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ジュブナイル・イクリプス  作者: リル
グランドルート
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89.姉妹の話し合い

 次の日の夕方ごろ。

「来てくれたか、兄貴」

 仕事にも余裕が出てきたため、私はお姉ちゃんを、ここ「組織」の近くにある公園に呼び出していた。

 別に大げさなことを話すつもりではない。ある意味、どうでもいいことなのかもしれない。

 でも、どうしても私は、お姉ちゃんに「自分の声」で伝えたかった。

 ……自分がこれからどうしたいのか、ってことを。

 それもいつもの「元の姿同士」ではなくて、この、いつもと違う「別の姿同士」で。


「珍しいな。柾木から『別の姿』で話し合いたい、なんて聞かれるとは思わなかった」

 お姉ちゃんはそう口にしながら、やれやれ、と笑ってみせた。

 確かに、それはその通りである。私からお姉ちゃんをこんな形で誘ったことは、かなり珍しい。

 いつもお姉ちゃんに助かってばかりだったからかな、自分から行動を起こそうという考えがあんまりなかった。

 ……これは反省が必要かもしれない。

 お姉ちゃんだって、いつか私がこういうふうに話しかけてくれることを、ずっと待ってたかもしれないのに。


「……そうなのか」

 しばらく私の話に耳を傾けたお姉ちゃんは、やがてそう頷いた。

「柾木は、そういうふうに生きたい、って決めたのか」

「ああ」

 お姉ちゃんから少し目を逸らして、私はそう答える。

 やはり、いくらお姉ちゃんとはいえ、こういうふざけたことを口にするのは抵抗感があった。もちろん、こっちにしては真剣そのものなんだが、周りからはどうもそうは思われないんだろう。

