8月30日 (火) 夕方 — 8月30日 (火) 夜
今日は晩御飯に合わせてところてんも買って帰りましょう
そのところてんは食べず、2歳児のようにぐちゃぐちゃにして捨てちゃうのです。
食べ物を粗末にしたら神様に怒られるけれど、怒っていたって神様は、そんなあなたを見ていますよ。な夏。
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8月30日 火曜日 夕方
セイデンジの霊園にある墓の前で、供えられた花びらが舞い、花びらのなくなった茎が地に横たわる。そこにしゃがみ荷物を持たない者ひとり、花占いをしている。続くは鼻歌か、軽快なメロディが私たちの耳に忍び入る。ちぎった一枚の花びらを口元に近づけ、ふっと息に乗せて墓の側面を撫でる様に落下していく。
「あなたはどう……。死んで良かった? もっと生きたかった?
ちゃんと、私は、私を大好きな人たちにはしっかり『贈り物』を届けて去りたい。
でもどうせ、それを受け取った人の顔なんて楽しめないじゃない?
どうなったって関係ないんだから。なら、いっそ——……」
弄びこねくり回す心の中を、しゃがみ込む彼女の髪の毛だけが私たちに伝えてくれる。
*
8月30日 火曜日 夜
町に着いた。僕はどんな顔でそこに立っていたのだろうか。わからない。わからないほどには感情が荒れていた。心情とは相反して、一歩、また一歩と踏み出す足が動く瞬間を認知できるほどにはゆっくりとした冷静さもあった。脳で体を動かしている様な気分だ。彼女の黒い鞄を両手で強く抱きかかえ、襲われる緊張感と訪れるかもしれない恐怖の予感からくる鼓動の高鳴りを押さえつけ沈めようとしていた。駅を出て、もしかしたらそこに彼女がいるかもしれないとの微かすぎる期待を持って、遠出を発案した公園を通ることにした。
公園に向かっている途中、奥から男が飛んで来て「アキネ…!アーキネーーー!」と僕を呼んだ。誰だっけ。それよりも公園に……
「どこ行ってたんだよ?? て、どうした!? そんなに真っ青な顔して!」
僕は顔が青いようだ。
「え、えっと……」とどもりながら顔を見た。肩を持たれ揺すられていると、まるでしこりがほぐされていく様に、僕の意識も徐々に取り戻されてきた。ああ、クラスメイトのウシオくんだ。
「イオリちゃんは!?」
「え、いや——」
それは僕が知りたいことだと言いかけたその時、ウシオくんの背後から彫りの深い、見たことのある目の色をした大人が現れ、僕の抱える鞄をひっぱりとった。
「これは、あの子の鞄……」
だめだ、返せ。それがないと流れ出てしまうではないか! 抑えつけなければ、抑え塞ぎこまなければ!! こわい! ふあんだ……! イオリちゃんが——。そう考えていると、栓の外れた僕の胸元から砂とも水とも気体とも言えない不純物が一斉に垂れ流れ出した。それらは僕の体を暗く深いどこかへ連れていく様に、強く引かれる感覚がした。
気づくと僕は、鞄を取り上げた大人に、胸ぐらをつかみ持ち上げられていた。顔が近い。言葉が直に耳に入る。
「娘は、どこだ」
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8月30日 火曜日 夜 20:48
ぽっくりと気楽に倒れるんだと、さっきまでの元気さを鑑みるとそう思えていてもなんら不思議ではなかったのですが、やはり、時間は経つもの運命は迫ってくるもの。じわじわと体の節々が重く、土に還れと言わんばかりに地に引き寄せられてしまいます。眠たい。はは、お母様に背持たれるなんて、なんとまあ罰当たりなことでしょう。今更関係ないか……。そうです、これで良いのです。むしろ安心です。ほら、わたしひとりで失踪してもやり場がないじゃないですか。アキネくん。あなたの息子さんと一緒でなきゃだめなの。父と母のために。怒りのやり場として……。
*
8月30日 火曜日 夜 20:57
「セイデンジ!?」驚くイオリの父から、だんだん事の重大さが脳と心で理解してきた。腕が勝手に、胸ぐらに掴みかかったイオリの父の手を叩き、解放されたと同時に、のどや肺が咳き込み呼吸を整えていたほどには、僕は脳以外で体を動かし始めたようだ。
「カンダナでひまわりを見て、そのあと一緒に列車に乗って帰ってきたのですが……」
「おらんのだよ! じゃあどこにいるんだ、なあ、君! イオリはどこにいるんだ! おい!!」
「おじさん、落ち着いて!」と、また掴みかかられそうだった勢いをウシオくんが止めてくれた。
「離せ! ——…っ。あの子は、イオリはもうすぐ…!!」
イオリの父は言いかけた口を強く締め、ウシオくんを払いのけ走って去った。
「なんだ、どうしたんだおじさん……」と奇妙に見つめるウシオくんの背後で、ふつふつと恐怖を思い出し、ゾクゾクっと背筋に冷や汗が走った。目が飛び出そうなほど大きく開き、動揺を隠せないでいる僕に気づいたウシオくんが問いかけてきた。
「アキネ? おいどうした! イオリちゃんになんかあったのか!?」
