43 閑話 ナナ、濃霧に呑まれ
ナナは思った。
――ミスったなぁ。私ってば、ドジっ子なんだから。
イコマに携帯するよう口酸っぱく言われていた布包帯で左腕を強くぐるぐる巻きにして、布の両端を縛り、首の後ろに回す。
左の二の腕が、おそらく折れている。添え木はないが、体の脇でぶらぶらさせるよりマシだろう。
大きな負傷は久々だ。オオカミに腹を裂かれて以来ではなかろうか。
深い霧の中、日本庭園で見かけるような石灯篭に背中を預けて、ナナは苦笑する。
逃げられたのは僥倖だった。だが。
――完全に油断してたの。霧の仕様を勘違いしてた……!
ナナたちは、霧を『壁』だと認識していた。
ダンジョンと外界を遮る深い霧。そして、ダンジョン内でステージを区切るための舞台装置だと。
違った。あれは、そのものが罠だった。
鳥居の向こう、五分ほど進んでも霧が薄まらず、次のステージの鳥居も出てこなかった。
――ローディングでエラーを起こしてループしてる?
そんなゲームみたいな発想も浮かんだが、いくらダンジョンでもそれはないだろう。つまり、これは意図的な仕様だ。
危険を感じたナナは、いったん引き返すことにした。この仕様を報告するためだ。
まっすぐ後ろを向いて歩き、しかし、第二ステージ側の鳥居も現れなかった。
霧で方向感覚を狂わされたのだと気づき、同時に『コレそういう罠だ』と理解した。
霧に慣れ切った自分たちが安易に踏み込み、そして迷わされる罠だと。
鳥居から鳥居へのワープではなく、第三ステージはこの霧中そのものなのだ、と。
薙刀を構え、警戒し、モンスターの襲来に備えた。そこまでは良かった。
だからこそ、油断した。
『あ、ナナちゃん! だいじょうぶ、心配したよ――』
十五分ほどじりじりと警戒を続けたところで、霧の向こうからイコマが走り寄ってくるのが見て取れたのだ。
ほっとした。ちょうど、心細くなってきたところだった。
ナナも手を振り、近づいたところで、横合いから強烈な打撃を受け――イコマの酷薄な笑顔を見た。
――アレは、明らかに別人だったの……!
ほんものはいつも頼りない困り顔で、あんな悪い顔はすることはないし、加えて言えばもっとかわいくてカッコいい。
だから、アレはニセモノだ。そんなニセモノに一瞬でも騙された自分が、悔しい。
幻覚かなにかだろう。モンスターが見せた幻にナナは警戒を解き、その隙を別のナニカに攻撃された。
とっさに防御を取れたのは、訓練と経験のたまものだ。
――やばいと思ってダッシュで逃げて、気づけばどこかもわからない、か。ううん、まずい……。
自分は手負いで、しかも孤立している。どこから来たか、どれだけ走ったかもわからない。
せめて敵の情報を伝えられればいいのだが、このダンジョン内では無線が通じない。
死ぬかもしれない、と思った。死ぬ気はないが、いつ死んでもおかしくない世界を生きているのだ。覚悟はしている。
ただ。
――最後に見たお兄さんの顔がニセモノなのは、いやなの……!
だから、ナナは立ち上がる。
右腕一本で薙刀を担ぎ、深く息を吸う。ゆっくりと、吐き出す。
骨が折れただけだ。千切れていないし、血も出ていないし、死んでもいない。
時計を見れば、第三ステージ突入からすでに三十分が経過していた。
イコマは鳥居に踏み込むだろう。
将であるにもかかわらず、迷いなくナナを探しに来るはずだ。
そして、本気で覚悟したイコマを止められるものは、カグヤかナナかヤカモチかレンカか……ともかく、仲良し姉妹たちだけだ。
それはまずい。
――人間の信頼に付け入るタイプの罠は、お兄さんの天敵なの……!
あのお人好しは、間違いなく引っかかる。
――お兄さんとの合流を最優先。人影を見ても信用しない。それから……。
左腕を見る。細腕だが、『タフネス:B』の腕だ。見た目よりも頑丈である。
それが、一撃で叩き折られた。
受け身に失敗していれば、体にこれを食らっていたことになる。
――霧の中に隠れて、攻撃を仕掛けてくるほう。幻覚じゃなくて、本命のモンスターにはぜったい注意……!
ナナは白く濁る空気を睨みつけた。
恐ろしい敵が、霧の中に紛れている。
たいていのホラーゲーム、ちょっと暗すぎるからもっと昼間の明るい時に襲ってきてほしい。