「あんまり、驚かないんだな」

「まあな」

 お姉ちゃんの態度があまりにも平然だったから、私は思わず、そう話しかけていた。お姉ちゃんもそう思っていたのか、なんでもない顔で軽く頷く。

「なんとなく、今の柾木ならそういうことを決めるんじゃないか、とは思っていた」

「そうか」

「こう見えても、伊達に兄弟をやってきたわけじゃないからな。この場合、別に姉妹でも何でも構わないが」

 確かに、それもお姉ちゃんの言うとおりだった。

 いつも私のことを考えてくれているお姉ちゃんが、そんなこと、気づいていないわけがない。


「そして、やめろとも言わないんだな」

「ああ」

 私の話に、お姉ちゃんはそう頷いた。今度もあまり表情は変わらず、淡々とした態度だった。

「まあ、確かに兄貴に止められそうな気はあまりしなかったわけだが……心配にはならないのか」

「それを柾木が言っちゃダメだろう。自分が決めたことじゃないか」

「いや、そうなんだけど」

 自分でも、こんなことを言い出すのはおかしいって思っている。そもそも、もしお姉ちゃんが私を引き止めたとしても、自分の考えが変わることはたぶんない。

 なのに、どうして自分からこんなことを口にしたのか。

 ……自分のことだというのに、こういう時はどうしてこんな行動に出てしまったのか、まったくわからなくなる。


「そもそも、柾木が決めたことに、僕が口を挟むのはおかしいだろう」

 私の表情でいろいろ察したか、お姉ちゃんは苦笑いしながらそう言った。

「もちろん、僕も心配になるところはたくさんある。だが、柾木がそう生きたいと決めたら、そうした方がいいのは当たり前だ」

「……心配は、してるのか」

「それこそ当然だろう。君の兄、もしくは姉だぞ、僕は」

 確かに、それはそうだった。

 兄でも姉でも、目の前のこの人は、誰よりも近くで、ずっと私のことを見守ってきたんだ。

「それが大変なことになるってことは、こっちも薄々と気づいている。だが、どうやって生きたらいちばん嬉しいのかなんて、ちゃんとわかっているのは自分自身だけだ」

「そう、か」

 私の独り言に、お姉ちゃんはゆっくりと頷く。

 自分の思い込みかもしれないけど、その瞳には、妹、もしくは弟であたる私への確かな信頼が込められているような、そんな気がした。


「実は俺だって、未だに怖い」

 だからなんだろうか。私はつい、そう弱音を吐いてしまう。

「当たり前だな。兄貴も知ってる通り、俺はすごく現実的な性格なんだろ? そんなやつが、これから『普通』から離れますって、言いふらしてるようなものだからな」

「確かに、それもそうだな」

「でも、やはり、その――今までのように普通に生きるのは、息苦しくて耐えられない」

 他の人になら、絶対に口に出来ない言葉。

 秀樹とか、雫とか、美由美とか――みんなにも格好悪くて、結局話せなさそうな気がする本音。

「これからどうなるかなんて、ぶっちゃけ、自分でもよくわからない。別にこの道なら、絶対に後悔しないって思ってるわけでもない」

「……」

「自分でもはっきり言って、無謀だと思ってる。とても褒められる判断ではない。でも、このまま周りに合わせるだけじゃダメだと言うのは、確かだ」

「……」

「まあ、自分一人だけ我慢して、『今までの自分』でいたら全てが丸く収まるんだろう。もうそろそろ、それにも限界を感じてしまった。と言うのが問題なんだろうな、きっと」

「そうでもない」

「だが、俺がこんなワガママなことを、初めから思わなかったら――」

「でも、今の高坂柾木は、もうこのままじゃダメだ。自分が死んでしまう、なんてことを思ってるんだろ?」

「……」

 否定できなかった。

 そんな訳ないって、まだまだやっていけるって、建前でもそういうことは、口にできなかった。


「なら、自分がやりたいようにすればいい」

 正直に言うと、この時の私はかなり驚いていた。

 かつてお姉ちゃんが、ここまで真剣な顔で私について語ったことはあったんだろうか。

 もちろん、いつも私の話にはちゃんと耳を傾けてくれてるけれど、今回のように、鋭いことを口にしたり、自分の意見をはっきりと言ったことは……あんまりなかった気がする。

 いや、別にそれが嫌だとか、そういうわけではまったくないけれど――

 ――ああ、お姉ちゃんも私のように、「別の姿」になってから変わったところがちゃんとあるんだな、って、思ってしまった。


 以前、お姉ちゃんと話し合っていた時にも思ったけれど、こんな「別の姿」になって、初めて見えてきたところは色々ある。

 まあ、それも話すとキリがないんだけど……。

 その中でも未だに覚えているのを挙げると、やはりお姉ちゃんの賭け上手なところなんだろう。妹である私も、お姉ちゃんがそこまで運のいい人だったことはあの時初めて知った。

『すまないが、今の僕って、何かやってしまったのか?』

 あの時のお姉ちゃんの表情は、今思い出しても傑作だと言わざるを得ない。いつもは優しくて慌てることもあまりないお姉ちゃんなんだから、あの時の訳がわからないって顔は、たとえ「別の姿」だとしても貴重だった。

 とはいえ、慌てる顔を見せたのは賭け事が終わった時の話で、賭けの途中では、妹の私すら驚くくらい、表情が読めなかったわけだが……。

 たぶん、お姉ちゃんが「別の姿」にならなかったら、ああいうところ、まったく知らないままだったんだろう。

 あれからお姉ちゃんが、隙あらば「友達」である「組織」の仲間たちに、あの日のことをネタにいじられたことも、私からするとすごく微笑ましいことだった。

 ……きっとお姉ちゃんは、色んな意味で満更でもなかったと思うけど。


 きっとお姉ちゃんだって、「別の姿」になってから初めてされた扱いや、抱くようになった感情はたくさんあったんだろう。

 そもそも、「元の姿」のお姉ちゃんなら、男の人にぞんざいに扱われることはまったくない。いつも淑やかで柔らかな性格だし、男の人にもいつも一目置かれていた。たぶん、男から見ると、お姉ちゃんはいつだって高嶺の花だったんだろう。

