其の勇は義によりて尚 壱
新章
[其の勇は義によりて尚]壱
悲鳴と絶叫が大地を揺るがした。
逃げようとした子供が背中から血を吹いて叫び声の満ちた地に倒れ込む。
官兵が喚きながら槍を持って猛威を振るう魔獣に突撃し、その足に払われて虚しく五体が砕けた。その躰がすぐさま魔獣の喉に吸い込まれて消える。
窮忌という妖獣の力の前では、人々はまるで無力。
阿鼻叫喚、さながら地獄のような光景であった。
「ーー遅かったか。女子供、年寄りを誘導して里から逃げろ!動けるものは動けないものを支えよ」
「でも、あれは窮忌よ!!逃げ切れない」
「ここは我らが食い止める。心配せずともよい」
そんな、と声を飲んだ女の前に立つのは双刀の青年。
座り込んだままの女の腕をとって立たせた青年は鉄の矛を持っていた。
「さあ、逃げて。振り向かずに走ってください」
あんなもので、戦えるはずがない。そう思いながら震える足で女が走り出す。その後ろで、最初に聞こえた声がまた朗々と響く。
「青祥は左、陵は右から窮忌を狙え。これだけの図体ならば外すこともあるまい。叔玄は手当と弓の援護、星游は私と正面からいく」
「応!」
「承知しました」
窮忌は十年に一度出現する厄災の魔獣である。
暴虐の限りを尽くして人肉を喰らい、満腹するまでその魔獣の動きは止めることができぬ。腹が満たされると何処かに去り九年の永い眠りにつくと云う。
出たら最後、逃げ切るか死ぬか。倒そうなどと誰もが不可能の妖魔。
何者かは知らないが、即座に喰われるだろうと耳を塞いで女はひたすらに走る。
それでも劈けるような奇声が吹き上がり、たまらず女は振り返った。
城のような窮忌の巨体から、血潮が左右から上がっていた。
どう登ったのか、紅蓮の髪と空色の髪の主が牛に似た窮忌の頭に刀を突き立てている。窮忌の目は見事弓矢で潰れており、巨きな四肢が苦痛のあまり土煙を立てて転がった。
「まさか」
呆然とした声は、立ち止まる女の横で立ち尽くす官兵の生き残りの口から漏れる。
凶悪な魔獣は咆哮を上げて躰を振り回すが、黒髪の少年と蒼い髪の青年が同時に窮忌の太い首をねじった。
どうと倒れた窮忌の上に、銀髪の青年が矛を唸らせながら分厚い皮ごと貫通させる。横転した窮忌の角にぶらさがっていた双剣の主は刹那、飛燕の如くそのまま一回転すると、二本の剣で頸を刺した。
魔獣の血が夥しく空に吹き出して、周囲に新たな血煙が立ち込める。
異形の災厄は、今や痙攣するだけであった。
信じがたい力を目の当たりにして、もはや里人たちは膝が砕けたように座り込んで窮忌の死体という初めて見るものを呆然と眺めている。
「皆、怪我はないな」
白皙の頬に一点返り血を付けた双剣の青年、云わずと知れた士學の声に、四人が集まった。
「治癒できる人には処置をしましたが、あとはもう……」
「そうか……里ふたつ越える間に出た被害は残念だがどうにもならぬ」
士學の翡翠の目に、無念が漂ったが、星游がその肩に触れる。
「州師軍が近づいている。長居しないほうがいい」
「そうか、では急ぎ退散するぞ」
「早く乗れ!」
陵が屈むとそれより長身の青祥が矛を持ったまま、その背に乗った。星游は細く靭やかな体ながら士學と叔玄の二人を背負って、平然と駆けだし陵がそれに続く。
この時、青祥は二十歳。士學は十八、星游十六、叔玄十五、陵十四歳。士學と青祥が薛子塾に来てから二年が経っていた。
その間に全員の武術が顕著に伸びただけでなく、陵は平時ならば尻尾が見えないように成っている。
星游に至っては、魔物を影から召喚するのとは別に、一時的に必要な妖魔の能力を部分的に五感四肢に憑依させる術を独力で身につけていた。
