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冬の我

作者: 藤原博也

その店の薄暗い店内に慣れるまでには暫く時間がかかった。

 洞窟をおもわせる店の壁面はローソクの明りに照らされ、くっきりと陰影をつくり、実際の壁面以上の起伏を演出していた。

 久しぶりに人混みを歩き疲れた私にとって、この店はしばし新宿の街にいることを忘れさせてくれた。

 友人に会うために来たのたが、用事が済んでも素直に家路を急ぐ気にはなれず、わたしは、昔よく歩いた新宿御苑の塀沿いに暫く歩いたあと、陰気臭い裏通りの昔馴染みの店に入っていた。

初めての客の殆どが戸惑いをみせる木製の重いドアは油切れの音がした。

 あたかも異質な世界の入口を演出するかのようなその音が久しぶりで懐かしかった。

客は八分の入りであった。

私は何年も使い古したぶ厚い無垢のカウンターにひとり向うと、桝酒を注文した。

「誰かと待ち合わせ。」

 五分もしないうちに黒いセーターに金のアクセサリーを付けた女性が話しかけてきた。

「別に・・・・・・。」

「だって時折、辺りを見回しているじゃない。」

「それはこの店が久しぶりだからさ。」

「どのくらい?。」

「・・・・・わすれた。でも八年以上はたっていると思うよ。」

「そんなに。それじゃ貴方の年齢は二十八以上ね。」

「どうして。」

「だって、此処はお酒を飲むところでしょ。だから二十歳の時に来たとしても二十八だわ。」

「なるほど。でも十六で酒を飲む不良もいる。」

「十六で八年ぶりだとすると・・・・二十四歳。」

 彼女は屈託のない表情で私を見て笑った。

「老けた二十四の男もいるのさ。」

 バーテンが慣れた手つきで注文した桝酒を出した。

「えっ。日本酒を飲むの。」

「此ればっかり。」

「変わっているのね。」

「・・・・・。」

 私は桝の端にのっている塩をなめながら黙って飲んだ。

「おいしい?。」

「ああ、俺にはね。」

「飲ませて。」

 私は初対面の違和感も感ずること無く、桝をそっと彼女の方に滑らせた。

 彼女は飲口がどこか分からず迷っていたようだったが、やがて桝の角に唇を当てて呑み初めた。

「美味しい。お酒ってこんなに美味しかったの。」

私の方に向きを変えて話す彼女の瞳は輝いていた。

「特に生酒はね。」

「でも格好が悪い。」

「味が良ければ構わないさ。」

「だめよ。スタイルがあるんだから。」

「そんなもんかね。」

「そう。」

「ちょっと私のを飲んでみて。」

「なんだいこれ。」

「マルガリータ。」

私は彼女の差し出したグラスに口をつけた。

グラスの縁の塩との調和が絶妙で、決してまずくはなかった。

「やっぱり似合う。」

「何が。」

「お酒よ。貴方は日本酒より洋酒の方が似合うわ。」

「そんなもんかね。」

「そうよ。」

 私は黙って桝酒に持ち変えた。

「桝酒を飲んでいるような野暮な男に話しかけてくるなんて、よほど暇なんだろう。」

「ううん。今日は私の誕生日なのよ。」

「だったらおかしいじゃないか。誰も祝ってはくれないの。」

「ううん。私はいつも誕生日には一人になるの。だって生まれた時は一人でしょ。だから一年に一度、誕生日になると一人ぼっちになって自分を見つめてみることにしてるの。」

「面白いね。」

「そうかしら。」

「だって普通の人は誕生日になると友達を沢山集めて祝ってもらおうとするだろ。」

「普通の人はね。でも私は普通じゃないから。」

「たしかに普通じゃない。でも怖くないからだね。」

「何が。」

「死ぬことが。」  彼女は緊張したような素ぶりをみせながら、私をまじまじと見つめた。

「どうして誕生日に一人だと、死ぬのが怖くない人なの。」