 でも、「別の姿」のお姉ちゃんは違った。

 初めて「別の姿」で「組織」で働くことになった時、私が(自分のことを除き)いちばん驚いたのは、他でもない、自慢の姉が同僚である現場担当たちにひどくいじられていた姿であったくらいだ。

『お前さ、美咲とか、やたら女っぽい名前してんな』

『なんでいつもそこまで無駄に控えめなんだ。似合わないぞ』

 いつもお姉ちゃんの「いいところ」とされていたところがまるごと否定されていくのを目の前にした時、私は自分事でもないのにひどく戸惑ったことを覚えている。お姉ちゃんはもうずいぶんああいう扱いに慣れたのか、「これはいつものことだから、あまり気にしないでくれ」と、ほぼ達観した顔をしていた。

 とはいえ、廊下でいきなり背中を殴られて、「なんだ、ビビりやがって」なんて扱いをされた時は、お姉ちゃんも私の前だというのに、明らかに戸惑った顔をしてたけど。

 今でもそうだけど、お姉ちゃんが男からあそこまでぞんざいな扱いをされたことって、後にも先にもこの「現場担当」の時だけだったんじゃないだろうか。

 まあ、未だに『元の姿』は明かさずにずっと連絡しているのを見ると、お姉ちゃんもあの頃のことはまったく悪く思ってないはずだけど……。

 お姉ちゃんより仲間からひどい扱いをされた私だって、未だにあの頃の同僚たちのこと、大切に思ってるわけだし。


「で、話はこれで終わりか?」

 お姉ちゃんの声に、私はようやく現実に戻る。

 そうだった。私にはまだ、話さなきゃいけないことがある。

「いや、実はもう一つ、決めたことがある」

「なんだ?」

 ある意味、ここからが本番だった。

 私にとって、今、いちばん怖いもの。そして、何よりも乗り越えなければいけないもの。

「俺、お父さんに自分の意思、伝えたいと思ってる」

「意思、か」

「ああ、それに意思だけじゃない」

 私は、怖くなる心をぎゅっと引き締めて、そう話を続けた。

「お父さんに、何もかも明かしたいと思ってる。今まで辛かったこと、悔しかったこと。やはり自分がお父さんにされた扱いは酷かったということを、はっきりと口にしたい」

 それを聞くと、お姉ちゃんの眼差しが変わった。

 まるで考えもしてなかったことを聞いたような眼差しで、私をじっと見つめている。


「兄貴もこれには同感してくれるんだろう。別に俺も、お父さんが嫌いだとかそういうわけじゃない」

 まるで言葉を選ぶように、いや、実際そのつもりで私は話を続ける。

「でも、やはり今までお父さんが俺たちにとった態度は、酷いところがあったと思うんだ。お父さんのことは尊敬しているが、やはり全ての言葉に納得できていたわけじゃない」

 実は今、体が微妙に震えている。その震えをどうにか振り放つために、私は声にいつもより力を込めていた。

 自分から、お父さんを否定するようなことを口にしている。

 他の人ならともかく、私たち高坂姉妹にとって、それはとても恐ろしく、思い浮かべたくもないものだった。

「きっと、お父さんはあまりいい顔をしないと思う。怒られるならまだマシな方で、最悪の場合、どう転ぶか想像すら憚れるくらいだ。でも、やはり――あれはあんまりだったと、あの時には本当に苦しかったと、そう話してみたい」

