涙の理由
魔王の視点です。
美味い、美味いぞ。
感極まったせいで、我の目から涙が止めどなく溢れている。
美味いものを食べると頬が落ちると、人間どもは表現することがあった。でも、そんなことあるはずないと、ずっと馬鹿にしていた。
ところがだ。聖女が提供した料理を口にしたとき、今までの常識が覆った気がした。
ウィルフレッドという男がわざわざ聖女に会いにきたのも、この世のものとは思えないこの料理のためか。
全部、納得の味だ。
こんな至上の料理を食べたら、もう元の生活に戻りたくない。
そう思うと、涙が止まらなかった。
「ゲシュー様、大丈夫ですか? 何か気に障るようなことがございましたか?」
聖女が我を見て、不安そうな顔をしている。
しまった。飯を食べて泣くなど、普通ならしないだろう。
不審に思われてしまった。
「いえ、聖女様に食事を振舞っていただいて、感激したのです。ありがとうございます」
我が敬虔な信奉者を演じると、エルクとカミーラが何度もうなずいて、激しく同意していた。
「本当にそうですわ。聖女様のお料理はとても美味しいです。素材を引き立てる味つけが絶妙にされていて、いつまでも食べていたと思うほどですわ」
カミーラの言葉に我も同感だ。
この感動を共有できて、とても嬉しく思う。
「うふふ、 そんなに気に入ってくださって嬉しいですわ」
聖女が褒められて嬉しそうだ。キラキラと輝くばかりの笑顔を浮かべる。
「我が家のコックはとても腕がいいので、わたしのレシピを忠実に再現してくれるのです」
あぁ、聖女が羨ましい。
そんな腕のいいコックがいれば、我も美味しい食事を毎日食べられるのだろうか。
だが、人間は魔物とは一緒に暮らせない。瘴気が人間を害してしまう。すぐに使い物にならなくなる。
分かり切っているのに、いまだに食事については諦めきれない。
でも、この聖女本人なら、どうだろうか。
聖女なら聖魔法で瘴気の影響は受けにくい。なんとか彼女を攫って監禁して、我のために使役することはできないだろうか。
だが、この聖女の有能ゆえに、彼女を無理やり捕獲して洗脳は難しいだろう。
周囲に護衛もいるだろうし、人間側の必死な抵抗を予想できた。
結局、我がごちそうにありつくことは難しそうだ。
はぁ。思わずため息が出そうになる。
本当に残念だ。
料理に感激しすぎて食事に夢中になっていたが、本来の目的をこなすことにしよう。
そろそろ聖女から情報収集をしなければ。
「クリステル様は聖女として優れているだけではなく、料理の腕も素晴らしいのですね」
我の褒め言葉に聖女は控えめに微笑む。
「家族や皆様の支えがあってこそですわ」
ほう、メリンカから話に聞いていたとおり、理想の聖女らしく、謙虚のようだ。
「ご謙遜を。学院に現れた強い魔物をクリステル様が追い払ったと聞きましたよ。最近では城でもご活躍だったとか」
我が追及すると、聖女は困ったように微笑んだ。
「私の活躍など些末にすぎませんわ」
聖女は口元に手を当てて優雅に笑う。
なぜか彼女は賞賛を回避したいように見えた。
配下から彼女について直に報告を聞いているから分かるが、過分ではなく適切な評価だ。
我の願望だろうか。——彼女は聖女としての自分の働きを快く思っていないように感じた。
それとも、魔王と戦うことを恐れているのだろうか。
だから、我はあえて彼女を試そう。
「この調子だと、あっさり魔王を討伐できそうですね」
「そうでしょうか」
聖女はまた困ったように首を傾げた。返事が素っ気なさすぎで、彼女の意図が読みにくい。
だが、はっきりと魔王への敵意を彼女を示さなかった。以前、我を倒した聖女とは明らかに違う。期待に胸が膨らんでいく。
「そうでございますとも。クリステル様は呪われたドレスを浄化されたほど聖魔法が抜き出ていらっしゃいます。国王の命令が下ってもおかしくはないでしょう」
「でも、争えば双方に被害が生まれます。その前に互いの妥協点を見つける歩み寄りの話し合いができればと願っています」
話し合い!
聖女からそんな言葉が出るとは!
思わず我は歓喜しそうになった。
「ほう。クリステル様は和平を望まれると。魔王と対話は恐ろしくないのですか?」
「いいえ! むしろ是非会ってみたいですわ!」
そう答えた聖女の目はキラキラと輝き、希望に溢れていた。予想外の反応に我は思わず二の句を失いそうになった。
「なぜ、そのように思われるのですか?」
「だって、魔王ですよ? 恐ろしい魔物たちから敬われているんですもの。人間の天敵とはいえ、とても素晴らしい方なんでしょう。その威厳と風格をわたくしも見習いたいですし、とても興味がありますわ」
クリステルは頬を赤らめ、恥ずかしそうに微笑み、まるで心奪われているみたいに、うっとりした目つきをしている。そのどこにも定まらない視線の向こうには、彼女の想像する魔王がいるようだ。
実際には、本物の魔王である我が、目の前にいるというのに。
予想もしない聖女の反応だったが、悪くはなく、むしろ面映い気分になった。
我に会いたいだなんて、そんな嬉しそうに言われるとは思ってもみなかった。
急に顔が熱くなってくる。体を流れる魔力が急に気になり出した。
そうか、我を見習いたいか。
聖女のくせに殊勝なことを言う。気に入ったぞ。
魔王として聖女に会うのが楽しみになっていた。
そうだ。料理が素晴らしかったから、交渉のときに聖女を求めよう。この女一人を寄越せば、我は魔物の鎮静化を約束する。
これならば、我も食事の問題が片付き、人間にも利がある。
聖女も我のそばにいられるなら嬉しいだろう。
我の専属料理人として食事を作りながら、魔物たちに料理の仕方を叩き込むのだ。
そして、この聖女が寿命でいなくなったとき、この王国を滅ぼそう。
我は敵対する者に容赦はしない。我を滅ぼした聖女は、元はと言えばフェルスタイン王国から遣わされた。よって、かの国を存続させるつもりは全くない。
復活した我に怖いものなどない。
とても愉快な気分になってきた。
「クリステル様は魔王を見習いたいのですか?」
エルクという男が聖女に話しかけている。眼鏡越しに黒い目を大きく見開いている。彼女の発言を意外に思った感じたようだ。
「はい。わたくし、実はあ――」
聖女が何か答えようとしたそのときだ。
屋敷の玄関から慌ただしい気配が聞こえてきた。
「あら、お兄様が帰ってきたのかもしれません。失礼しますわ」
聖女はそう断ると、席を立った。