 彼女はややむきになり、真剣な様子で尋ねた。

「だって誕生日を迎えることは、一歩一歩死期が近づいていることを一年という単位の中で確実に自覚する事だろう。」

「なるほどそうね。」

「だからそんな恐怖を忘れるために、人は知らず知らずのうちにみんなで騒いて忘れようとしたんだ。」

「それが誕生パーティーになったの?。」

「そう。俺の説だけど。」

「面白い。貴方も普通の人じゃないわね。」

「ありがとう。」

「じゃ。乾杯ね。」

「君の誕生日に?。」

「いやよそんなの。誕生日はお祝いでないと言ったのは貴方よ。」

「そうか。・・・それじゃ・・・普通でない二人の出会いに。」

 彼女は微笑みながら左手にグラスを持ち替えると、桝酒の隅に遠慮がちにグラスを合わせた。

店内は煙草の煙とローソクの薄明りの中でぼんやりとかすんでいた。

「でも不思議ね。人生って。」

「どうして。」

「だって、さっきまで他人の貴方が、今は私と親しそうに話している。」

「あたりまえさ。」

「どうして。」

「さっき君は、『生まれた時は一人ぼっち。』って言っていただろ。つまりそれ以降に知り合った人間は、みんな初めは他人だったんだから。」

「そう言えばそうね。」

彼女は子細げに首を少し曲げて私を見た。

肩をつたわって髪がすこしずつ胸元に落ちていく。その一本一本はローソクの明りの中で、艶やかに輝いていた。

「私のことどう思う。」

「難しい質問だね。」

「嫌いじゃないでしょ。」

「・・・・ああ。でもよく知らないし。」

「やっぱり二十八以上だわ。」

「どうして。」

「外見で答えてくれればいいのよ。」

「なら、好みのタイプに入るかな。」

「よかった。じゃ、一つお願いしてもいいかしら。」

「なに。」

「私と街を散歩してくれない。」

「寒そうだけど・・・・・。」

 答えをためらっている間に、彼女は既に席を立っていた。

 レジの精算が済むと彼女は自分のコートをはおり、重いドアを開けた。

 その身のこなしの軽さと、颯爽とした後ろ姿がやけに鮮かだった。

 軽やかに歩く彼女のあとを、私はやや戸惑いの表情を見せながら歩いた。

「どうしたの。つまらないの。」

「そんなことはないさ。」

「だって、ぼんやり歩いているから。」

「どこに行こうか迷っている。」

「いいの。私と一緒にこの街を歩いてくれれば。」

「わかった。」

 彼女は私を元気づけるかのように腕をくみ、体を寄せてきた。

 細くしなやかな髪が私の肩にかかる。

 髪がゆれる度に、髪の香りがほのかにゆれた。

「面白いわね。」

「なにが。」

「だってさっきまでの他人が。」

「また言ってる。」

「・・でも今は恋人同志みたい。」

「行き交う人にはそう見えるだろうね。」

「・・面白い。」

 彼女は痛快そうに言うと、わたしの腕にからめている手に力を込めた。

「どうせなら、本当の恋人同志のように一瞬だけ本気で口づけをしてみないか。」

「本気で?。」

「そう、本気で。」

「いいわよ。」

「よし、決めた。」

 私たちは表通りの行き交う人混みを避け、ビルとビルの間の狭い裏通りに入って行った。

路地に入るともはや殆ど人通りはなかった。

どこかの店の裏口のビールケースの積んである壁の横に身を隠すように寄りかかり、わたしはゆっくりと彼女を引き寄せた。

彼女は体をあずけるように目を閉じた。 肩を引き寄せたとき、彼女の震えが分かった。

 彼女は覚悟を決めたように私の胸に強くしがみついていた。

その意地らしさは、昔からの恋人といるような一瞬の目眩を私に覚えさせた。 「・・・これも愛かな。」私はそんな事を思った。

「ねえ。抱き締めて。」

「ああ。」

「だめ、もっとつよく。」

「・・・・。」

わたしのコートの中でうずくまるように身をつぼめた背中は、想像以上にきゃしゃな感じがした。