「……」

 お姉ちゃんは、何も話さない。ただ、こちらの話をじっと聞いているだけだった。

 いつものような、何も話してくれないというのに、とても落ちつく空気。

 お姉ちゃんと私の関係は、どれほど姿が変わったとしても、いつだってこんな感じだった。


 ある意味、これはとても突飛な話だ。

 確かに私は、そろそろお父さんに自分の気持ちを伝えるべきだと思ったわけだけど――別に、お父さんに言われて辛かったことまで打ち明ける必要はない。

 だが、昨日の夜、秀樹と別れてから一人で考えていた私は、そんなことを思った。

 もし、お父さんに自分の意思を明かすとしたら、やはりここまで話さないといけないって。

 きっとお父さんは、私を「別の姿」にしておいて、自分が普通の人生を歩くんだろうって考えているはずだから。

 そんなこと、できるわけないのに。

 あの時のお父さんはそこまで考えてなかったかもしれないが、「別の姿」になってから、私は何もかも変わってしまったんだ。


 もちろん、それを後悔しているわけではない。だからこそ、私は「自分の生きたいように生きる」という、ある意味茨の道を選んだ。

 でも、やはりあの時の絶望やら、辛かった感情について、お父さんにちゃんと伝えないと何も始まらないような、そんな気がした。

 今の私は、生まれて初めて、尊敬するお父さんの意思に逆らっているわけだから。

 それならば――言い方はちょっと悪いが、いっそ徹底的に「悪い子」になってしまった方が、自分にとっても、お父さんにとっても楽だと思った。

 ……別に、そこまで悪くなるつもりはないけれど。

 要は、お父さんに嫌われたり、ひどく罵られても仕方ない、そう思い切っただけだ。それからどうなるのかは、未だにすごく怖いけど。


「だから俺、決めたんだ」

 そこで私は、声に力を入れる。

 怖いけれど、ひどく戸惑うけれど、それでも、ありったけの勇気を出して。

「今度こそ、お父さんと話がしたい。自分がどうやって生きていきたいとか、今までのこととか、全部、話し合いたいと思ってる」

 お姉ちゃんは、黙って私の話をじっと聞いていた。

 自分が「これからこうやって生きたいと思う」と喋った時と同じ顔で、何も話さず、私に付き合ってくれていた。

「もちろん、これが怖くないって言ったら、嘘になる。実は死ぬほど怖い。こうやって兄貴に打ち明けることで、ようやく自分を保てるくらいだ」

 自分が喋っておいてなんだけど、今の私って、すごく情けない。一応「組織」からそのまま公園にやってきたわけだからスーツのままなのに、普通に「別の姿」用のラフな私服を着ているお姉ちゃんよりも頼りなく見えてしまう。