水北地方を統べる、州宰知事の州城から軍が出て来るのを視たのは告死天使の千里眼。窮忌がふたつ隣の里に出たのを視たのもその力であった。
「しかし、昼間から窮忌が出るなど穏やかでないな。窮忌は確か北英の国に多いはずだが」
「ええ同感です。水北地方の最北は北英との国堺ですから、或いは北英から来たのかもしれません」
星游の背中で士學と叔玄が考え込む。
青祥の方は、たった今窮忌を倒したというのにそれでも力が余る陵が、跳んだり跳ねたり悪路ばかりをいくので、斜め前方から途切れ途切れに不満の声だけがする。
「北英は酷い。昼間でも人影がほとんど見えない」
二人の人間を背負いながらでも星游の息が弾むことなかった。
「そうか……呂忠国が同盟を破ったせいだな」
「国軍をわざわざ妖魔の群れに当てて戦争を起こすのも悪い。北英は驕りすぎだ」
「しかし兄上、戦争があったのは随分前ですが、未だ戦っているのでしょうか」
「近頃、水北州宰知事がきな臭い。最近の北英のことは知らない」
秀麗な叔玄の面に影が射して、士學も端正な顔を曇らせた。
鬼子を育てて、薛太老は何か企んでいるのではないかという官兵が何度となく、屋敷の中を探りに来ている。
皮肉なことに星游が里の為を思って、魔物を討伐すればするほど里の警戒心を煽ってしまう結果だ。
ならば人間が同行すれば良かろうと云いだしたのは士學である。
それで、離れた里のことでも見殺しにできずに全員で狩りに出て、叔玄に治療させればいつかは通じると説いた士學は自信満々だったが、芳しくないのは官兵の訪問が止まないことで分かる。
「士學様、いつも思うのですが陵に乗るのは交代制にしませんか。俺の背骨が何故だかいつも痛くなるんですが。俺も星游に運ばれたほうが早死にしなくて済みます」
「其の程度で死ぬなら、其れも仕方ないことだ。愚か者此処に眠ると、私が自ら墓標を書いてやるが」
「陵の動きを知っててそれ云いますか!?陵だって士學様乗せていたらあんな跳ね方しやしませんよ」
「青祥が軟弱すぎんだよなー。俺のせいじゃない」
薛子塾が見えるところで、五人は徒歩になっている。
窮忌が出たから倒してくる、と言い置いて出かけたせいか、少春と泉泉が手を繋いで門の前で所在なくうろうろしているのが目に入った。
陵が手を降ると、泉泉が少春の手を握ったまま手を振り返す。それで少春に伝わったのか、笑顔が咲いた。
「おかえりなさい!」
返事をかえそうとして、士學は物陰からこちらを伺う数人の男に目をやる。
いつも陰口を叩いている里の人間だが、その目つきがなにやら気に食わぬ。
「窮忌が出たんでしょう、少し心配しちゃった」
「おいおい、まさか俺らがあんなのにやられるとでも思うのか。簡単にやっつけてきたぜ」
笑った陵が、一瞬で真顔になると、少春と泉泉を抱いて横飛に飛んだ。
目の見えない少女と、口が利けぬ少年が先刻まで居た場所に、握りこぶし大の石が転がった。
「早く、中に!」
青祥が叔玄と陵、陵が抱える子供たちを門戸の奥に、押し込む。
義兄弟がすぐさま星游を呼ぶ声がするが、星游は門の前に立ちふさがった。
「何か用か」
琥珀と白金の双眸異色が、石を投げた里の男たちを睨む。
「き、窮忌を倒してきただと……お前ら怪物は共食いでもするのか。血に味をしめて里のもんに手を出す前に出て行け」
「あんたらが石を投げたのは、目が見えない子供としゃべれない子供だ。鬼子じゃない。少春と泉泉に手を出すな」
「な、なにを……鬼子と育てば鬼子と同じよ。屁理屈を云うな、怪物」
