癒しの力
魔王視点です。
我は大急ぎで城に戻った。
聖女の屋敷を出て、人目のつかない場所で鳥に変身してのち、風を切るように飛べばすぐに到着できた。
自室の机に聖女からもらった籠を置く。その中を覗くと、美味しそうな匂いのするデザートがあった。
ああ、たまらない。早く早く食べたいと急く気持ちを抑えていた。我は魔王だからな。食べ物で我を忘れるわけにはいかない。
「魔王様、おかえりなさい! それは何ですか?」
ミミルだ。ずっと部屋で待っていたのか、すぐに駆け寄ってきた。
長細い耳をピクピクふるわせ、鼻をヒクヒクさせて匂いを嗅いでいる。
「何でもない。欲しいと言ってもやらんぞ」
「えー、人参じゃないならいりませんよ」
籠から出てきたチーズスフレを見て、一瞬で興味を失っていた。その様子を見て、安堵で胸をなでおろす。
「お茶を持ってきてくれ」
「はーい」
ミミルがいなくなったあと、我は期待を込めてケーキに齧りついた。
「うまい」
口の中にチーズの味がとけるように広がる。小麦粉の香ばしい焼き加減も、とても良かった。こんなに甘くて美味い食べ物を初めて口にした。贅沢な味だった。さらに甘味を求めて手を伸ばす。気づけばあっという間に全部のケーキを平らげてしまった。
空っぽの籠を見下ろす。
また食べられないだろうか。そうか、食事のお礼に遊びに行けば、もしかしたら……。
見ず知らずの我をあんなに歓迎してくれた聖女だ。友好的な態度で伺えば、また……。
そう考えていたときだ。
体に異変が起きた。
腹の中から全身に何か得体の知れない力が走り抜ける。
凄まじい光が一瞬で我を覆い尽くす。すぐにその原因が分かった。
とても温かい優しい魔力。そう聖女だ。先ほどまで会っていた彼女の気配がする。
聖女の純粋な癒しを願う気持ちが魔力から感じる。
我の全身を包み込むような穏やかな光。まるで抱きしめられたような温もりを感じる。
生まれてこの方、こんな風に誰かに慈しむように抱きしめられたことはあっただろうか。
魔物というだけで、存在を憎まれ、人間に滅ぼされる。
望んで魔物に生まれたわけではないのに。
本当は、今日みたいに穏やかに過ごしたいだけだった。
美味しいものを食べ、その喜びを分かち合う。たったそれだけの時間が、我にとってどれほど貴重なことか。
そう思ったとき、なぜか目の奥が滲んで、鼻の奥がツンとした気がした。
分かっている。
この光は、我にとって体を蝕む恐ろしい毒のようなものだ。
けれども、心はとても穏やかで、全く抵抗する気になれなかった。
目を瞑れば、先ほどまで側にいた聖女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
彼女の屋敷で出された食事は、とても美味しくて、気遣いに溢れていた。
彼女は我を魔物だと気づいていなかった。だからこそ、彼女は我のために善意で癒しの力を込めた貴重なデザートをくれたのだ。
その真心を、我は拒絶できなかった。
不思議と苦痛はなかった。ただ、安らぎに包まれていた。
眠るように意識が遠くなっていく。
「あれ~? 魔王様、どこに行ったんですか?」
お茶をいれたミミルが部屋に戻ってきたとき、魔王は姿を消していた。
空の籠だけ、机の上に置かれたままである。
「もう、またお出かけしちゃったのかな。行き先くらい言ってくれればいいのに。あれ?」
ミミルがテーブルにお茶を置いたときだ。床に落ちている石に気づいた。
白く美しい大きな魔石だ。それを見た瞬間、ミミルは嫌な予感がした。
それを慌てて拾い上げると、鼻に近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。
「ま、まさか魔王様が……!? た、大変でメリンカ様! 魔王様が魔石になってしまいましたー!! しかも色が黒じゃなくて白くなっているんですー!」
魔王が一切の抵抗をせず心の底から聖女クリステルの浄化を受け入れたため、完全に瘴気が抜け切っていた。そのため、彼の魔石が真っ白に変化したのだ。
ミミルは慌てて魔王の次に頼りになる魔物のもとへ走っていく。
足音がだんだんと小さくなり、魔王の部屋は静まり返る。
魔王がまた滅び、彼が魔物たちに与えていた恩恵が無くなった。
魔王がクリステルの家で密偵していたとき、彼は自身の瘴気を完全に抑えていた。だが、ふだん自分の城にいるとき、瘴気を発して部下たちを守っていた。
その豊潤な瘴気を失った魔物たちは、すぐに勢いを失くし、今までのような活動ができなくなった。
魔物を観測していた王国の関係者たちは、魔物全体の沈静化に気づいたとき、聖女クリステルの存在を思い出す。
この世界の聖女は、いるだけで魔を遠ざける清い存在。
「もしかして、彼女がいるだけで魔王すらも退けたのか?」
聖女クリステルの今までの輝かしい功績は、その憶測にすらにも信憑性を与える。
あくまで証拠はなくとも、噂が噂を呼び、魔王を封じた聖女としてクリステルの名が国中に広まるのは、もう少し先の話である。