 ……昨日、秀樹といっしょにいた時だって、ここまで惨めな気持ちにはならなかったのに。

 どうして今日はここまで、自分が情けなく思えてしまうんだろう。

「そうか」

 お姉ちゃんは、私の話を聞いて、そう頷くだけだった。

 そうしないでほしいとか、よくやったとか、そういう自分の意見は、一切口にしなかった。


「ひょっとして」

 だから、私はあえて。

 自分すら聞くことを戸惑っていた、「あれ」をお姉ちゃんに投げかけてみることにした。

「兄貴は、その、……悔しいのか」

「どうしてなんだ?」

 やっぱり、お姉ちゃんは訳がわからないって顔でそう聞き返してくる。このまま突っ走っていいんだろうか、私は一瞬悩んだ。

 でも、やはりこういう機会だからこそ、私は聞いてみたい。その答えはどうしようもないくらい、怖いけれど。

「あの時――俺がまだ『別の姿』じゃなかった時に、言ったんだろ。柾木ちゃんはそのままでいてね、ってこと」

「……あ、ああ」

 ようやく「あの頃」のことを思い出したのか、少し時間を開けてから、お姉ちゃんはそう頷いた。

「あの時、そんなことを言ってもらえたのに、俺は結局、こういう風になってしまった。それをなんとも思わないとか、そういうことはないだろうと思ってな」

「ああ、そうか……」

 お姉ちゃんは、遠い目になった。

 私から顔をそっと逸らして、ここではない、どこかに視線を落としている。

 あの時、お姉ちゃんは「私だけは」普通の子でいてほしいと思っていたのに――結局、私「たち」姉妹は、変わってしまった。

 それに、お姉ちゃんはともかくとして、私は変わってしまったところか、その変わった姿のまま、今までのように社会で働きたい、なんてことを語っている。

 ……心が複雑にならないわけがない。

 きっと、今のお姉ちゃんはどうしようもない気持ちなんだろう。


「たしかに、柾木も以前と比べるとだいぶ変わったな。でも、もちろん変わったのは柾木だけじゃない」

「……」

 わかっていた。

「別の姿」になって、良くも悪くも変わってしまったのは、自分だけじゃない、ってことくらいは。

「これを喜ぶべきか、嘆くべきかは自分にもよくわからないが……僕も、『あの時』からはずいぶん変わってしまった」

 私は、未だに覚えている。お姉ちゃんの「別の姿」を、初めて見た日の朝のこと。

 ――あの時のお姉ちゃんは、初々しいっていうか、かなり「別の姿」でのぎこちなさが感じられた。あの頃の自分はまったく気がついてなかったが、今の私なら、はっきりとそれがわかる。

 でも、やはり今のお姉ちゃんは、どこか手慣れた感じで。

 お姉ちゃんから見ると、それは「変わってしまった」証でしかないんだろう。

「まあ、僕らも人間ってわけだし、変わってしまうのはしょうがない。特別な事情があったとはいえ、それは誰にも止められないことだ」

「……そうだろうな」

 きっと、お姉ちゃんは「私だけは」普通でいてほしい、と願ったんだろう。少なくとも、今のような私はあまり想定してなかったはずだ。

 でも、私はいろいろな意味で、変わってしまった。

 昔の自分のことを考えると、どうしても耐えられなくなってしまうけれど――それでも、今の私はこうして変わってしまったし、やはりそれを後悔してはいないんだ。

「だから、たしかに思うところはいろいろあるわけだが――それでも、僕は今の柾木のことが好きだし、誇らしく思う」

「……助かる」

 お姉ちゃんにああいう答えをもらうと、やはり嬉しい。

 どれだけ「普通」じゃなくなったとしても、「普通」とは違う道を選んだとしても――お姉ちゃんは、ずっと私の味方でいてくれるんだ。

 もちろん私だって、お姉ちゃんのことを好きな気持ちは変わらない。

 どれだけ「別の姿」だとしても、私はいつまでだって、高坂美咲という、自分のお姉ちゃんの一番の味方だ。


 考えれば考えるほど、これから自分がやろうとしているものは無茶だ。

 だって、まだ何も割り切ってないというのに、「これからはこうやって生きていこうと思う」なんてことを、親に打ち明けようとしているわけだから。

 怖くなかったら、それこそ嘘になる。

 でも、やはり私は、お父さんと面と向かって話すべきだと思っていた。未だにとても尊敬しているし、別に逆らうつもりとかはないけれど、それでも、自分が思っていたことを伝えたいと思った。

