護衛辞任
お母様の部屋は、ほかの部屋と雰囲気が違う。
物が少ない部屋はいつもきれいに整理整頓され、薬の匂いが充満していた。
朝日が窓から差し込み、ベッドにいるお母様の黒い髪を優しく照らす。
柔らかくて少し癖のある髪質。色は違うけど、わたしとそっくりだ。
今日は調子が良いのか、わたしが近づくと、上半身をゆっくりと起こした。
優しい黒い瞳で、わたしをじっと慈しむように見つめる。
「クリス。気をつけて、行ってらっしゃい」
「はい」
いつものようにお母様に甘えるように抱きつくと、お母様も抱き返してくれる。
わたしの髪を何度か愛おしそうに撫でてくれる。
「クリスからはいつも良い匂いがしますね」
「お母様もそうですよ」
「そうかしら」
フフフと楽しげに笑う声を聞くと、わたしもつられて嬉しくなる。
今日は元気そうで良かった。
調子が悪いときは、起き上がれないほど辛そうだから。
いつものようにわたしは自分の魔力をそっとお母様に注いだ。
いつまでもお母様が元気でいられますように。
そう心の中で必死に祈りながら。
休み明けの学院は、いつもどおり平穏だった。
「先生、見てください! 魔力、止められたんですよ!」
基礎魔法の講義が終わったあと、先生に練習の成果を報告する。
わたしの手にある魔力計測器の針が、きっちりとゼロから動いてなかった。
「まぁ、クリステルさん。お休みの間に頑張られたんですね」
それを見て、先生は嬉しそうに微笑んでくれた。
周囲にいた生徒たちも、「良かったですね、聖女様!」と自分のことのように喜んでくれる。
「それじゃあ、魔タンクに補充もできるようになったんですか?」
「そ、それが……」
痛いところを突かれて、苦笑いを浮かべる。
「気を緩めると、一瞬で針が振り切れてしまうんです」
「まぁ、それではまだ魔タンクは無理ですわね」
残念そうに眉をひそめられて、内心単位の危機を感じる。
「あの、何かコントロールする良い方法はないでしょうか」
藁にもすがる思いで尋ねる。
「そうですわね。クリステルさんは自分の魔力を認識できたみたいですから、今度は流す量の調節になります。これもイメージに依るところが大きいのですが、道具から魔力を出すようにイメージするといいかもしれません」
「道具をイメージするんですか?」
「はい。たとえば、お茶を注ぐとき、こぼれないようにゆっくりとポットを傾けるでしょう? あんな感じです」
「なるほど」
先生の目の前でさっそくイメージしてみた。
頭の中に急須を思い浮かべる。お湯を入れて、蓋をして、取手を持ち、湯呑みに少しずつお茶をいれる。
「あら、クリステルさん。針がちょっとずつ動いていますわよ」
「え、本当ですか!?」
イメージをやめて魔力計測器を見た瞬間、一気に針が右側に動いてしまった。でも、確かに一瞬だけとはいえ、微量な魔力の流れをちゃんと確認することができた。
「この調子で慣れていけば、魔タンクの課題もクリアできそうですね」
先生の優しい言葉に思わず目頭が熱くなった。
一時は魔タンクを瞬時に破壊しちゃうし、お先真っ暗でどうなるかと思った。でも、みんなの応援や、特にお兄様のおかげでコツを掴むことができた。
「先生、ありがとうございました。みんなも応援ありがとうね」
上機嫌のまま教室を出ると、廊下で待っていたベナルサスと合流する。彼の赤毛は、目立って分かりやすかった。
「お待たせして申し訳ございません」
ベナルサス様は「いえ」と言うが、暗い顔をしたままだ。かなり機嫌を損ねてしまったようだ。
次は中休みだから、休憩時間は長い。だから、少し先生とお話しても次の授業には影響がないと思っていた。でも、自分の考えが甘かったのかもしれない。
「あの、本当にごめんなさい。魔力の制御で課題があったので、先生に相談していたのです」
再度謝ると、ベナルサス様は、ゆるゆると力なく首を横に振る。
「そのことで私は気に病んでいるわけではありません。アルトフォード様のことです」
「お兄様ですか?」
思いがけない言葉にわたしは面食らって、ベナルサス様の顔をじっと見つめる。彼の褐色の瞳が、ひときわ暗く沈んでいた。
「突然で申し訳ないですが、護衛を辞めさせていただきたいんです」
彼の申し出に驚きを通り越してショックを受けていた。
わたしのことならともかく、優しいお兄様が原因で護衛を辞めるなんて!
「どうしてですか?」
「それは王女と懇意にしているアルトフォード様がよくご存じでしょう。私はこれ以上何も言いたくないです」
ベナルサス様はとりつくしまもない。
赤毛の眉を歪ませて、彼自身もとても苦しんでいるように見えた。
「クリステル様がアルトフォード様と合流するまではご一緒します」
彼はそう言ってわたしをテラスまで連れて行ってくれた。
でも、お兄様がテラスに入ってきたら、宣言どおり避けるように彼はいなくなってしまった。
「あれ? ベナルサス様は何か用事があったの?」
彼の不在をお兄様は疑問に思っているようだ。
いつも三人で楽しくお茶をしていたから。
「それが……」
お兄様にベナルサス様の辞任について説明した。
「お兄様、王女様と何かあったんですか? ベナルサス様はなにやら不快に思っているようでした」
「いいや、僕には何も心当たりはないよ。でも、王女が何かしたのかもしれない。ちょっと情報を集めてみるよ。でも、クリスは変に噂が広まっては困るから、黙っていて欲しい。それに、代わりの護衛が見つかるまでは、辞任は了承できないから、彼と交渉できたらいいんだけど、きっと僕は避けられているよね。はぁ」
お兄様はとてもしんどそうにため息をついていた。今回の件は相当参っているみたいだ。
基本、わたしの護衛はお兄様が引き受けているけど、用事があるときはベナルサス様にお願いしていた。
「お父様にも相談してみませんか。何か良いお考えがあるかもしれません」
「うん、そうだね」
ベナルサス様に誤解とはいえ、恨まれている状況は、お兄様も辛そうだった。
キュッとお兄様の手を握る。
「お兄様、どんなことがあっても、わたくしはお兄様の味方ですわ」
そう正直な気持ちを伝えると、お兄様はくしゃりと破顔して、わたしの頭を撫でてくれた。
「ありがとう、クリス」
お兄様の指が、優しくわたしの髪を梳くように触れてくる。その感触が気持ちが良くて、思わず抱きついて甘えたくなるほど嬉しくなる。
でも、その日はベナルサス様とお兄様の関係が心配で、放課後までずっと頭から離れなかった。