そうだ、そうだと大勢の声があがった。
物陰に潜んでいた男たちだけではなく、騒ぎを聞きつけた里人も加わってきて、その手には鉈やら包丁まである。
人数が増えて気が大きくなったのか、星游らが長年無抵抗であることを承知の上か、鉈を持った男が星游に切りかかった。
「いい加減にせぬか、小心者ども。双眸異色を恐れるあまり、己が目が節穴になったのか。数を頼んで襲いかかって恥も知らぬと見える」
避けない星游の前で、鉈を素手で掴んだのは士學であった。
上から掴んだとはいえ、刃を手で握ったせいで鮮血がたちまち袍の袖を伝う。
「士學、止せ!おまえは鬼子じゃないし、そいつらと喧嘩する意味がない」
「意味ならある。馬鹿にするな」
鉈を掴まれた男は己で攻撃したにも関わらず、狼狽して他の里人を伺うが、誰もが士學の発する怒気に言葉を失っていた。
たかが成人したての青年一人であるはずなのに、その気品と怒りが傲然たる威厳となって、自然と頭を下げることを強いるほどの迫力。
「屁理屈を申したてておるのはそちの方ではないのか、鬼子と蔑む前に、蔑むその己の顔を見ゆるがいい。抵抗せぬ者に長年虐待を働いている、その下劣な顔を。人を差別するは最も賤しい言動だ。恥じて、よく学べ」
「士學……無駄だ」
薛太老が何度言葉を重ねても、この有様が続いているのだ。
夫人がどれだけ配慮しても、この嫌悪から逃げられないのだ。
「馬鹿に何を云っても通じないんだ」
「星游、お主にも呆れたぞ。何故、諦める!」
士學の袖は、自らの血でどんどん染まっていく。
もう鉈は男の手を離れているのに、士學は血塗られたまま鉈を離そうとしない。
「そなたの人生は未だ始まったばかりぞ。鬼子がなんだ、私を助けてくれたのは、少春を助けたのは己だと胸を張れ。そなたは恥じるようなことは何もしておらん。理解されなくとも拒絶されても里を守ることを止めなんだ。太老が頼まずとも私を守るのはなんだ。全部そなたの真っ直ぐな性根で、長所なのだ。私は理解っておる、太老も、夫人も少春も泉泉も、兄弟も、青祥でさえも理解しておる。だから、自ら諦めるな。自らを見限るな」
「士學……」
「そうだ、私が良いと云うまで諦めることは許さぬ。無論私はそんな甘えた事は云わぬから、生涯この命令に従うことを主命とせよ」
そして、と士學は怒気を和らげてたちすくむ里人たちを見渡した。
「未だ、何か用があるか。謝罪なら受け付けてやる故、さっさと申せ」
毒気を抜かれたように、里人たちが後退して、一人が逃げるとたちまち集団は瓦解した。
その姿に士學が鼻先で笑い飛ばす。
「つくづくと情けないことだ。折角寛大にも謝罪を受けてやると云うたのに、それすら出来ぬとは下らぬ凡俗どもだ」
鉈を握っていたことをようやく思い出して、血のついたそれを地面に放り出す。
袍の袖をちぎって傷口を縛ろうかと思案して、叔玄がいるからそれも無意味だろうと、門戸を開けようとした士學はそこで星游が片膝をついていることに気づいた。
「どうした、星游。鬼子の誇りを持ったか」
「ーー主命、拝命致しました」
殿下、という最後の言葉は口の中で密やかに。
「そうか、承知したなら良し。そういえばそなたには字を与えようと約束して二年も経ってしまったな。……そうだな、私の名から一字を与えよう。月牙、これからはそなたは李星游、字を月牙とする」
天が月を双つ抱いた。
暁の天月、蒼天の月牙が今此処に誕生したのは天のみぞ知る。
しかし、予言は始まったばかりであった。
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