 ある意味、これは初めて、私がお父さんに反旗を翻す許されない行為。

 お父さんからどれほど反対されても、私は自分の意見を貫くつもりだという、自分勝手で責められるべき行為。


「怖いのか」

 私の顔をじっと見ていたお姉ちゃんは、やがてそう聞いてくる。

 きっと、今までずっと私のことを見守ってきたお姉ちゃんだからこそ、心配になってしまったんだろう。

 私も、お姉ちゃんも、お父さんの前ではいつだっていい子だった。お父さんに逆らったことなんて、今まで一度もないし、考えたことすらない。

 それくらい、尊敬していたから。

 お父さんの前で「悪い子」になるとか、そんな恐ろしいこと、できるわけないんだから。

「ある意味、それも当たり前だ。お前がさっき言った通り、僕たちはあまり、お父さんに逆らったことがないから」

「そう、だよな」

「だが、その怖い感情に正面から向かい合うだなんて、自分には到底できそうになかった。あまりそう見えないかもしれないが、今の僕は、すごく動揺している」

「そうなのか?」

「ああ」

 私は、少しだけ驚く。

 いつも落ちついた印象のお姉ちゃんが動揺しているだなんて、それだけでも驚きだというのに、その原因が、おそらくこちらにあるとしたら。

 ――むしろ、こちらの方が動揺してしまう。

 でも、やはりこれって、私の聞き間違いなのでは――


 でも、お姉ちゃんは淡々とした口調で、話を続けた。

「だから、今の僕は、お父さんに自分から意思を伝えようとする柾木のことを、心から凄いって思っている」

 自分の耳が信じられない。

 まさかお姉ちゃんに、こんなことを聞かれるとは思いもしなかった。

「いや、別に、まだ俺は何もやってないけど――」

「それでも、そうしたいと思う、と僕の前で言ってくれたんだろう」

 その話に、私は何も言い返せなかった。

「僕ならそういうこと、口にするところか、思いつくことすらできない。自分から言うのもなんだが、やはり僕って、すごく臆病だからな。ああいうのを誰かに話せるのは、やはり柾木のいいところだ」

 お姉ちゃんの真剣な眼差しから、視線を逸らすことができない。

「っていうか、子供の頃から、僕はそんな柾木にずっと憧れていた、と言ったら信じるか?」

「……マジか?」

「ああ、大マジだ」

 お姉ちゃんの顔は、いつにも増して真剣そのもので。

 私はその言葉を否定したり、聞かなかったことにしたりすることができなかった。

「どうやら柾木の方は僕の方を慕ってくれたようだが、僕からすると逆だった。いつだって柾木は、僕の憧れだったよ。自分は絶対にああなれないんだろうなって、いつも羨ましがってた」

「……そう、か」

「自分が持ってないことを羨ましく思う。これはいつだってそうだな。この『別の姿』になってから、僕は少しでもお前に近づけるんだろうか、とずっと思っていた。自分のことはいつもはっきりと口にできて、遠慮なんてしない柾木のようにな」

「……」

「だけど、やはりそれは無理だった」

 お姉ちゃんは、いつの間にか、遠い目をしていた。まるで昔話でもするような表情で、こちらに向けて語りかけている。

「それもまた当たり前のことだ。たかが姿一つ変わったくらいで、自分自身が劇的に変わるわけじゃない。結局僕は、柾木のようにはなれなかった。お前が今まで見てきたようにな」

「兄貴、その、俺は――」

「でも、それでいい」

 そこでお姉ちゃんは、私に向かって「いつものような」笑顔を見せてくれた。

 お姉ちゃんが「元の姿」の時にも、「別の姿」の時にも、やっぱり変わることはなかった、あの優しい笑顔を。

「お前のようになることは叶わなかったが、僕は今の自分に満足している。確かに、振り返ってみると色々なところが変わってしまったな。その全部が自分の求めていたものかとすると、やはりそれは違う。だが、柾木が話していた通り――変わらなかった自分も、変わってしまった自分も、どれも今の僕にとっては、かけがえのないものだ」

「……」

 私は黙ったまま、その話をじっと聞いていた。

 今まで一度も聞いたことのないような、お姉ちゃんの真っ直ぐな気持ちに、ただただ圧倒されていた。


「さっき、柾木は話していたな。お父さんのことは尊敬しているが、やはり全ての言葉に納得できていたわけではない、と」

 私は静かに頷く。お姉ちゃんの視線は、また遠いところに向かっていた。

「こんなこと、今まで一度も口にしたことはないが、それは僕も同じだ。やはり僕も初めて、お父さんに『別の姿になれ』と言われた時には非常に戸惑った。それも当たり前だろう。いきなり自分のアイデンティティーに関わるところを変えろって話を聞いて、すぐ納得する方がおかしい」

「……」

「だけど僕は、そこで反論できなかった。いつものように黙って、お父さんに従うだけだったよ。あの時、誰よりも怖くて、断りたくて仕方がないのは他でもない自分だったのに。あれからもお父さんは時折僕にひどいことを言ってきたわけだが、その時だって、僕は何も言い返せなかった」

