髪型
家で女中のマーサが、わたしのバラバラだった毛先をハサミで切って整えてくれた。
すっかりきれいなボブカットになって、頭が軽くて気持ちがいい。
気分転換したみたいに晴れ晴れしていた。
前世で髪が短かったときもあったから、特に髪型は気にしてなかったんだよね。
でも、夕食のとき、お父様がわたしを痛ましそうに見つめていた。
「……思い切ったことをしたものだ。クリスは、その、大丈夫なのか?」
「はい! この髪なら、誰からも求婚されないと思いますし、お父様だって他の貴族からもう言い寄られないですよね?」
本当に気にしていなかったので、安心させるように笑顔を浮かべると、お父様は驚いたように目を何度か瞬いた。やがて、参ったと言わんばかりに苦笑して肩をかすかに震わす。
「全く、クリスには敵わないな」
「そうですよ。髪が短くなったくらいでは、わたくしの価値は損なわれませんのよ」
「確かに、髪型がなんだろうと、クリスはクリスだ。うん、いつまでも気にするのは良くないな」
お父様もようやく腹を括ったようだ。
普段どおりの食卓を過ごして部屋に戻ると、お兄様から話があると言われた。
わたしの部屋にお兄様が入ってきて、いつもどおりベッドに並んで腰を下ろした。
お兄様の手がわたしの髪におずおずと遠慮がちに触れる。短くなったので、梳くというよりは、指で絡めるように戯れていた。
くすぐったいだけではない感触があって、なんだか落ち着かない。
「本当に短くなったね」
「スッキリして楽なんですよ」
「そっか。クリスが平気そうで良かった。でも……」
お兄様は言い淀むと、わたしを横から抱きしめてきた。
途端に伝わってくるお兄様の感触と温もりに、わたしの胸がきゅっとかすかに震える。
「ごめんね。今回はクリスを守りきれなかった」
その暗い声にびっくりして、少し体を離してお兄様の顔を見上げる。
「お兄様」
お兄様はわたしを真剣な顔で見下ろしていた。何か覚悟をしたみたいに強い気持ちを抱えて。
ふだんは穏やかで優しい紫の瞳が、熱を帯びているように潤んでいて、なぜかますます落ち着かなくなる。
「クリス、僕がずっといるからね。クリスが必要ないって感じるまで」
「お兄様?」
お兄様はわたしの手を取ると、自分の口元に持っていく。そっと口を寄せられると、お兄様の柔らかい唇の感触がした。
わたしの背筋にぞわぞわと電気が走ったような反応が起きる。
今までとは違い、甘く痺れるような感覚。
わたしの顔が熱くなってくる。体中までも。
お兄様に不審に思われてしまう。そう不安になって落ち着かなくなっていた。
自分の反応に違和感を覚えて戸惑ってしまう。
思わず視線を逸らすと、案の定お兄様は「クリス?」と怪訝そうに様子を窺ってきた。
「僕が信じられない?」
「いえ、そういうわけではないです」
ただお兄様の顔をまっすぐに見つめられないだけ。
お兄様を直視したら、もっと落ち着かなくなって、おかしくなりそうだった。
「じゃあ、神に誓うよ。愛の女神ミルロフィーネに。クリスが望む限り、僕は君のそばにいる」
わたしが驚いてお兄様を見上げた瞬間、お兄様の額の上に神の紋章が突然現れてまばゆいばかりに光り輝いていた。
すぐにお兄様の額に吸い込まれるように消えていく。
「お兄様、そんな。神に誓うなんて……!」
こんな行動を誓うような内容は、これから大いにお兄様の行動を制約してしまう。
そう心配したが、お兄様は全然あっけらかんとしていた。
「僕がそうしたいんだ。クリスが自分の髪を切ったように。それに、女神から加護がもらえるから、悪いことばかりではないよ」
そう言われると、やらかした身としては何も言い返せなくなる。
だから、お兄様のお気持ちを素直に受け取ることにした。
「お兄様、ありがとうございます」
いつものように抱きついてスリスリすると、包み込むようにお兄様に抱きしめられた。
お兄様の匂いがわたしにとって特別なのは変わらない。
でも、胸のドキドキが騒がしくて、目をつぶってリラックスできる状況ではなかった。
翌日、学院に行って教室に入ると、みんながわたしを見るや否や騒然となった。
「クリステル様、その髪、どうされたのですか!?」
アルメリア様が真っ先にわたしに尋ねてきたので、にっこりと笑顔を浮かべた。
「オホホ、ちょっと色々ありまして、自分で切ったんです! スッキリしましたわ!」
みんな口をポカーンと開けて、呆然としていた。
でも、アルメリア様は違った。すぐさま優雅に微笑むと、
「あら、とても可愛らしいですわね。わたくしも真似して切ってみようかしら。こんな機会、なかなかないですものね」
なんと粋な返しをしてくれた。
「あら、アルメリア様が髪型を変えるなら、わたくしたちもご一緒しますわ!」
アルメリア様といつも一緒にいるご友人二人もやる気だ。
「短いのも似合ってますね」
「ありがとうございます!」
そう褒めてくれる人もいた。
びっくりして遠巻きに見ている人はいたけど、眉をひそめる人はいなかった。
みんな、いい人で良かった!
それからいつものように中休みにお兄様とテラスに行くと、合流したベナルサス様がわたしを見て大きく目を見開き、とても驚いた顔をした。
彼は椅子に座っていたわたしに近づくと、いきなり目の前で膝をつく。
「ベナルサス様、お召し物が汚れますわ!」
慌てて止めるけど、ベナルサス様は全く動じなかった。
「クリステル様、その髪型は、リリアン様のためですよね?」
「え? そんなことはありませんわ。わたくしが自分のために切ったのです」
完全に否定したのに、ベナルサス様は分かっていると言わんばかりにうなずいた。
「リリアン様にお伝えしておきます。真っ先に行動してくれたクリステル嬢のことを。それから私もあなたを見習って髪を切ります。たくさんの励ましの言葉より、きっとそのほうがリリアン様のお心に響くでしょう」
もっと早く気づけば良かった。そうベナルサス様は勘違いしたまま、目を潤ませてわたしを見上げる。
「ベナルサス様、本当に違うんですよ? でも、リリアン様が髪の毛を気にせず学院に来れるようになったらいいですね」
そう言うと、ベナルサス様は嬉しそうに微笑んだ。
「そのお優しいお気遣い、感謝します」
「あの」
きちんと訂正しようと思ったら、それに構わずにベナルサス様はわたしの手を取った。そのせいで、びっくりして言おうとした台詞を忘れてしまった。
「この御恩は一生忘れません。もし、あなた様が何かお困りのとき、私はあなたのもとに必ず駆け付けましょう。心より感謝を」
そう言って彼は跪いたまま、わたしの手の甲に自分の額を当てた。
彼からの感謝の気持ちがすごく伝わってくる。
ベナルサス様は目を細めて、まるでまばゆいものを見る感じでわたしを見つめていた。やがて、しばらくしたら、満足したようにゆっくりと立ち上がる。
「あなたは本当に女神が遣わした聖女なのかもしれないですね」
ベナルサス様は、そう感極まったみたいにつぶやいた。
「そ、そんなことはないですわ! わたくし、これでもあ」
悪女を目指していると言おうとしたときだ。
『お待たせしました。ホットティーを三つ頼んだ35番のお客様』
喫茶店からアナウンスが流れてきた。
「あら、わたくしたちが頼んだものだわ」
注文していた飲み物ができたみたいなので、話を中断してすぐに受け取りに行った。
次で第六章が終わる予定です。