたか、僕……っ?
不安になるが、しかし、直後に異変に気付く。
影が、あまりにも――脆い。
パワーのないタンバの一刀では、人間を……『竜種:B』を持つイコマを、両断なんてできるはずがない。
つまり。
「にせものですね……!」
濃霧だが、さすがに直接攻撃可能な位置まで近づけば、人間とそうでないものの区別くらいはつく。
それでも、攻撃の瞬間まで気づかなかったのは、それがあまりにもイコマだったから。
――例の猫又のスキル! 猫を倒した際に、複製していたのですね……!?
タンバが足を止めた数秒の間に、イコマは猫又のスキルを行使した。
幻覚を生み出すスキル――濃霧と併用したのは、スキルを使うシーンを見られず、幻覚の違和感を消すためか。感心しそうになったが、後回し。
ここでの問題は、まず、イコマ本体がどこにいるか、だ。
考える――イコマ本人の速度はBランクで、逃げたとしても、結局はタンバに追いつかれることになる。
だから、逃げたわけではない。
むしろ、逃げるためではなく、勝つためにこの幻覚人形を作り上げたはず。
ならば、必ず付近にいる。攻撃可能な位置に。
濃霧の中、さすがに至近にいれば気づけるはずだ。けれど、三百六十度の周囲に影はない。
隠れるような時間もなかった。
ならば。
――上か下!
そして、ここは雑木林。地面は山道で、常識的に考えれば。
「――枝の上!」
忍者刀を空に向かって構えなおす。
上方向からの奇襲に備えて、確実に回避するために。
奇襲を避けさえすれば、速度差である程度押し切れるはずだ。
そして。
「ざんねん、不正解……!」
答えは真下からあった。
瞬間、声と同時に足首に触れるものの感触があった。
え、と思って下を向いてしまった。すぐに飛びのけばよいものを、思わず反応してしまったのだ。
足首をがしりと力強く握りしめられる。
そのまま引き倒され、タンバは混乱のまま――マウントポジションを取られた。
忍者刀はいまの格闘で手放してしまい、ポジションを固定される中で、遠くへ蹴り飛ばされた。
泥だらけのイコマが、黒く汚れた顔でタンバを見つめている。
「……イコマさん。いったい、どこに」
呆然とするタンバに、イコマが笑った。
「下だよ。『幻惑魔法:B』で生み出した幻覚の下に、複製した土で覆いを作って、這いつくばって隠れていたんだ。上に意識をやると思ったから」
「……おっしゃる通りです」
「それと、濃霧に対してはゴーグルをすると思ったからね。ほら、上下の視野角が絞られるじゃん。上を向くとき、首ごと上げる必要ができて――地面は完全に視野から外れる」
その通りだ。
視野角を絞り、足元の確認をおろそかにした。だから、足元の山道にいびつな塊があると見抜けなかった。
――いえ、おろそかだったわけではありません。
確認はしたのだ。確認をしていたから、イコマの用意した幻覚に肉薄できた。
わかっていたから、走った。確認したうえで、ルートを決めた。
ゴーグルをはめるよう誘導され、確実に捕らえるための罠とも知らず、走った。
それでいいと考え、走り、わかったのは――イコマはやはり、英雄ではないのだ。
泥臭い努力で戦力の差を埋め、安心安全に勝てる作戦を一生懸命考えて、実行する。
ただそれだけの、ふつうのひとだ。
「さて。マウント取ると、さすがに体重とパワー補正、タフネス補正で僕が殴り勝つと思うけど、どうする? できれば降参してくれると嬉しいんだけれど。あ、もしかして、忍者体術でここから抜けられたりするの?」
タンバは黙って首を横に振った。それから、少しだけ考えて口を開いた。
己の唇が震えていると、自覚する。
「……聞かせてください。イコマさんは、竜を、どう思いますか」
タンバの問いに、イコマは眉をひそめて「うーん」と唸った。
「人類の敵。恐怖の顕現。想像の権化。文明の破壊者。倒すべき敵――とか?」
「ですが、共存しか道はない……の、ですよね」
「そうだね。それについても考えていかなきゃいけない」
「……古都の竜、ドウマンを……おぼえていますか」
「うん。もちろん、おぼえているよ」
イコマは即答でうなずき、それから。
――……あ。
それから、とても優しい顔で苦笑した。
「……そうだね。あの竜とは、こういう関係じゃなかったら、できれば友達になりたかったのになって……そういう共存が出来たらよかったのになって、思うよ。今でも、首を落とす直前にみた竜の目を思い出して、苦しくなる」
震える少年には、その言葉で十分だった。
タンバは「そうですか」と小さく呟いた。
十秒は我慢した。二十秒で、口元が歪んだ。
三十秒を過ぎたあたりで我慢できなくなって、大声をあげて泣いた。
トラキチは友ではなかった。
倒さなければならない相手だった。
でも。
竜でなければ。人殺しでなければ。ダンジョンの主でなければ。
友になりたいと、共に生きたいと、思える相手だったのかもしれない。
ほんの一時、命の遣り取りをしただけの相手だ。
詳しいことはなにも知らない。大した会話もしていない。
時間も、理解もなく、タンバは戦って……殺した。
――どうしようもないのですね。
泣きながら、思う。友達とかそういう関係未満で終わった対戦相手を、想う。竜を害したものとして、強大な竜を偲ぶ。
壊れていようが壊れていまいが、世界には単純な善悪では判断できないことと、単純な利害で判断しなければならないことが多すぎて、こんなにもやるせない。
正しさなんて、立場と視点でいくらでも変わる。変わってしまう。
事実というものは残酷で、タンバにはとても難しくて、いまはただ、大声で泣くことしかできなかった。
涙がこぼれ落ちる。顔を押さえた両手の指のすき間から、ぼろぼろと、すくいあげられなかった涙たちが、落ちていく。
そのしずくの中のどれかが、きっとトラキチだ。
だから、なにもわからないタンバにも、ひとつだけわかった。
たくさん泣いて、これまでのぶんも泣いて、泣き終わったなら。
タンバはもう、英雄なんかではなく。
ふつうのひとで、ふつうの十三歳だ。
僕はこういうのが好きなんだなぁ……。
硬派なローファンタジーですねぇ……。