 わかっていた。

 お姉ちゃんがお父さんに大声を上げられない人間だったということは、私も子供の頃から、ずっと気づいていた。

「だから、今日お前からああいう話を聞かされて、正直に言うと、かなり驚いた。やはり僕は柾木には敵わないな、と何度も思ったよ。そして、できる限りその背中を押してあげたいとも思った。今までずっと黙っていた僕が、今更ながら前に進むためにもな」

「それって――」


 私の反応を見て、お姉ちゃんは頷いてみせる。

「だから、僕は柾木を一人にはしない。もし柾木がちゃんとお父さんに自分の意思を明かせたら――僕もそれに続こう」

「……それって、どういう意味だ?」

 自分も知らぬ内に、目が丸くなる。でも、お姉ちゃんはいつものような澄ました顔で、私の顔をじっと見つめていた。

「さっき話した通りだよ。柾木が無事、お父さんにさっきのことを口にできたら、僕も自分の思いを、お父さんにぶつけたいと思う」

「本気か?」

 私はここまで来て、自分の耳を本気で疑いたくなってきた。

 あの穏やかで、誰かに不満を口にすることなんか見たこともないお姉ちゃんが、お父さんに、自分の辛かったところを口にするだなんて。

 ――それも、私に影響されて。

 私の力になりたいという、その理由一つだけで。

「とはいえ、あまり誤解してほしくはないな。確かにこれは柾木のためでもあるんだが――僕自身のためでもある」

「……兄貴も、その、勇気を出したくなったのか」

「ああ、これも全部、柾木のおかげだ」

 清々しい顔で、お姉ちゃんはそう頷く。このようなお姉ちゃんの顔も、未だに見たことのないものだった。


 ――やはり、私は一生をかけても、お姉ちゃんには敵わないんだろうな。

 あまりにも今さらだが、私は改めて、それに気づく。

 もちろん、これは昔からずっと知っていたことである。お姉ちゃんは私より背も高いし、体も大人びていた。私とは違って非常に落ちついた性格だし、誰かに感情をぶちまけるような人間でもない。

 でも、「別の姿」になってからしばらくして、自分の体格がだんだん良くなってきてから、私は少しだけ、お姉ちゃんとようやく背を並べたかも、と思っていた。少なくとも「元の姿」よりは様になってるし、そう思い込んでもいいんじゃないか、なんてことを考えていた。

 もちろん、これはあくまで思い上がりだ。本当のところ、お姉ちゃんと私が一度でも同じ立場にいたことって、あったかどうかすら怪しい。

 でも、「別の姿」でならお姉ちゃんと肩を並べられるかもしれないって思ったら、やはりどうしても、そう思い込んでしまうんだ。

 それがたとえ、見てくれに過ぎなかったとしても。

 憧れのお姉ちゃんと同じところに立ってると思い込むだけで、私は幸せだった。


 でも、やはり所詮、それは思い込みでしかなくて。

 こうやってベンチで肩を並べて、ほぼ同じ高さでお姉ちゃんと視線を合わせていても、やはり私は、お姉ちゃんには敵わない。

 確かに、遠くから見ると「少しは」追いついているように見えるだろう。私もこの姿だと、お姉ちゃんと背もそこまでかわらない。体も大きくなってるし、外側だけならお姉ちゃんと同等になれたと言えなくもないだろう。少なくとも「元の姿」よりは。

 だが、それは結局、こっちの思い込みだ。

 姿なんて、見かけなんて、そんなこと、中身に比べるとたいしたことじゃない。もちろん、今を生きる人間なら体の方も無視なんてできないが、それが全てというわけでもない。

 ……なんで人って、ここまでややこしく出来ているんだろう。

 いつもながら、それに気づく度に、自分があまりにもちっぽけな存在に見えてしまう。結局、どれだけそれっぽく外側を繕ってみせても、中身が変わらない以上、「お姉ちゃんに追いついた」なんて、結局傲慢でしかないんだ。