『8月、31日……。これが、命日……。私の……、命日……——』と震え混じりに言った彼女の姿が脳裏をよぎる。バッと時計を見ると、時間は21時03分を指している。
「だめ…だ…。あと3時間で……! 探さないと…! 見つけないと……!」涙をこらえ走り出す僕に驚きながらウシオくんも走り出した。
「お…おお! イオリーどこだーッ!!」
**-*
勢いよく扉が開いたかと思えばすぐに閉まり、咆哮のようなエンジン音が鳴り荒れる。その姿を耳で認知した母親が続いて扉を勢いよく開けて問う。
「あの子はいましたか!?」
無視して慌てて車が進み出そうになるが、母親が運転座席の窓を叩き止める。すると窓をおろし
「早く乗れ!」と乗車を促す父親。少し戸惑いながら助手席へと座るやいなや話を進めるよう催促する母親。
「イオリのやつ、セイデンジにいるかもしれん!!」
「セイデンジ……! なんでまた……」
「わからん! あの小僧が……!!」
「セイデンジなんて、どれだけ飛ばしても4時間はかかります!!」
「行くしかないだろう!!」と怒鳴る父親にビクッと驚く母親、急いでいた二人の間に一寸の間が生まれる。
「ーーーー〜…。すまん」と謝る父。冷静さを取り戻しながら「くそっ」と思いっきりハンドルを殴る。「イオリ……」涙を流す母親。目の色をキリと切り替え、駐車場から勢いよく放たれる車はイオリの元へ向かう。
*
8月30日 火曜日 夜 23:27
この街にいるはずがないことを僕が一番知っているはずなのに、走り回って探し回っている。列車で眠らなければよかった。もっと二人の時間を大切に過ごせばよかった……。
のか? いや、そうじゃない。僕と過ごす時間は、彼女の中では充分に過ぎたんだ。きっと、残りの数時間か数十時間は、今まで家族や病室での、誰かの目の下で過ごしてきていた煩わしさから解放された時間にしたかったに違いない。それを僕に告げると、僕は付いて行こうとする。そんな僕を思って、黙って去ってくれたに違いない。彼女なりの気遣いに違いない。僕ならどうする。そうだ、僕ならそうするに、違いない。
公園に出かける前、日向ぼっこをしていた公園にたどり着いた。木下に駆け寄り、遥か遠い過去のように、昨日のことを思い出す。ここで、あの時……行かなきゃ、良かったのかな……。
気づくと地面の距離が近づいていた。強く打った膝が痛むせいなのか、何がそうさせるのかわからないが、僕の目には涙が溜まっていた。
『行きたいところ、全部行きましょう。夏休みが終わっちゃう前に。』
と、頭の中で彼女の声が再生された。と同時に涙と言葉が溢れ出た。
「……明日が、きちゃう…………なんで……、なんで来ちゃうんだよ! おわんなくていいだろう! ……明日も……明後日も……ずっと、ずっと遊んでたいよ……夏休みが終わっちゃえば……もう! 学校なんて……行きたくないよ……宿題、終わってないよ…………」
急に視界が暗くなったのは、僕が腕に顔を突っ伏したせいであって、彼女を思い出したくなかったわけでは、決してない。
風が強く吹き、鞄から何か紙が転ぶ音が聞こえた。そこには見覚えのない手紙が一枚。ひらっと寝そべっている。それに気づき、急いでそれを読む。
『わたし、本当は、あなたが大っ嫌い
わたしも、本当に、わたしが大っ嫌い
でも、わたしが大っ嫌いなわたしと、いつも一緒にいてくれて
こんなにも大っ嫌いなのに、あなたがそばにいてくれることで
ちょっとずつ、ちょっとずつ好きになってしまう。
わたしの大っ嫌いなわたしのことを、大っ嫌いじゃなくしてしまうあなたが、一番。
一番大っ嫌い。
そんなことされたら、死にたくなくなっちゃうじゃない
大っ嫌い。大っ嫌い。
世界もわたしも、あなたも、大っ嫌いのままだったら、どんなに嬉しかったかな。
どんだけ気楽だったか。
大っ嫌い
死んじゃえばいいのに。早く、死んじゃえばいいのに 』
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーっ!!!!!!」
からだ全身で、叫ぶ。彼女には届かないほどの大きな声で。
***
8月30日 火曜日 夜 23:40
両手を広げる者ひとり。まるで指揮者が職務を放棄し体全身で音楽を嗜んでいるかの如く、優雅に空間と時間をその身に焼き付けようとしている。彼女が立ち、景色が流れているように、彼女に起こる全ての行動事柄を意味付けるための要因として、感じる今があり、見ている目があり、覚えている記憶があり、読む文字がある。彼女の両手には、私たちに見えない、無数の旋律が絡みついてひとつの音楽を奏でている。風邪を切り、空気に触れ、音を呑む。
「あー……そろそろ爆発したかなー。泣いてるのかなぁ、怒ってるのかなぁ……。くくく。ばーかが、叫んでばーかが走って、ばーかが飛んでくる〜」
彼女の人生は短い。私たちの時間も、そう長くはない。
日が明ける。日が昇る。
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