「私、今ごろの時間に生まれたのよ。」

「そう・・・。」

うなじをそっと引き寄せると黒髪に頬を寄せた。

「聞こえるわ。」

「なにが。」

「風の音。」

「まるで木枯らしの中にいるみたい。」

「貝殻を耳元にあてた時みたいだね。」

「ちがうわ。ほんとうに木枯らしの音よ。」

「私の生まれたときもきっとこんなふうに寒かったんだわ。」

「・・・寒いの?。」

「少しだけ。」

私はコートの上からやや力を込めて抱き締めた。

「貴方に出会えてよかった。」

「ああ。ぼくもだよ。」

「愛していると言って。」

「愛している。」

「本当に?。」

「よく分からないけど、本気で愛しているみたいだ。」

「よかった。一人くらい私のことを愛してくれた人がいてもいいわよね。」

「まさか。」

「ほんとうよ。愛してくれたの、貴方が初めてよ。」

「嘘でも嬉しいよ。」

「うそじゃないわ。」

彼女は真剣に私を見つめた。

 その瞳は涙で潤んでいるようにも見えた。

「ねえ、寒いわ。」

「ああ、そろそろ帰ろうか。」

「ええ。」

「どこに向かえばいい。」

「一度、あの店に戻りたいわ。」

「また飲むのかい。」

「ちがう、忘れ物をしたの。」

「そう。」

彼女は寄りかかるように私の腕に掴まりながら歩いていた。 店を出た時のあの軽快さはどこにも見られなかった。

店の重いドアの前まできた時、彼女は私の腕を離れちょこんと後ろに立っていた。

私は両手に力を込め、再びドアを開けた。やはり油切れのきしんだ音がした。

店内の何人かがその音で私の方を見た。

私は彼女を店内に入れようと振り向いた。

しかし、どこにもその姿は見当らなかった。

路地を通る酔った客の歓声がどこからともなく響いてくるだけであった。

うすく開け放たれた重いドアの隙間からは木枯しの音が聞こえていた。

何度か見回したが、結局どこにも彼女はいなかった。

ウエーターの胡散臭い視線を感じ、私は仕方なしに店の中に入った。

カウンターに坐ると、また桝酒を注文した。

バーテンが桝酒を差し出した。

「お客さん。肩に何か付いていますよ。」

「えっ。」

見ると粉のような物だった。

手で払うと指先にその粉が付いた。

その粉はローソクの明りの中できらきらと輝いていた。

「何だろうね、これ。」

「その粉ですか。」

バーテンは薄ぐらがりの中で目を細め、その粉の付いた私の指先をのぞき込んだ。

「これは鱗粉ですよ。」

「鱗粉?。」

「まさか、この季節に。」

「本当ですよ。何年かに一度いるんです。冬の蛾が。」

「冬の蛾?。」

「ええ。最近は冬でも暖房をしているでしょう。まして深夜遅くまで営業している店は一日中暖かいときてるから本当に稀にですけれど、冬に生まれる蛾がいるんです。」

「・・・・・・。」

「でも、可愛想なことに冬に生まれてくる蛾なんていつも一人ぼっちというか、一匹ですから卵を生むこともなく直ぐに死んでしまうんですがね。」

「そういえば今日も見ましたよ。大きくて模様の奇麗な蛾を。ほら、あそこの壁についていたんです。あれ?おかしいな。確かいたはずなんですけど。」

バーテンは仕事の手を休め、壁を指差しながら言った。

私は桝酒を一息で飲み干すと再びおかわりを注文した。

「大丈夫ですか。そんなに一息で飲んで。」

バーテンの声がぼんやりと聞こえた。

「そう言えばね、蛾の中には日本酒が好きで酒樽に寄ってくる蛾がいるそうですよ。」

「ほんとうかい。」

私は遠く幽かにバーテンの声を聞きながら、酔いにまかせ静かに目を閉じた。

遥か遠く、木枯しの悲しい風音が確かに私の耳には聞こえていた。


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