 お姉ちゃんは、私がお父さんに自分の気持ちを明かすと、自分も勇気を出して、お父さんに自分の気持ちを明かす、と言ってくれた。

 ……私なら、そんなこと、怖くて到底言えない。

 お姉ちゃんだって、誰かに自分の辛い気持ちを素直に口にすることなんか、怖くて怖くて仕方がないはずだ。

 でも、お姉ちゃんは「自分も柾木に続く」と、私の背中を押してくれた。

 ただ自分だけのために、お父さんに気持ちを打ち明かすと言った、私のことを偉いって、自分には敵わないって褒めてくれた。

 ――私たちって、本当に似たもの同士だな。

 お互いに足りないところを羨ましがって、それでも自分のことを大切に思っていて。

 そこまで考えると、今までお姉ちゃんのことに憧れていたこともなんだか微笑ましく思えてきて。

 私は思わず、心の中でふふっと笑ってしまった。


 その時。

「お父さんからだ」

 急にかかってきた連絡に、私はお姉ちゃんのところを向く。お姉ちゃんはゆっくりと頷いて、私から背を向けた。

『……どうしたんですか』

『話したいことがある』

 やっぱりお父さんだ。いつもながら、余計なことは決して口にしない。

『今から時間は大丈夫か』

『はい、空いてます』

『それじゃこれから十分後、「組織」の庭まで来るように。わかったか』

『わかりました』

 連絡はすぐ終わった。私は少しだけ緊張したまま、お姉ちゃんを呼び戻す。

「計画が早まった」

 私はお姉ちゃんから視線をそっと逸らして、ため息をつく。自分から話しかけるつもりではあったが、まさか、ここまで機会が早くやってくるとは思わなかった。

「そうか」

 お姉ちゃんは、ただそれだけを口にする。お姉ちゃんにも突然の話だったはずなのに、その態度はすごくいつもどおりだった。

 しばらく、二人とも何も話さない。これからどうなるか、何が起きるか、二人揃って考え込んでいたからだ。

 私はお姉ちゃんじゃないけど、きっとそう。こういう時、私たちはそういう反応をしてしまうから。

 でも、そろそろ、ここを離れなければならない。

 私には、これから大切な用事があるんだ。

「まだ、怖いか」

「いや、……平気だ」

 こちらを心配する素振りを見せるお姉ちゃんに、私は首を振ってみせた。

 もちろん、これは少しだけ嘘だ。まだ怖い感情はちゃんと残っている。できるなら、まだお姉ちゃんに弱音を吐きたくて仕方がないくらいだった。

 でも、もう私は、行かなければならないんだ。

 自分のために、そして、自分のことを誰よりも信じてくれる、お姉ちゃんのために。

「それじゃ、行ってくる」

「ああ」

 私はそう口にしてから、ベンチからゆっくりと体を起こした。お姉ちゃんは相変わらず座ったままで、こちらのことをじっと見つめている。

 それに少しだけ照れくさい気持ちになりながら、私がその場を離れようとすると――

「柾木」

 後ろから、お姉ちゃんの声が聞こえてきた。私は導かれるまま、振り返る。

「あまりこういう言い方は、僕の柄じゃないと思ってる。だが――」

 お姉ちゃんの、いつにも増して真面目な表情。

 私は思わず、体が固まるのを感じた。

「お前は――高坂柾木は、他でもない僕の妹だ。お前ができるやつだというのは、この世の中で、僕がいちばんよく知っている」

「……兄貴」

「行ってこい」

 その声はとても力強く、いつものお姉ちゃんとはかけ離れたもので。

 私はその、言い慣れてはいないけれど迷いのない話し方で、お姉ちゃんはちゃんと「変わった」ことと、「まったく変わってない」ことに気づいたんだった。

「ああ」

 だから、私も声に力を込めて、そう答える。

「行ってくる。待っていてくれ」

 きちんとお姉ちゃんに報いるために。

 そして、他でもない自分自身のために――

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