星と月がさだめとして 壱
新章始動。
[星と月がさだめとして]壱
「公子~、公子、少し休憩しませんかぁ」
山道で情けない声をあげたのは、仕立てのいい袍が泥まみれになった銀髪青目の青年だった。
大きな荷物を背負子に担ぎ、杖のように突いているのは矛である。
声をかけられたのは、笠をかぶった少年だが、青年を見もせずに獣道を突き進んでいく。
公子というのは名家の息子の称である。
「五月蝿い。黙って歩け青祥」
「でも、士學様……完全に迷子です」
「官兵を殺さずに撒こうなど、貴様が甘いことを言い出した挙句、泣き言か」
笠の少年のが年下であるのに、青年を字ではなく姓名で呼ぶのは主従であるのがわかる。
尊大な態度で道を往くのは蘭士學。
士學は字であり、世を忍ぶ仮の名であった。其の本名は天月。
名に天が付くのは帝の血族のみに許される。彼こそがかつての皇太子であり、死んだと思われている武天帝の四子であった。
廃位の原因になった紅蓮の髪を傘で隠し、双刀を手挟み、荒野を従者一人で水北地方に足を踏み入れて四日たつ。
昼間は兵士や追手を気にし、夜は魔性のものと切りあって凌ぐ、その間に睡眠や食事はほとんど摂れていない。
それでも十六の少年の足取りは確固たるものだ。
碧の双眸は炎を秘めたかの如く苛烈な光を持ち、疲れを些かも見せては居ない。
士學が供として連れている青祥は、士學が転々と隠れ住んでいるときに見出された。
林撻将軍の部下であった青広という男が独断で元帥を探った結果、外出していた青祥以外の家族は皆殺しにされており、そのまま浮浪児となっていたのを如何なる偶然か、士學に拾われたのである。
今年で十八になるのだが、一見頼りなく見えて腕は確かだ。
「せめて食べ物でもあればいいんですけど」
視界は鬱蒼と茂る緑で、果物なども見当たらない。
単なる山歩きであれば、小刀で枝を払って視野をあけることもできるが、微行歩きをして足跡もなるたけ残さないようにしている二人には土台無理なことだ。
「繰り言ばかり相変わらず五月蝿いやつだな」
「士學様だって空腹でしょう」
「なに、いざという時は非常食として貴様を喰ってやる。私の腹の心配をするな」
「それは俺の心配が増えただけなんですが!?そんなことを考えてらっしゃったんですか!十年以上お仕えしているのに、その仕打ちはあんまりです」
本来は皇太子として何ら不自由することない生活をしているはずの士學である。
もし帝位につかなかったとしても、皇族として贅沢できる身分だったが元帥に命を狙われ、薛太老の娘の四嬢に助けられて生き延びてから、そんな生活からは程遠かった。
周囲に怪しまれないよう家生のように下働きをしたり、商家の下僕として毎日塵を捨てるような日々も送った幼少期、捨てられる食材を拾い食いまでして生き延びた士學は浮浪児だった青祥より逞しい。
士學を匿い、助けることで何人もの血が流された。
生き汚くても、生き延びる。それが死した者たちへ士學が唯一報いる、生きるための流儀だ。
「……青祥、今、なにか気配がしなかったか」
「俺が食べられる気配は、士學様から感じます」
「愚か者、そうではない、何かーー」
気配というより、これはそう直感。
士學が笠を脱いで頭上を見上げた。その刹那、空が士學の前に降り立った。
空と錯覚したのは、見事な空色の髪だとわかった瞬間に、反射で青祥が矛を突き出している。
その矛は素手で折り取られた。神業ともいうべき速さと膂力に息を飲む間もなく、腕の主ははすでにして双剣を抜こうとした士學の手を押さえている。
「薛老子の使いのものだ、あんたが蘭という人か」
「その前に貴卿の名前を聞こうか」
士學は恐れることなく、蒼い髪の少年を見つめた。
琥珀の瞳と銀糸の瞳が、士學の紅蓮の髪を捉えて染まる。
「李星游、薛子塾の塾生だ。老子から紅の髪を探すように云われた」
ーーこうして後の世に歴史を残す二人が邂逅する。両者がそうと知るのはまたもっと先の話である。
「そうか、私が蘭士學、後ろにいる落ちこぼれは青祥と云うが特にそっちは覚えずとも良い」
「分かった。この先の路に馬を二頭置いてきた。長旅だそうだから、馬にのってくれ」
星游一人ならばもっと早く探しあてたのだが、太老から馬を連れて行くよう頼まれて少々遅れたのだった。
頼む、と云った太老の声音が真剣で星游は事情を聞かずに、朝一番に馬を連れて目的の相手を探し出した。
「馬を我々が乗ってしまったら、貴卿はどうする」
「走る」
恐らく、供がいるはずだとだけは聞いている、星游は端からそのつもりだった。
星游の速度は馬を上回る、普段なら邪魔でしかない。おそらく客分として預かる相手に必要なのだろうと連れてきたが、道を短縮するために崖を馬二頭抱えて跳んだことを伏せている。
それよりも、星游には驚きがあった。
鬼子を見ても昂然と振る舞う、少し年かさの少年の眼差しの鋭さ。
「星游とは立派な字だな、名は何と言う」
「俺に字はない。名前だけだ」
「そうか……」
やや考え込む風情で士學が星游の後を歩く。
青祥は自慢の矛を少年に折られた事実に未だ茫然自失しており、士學の酷い言い様にもいつものように減らず口を叩く余裕がないようだった。
「星游、今何歳になる」
「十四」
「私は十六だ、そうだな、貴卿がもう少し大きくなったら私が字をつけてやる」
成人しても字を持たないものもいる。庶民や農民などでも、字がないものは珍しくもない。
星游は名前を呼ばれることに抵抗はなかったが、太老が何やら必死となるこの人物にならそれも良いと思った。
「蘭大哥と呼べばいいのか?」
大哥は年長者の男子に付く言葉で、趙陵や潘叔玄が星游を兄と呼ぶのとは別の意味に当たる。
「いや、士學で良い。また身分を偽ってそなたらと過ごすのであろう。敬称をつけていれば怪しまれよう」
「わかった」
ふと気づいて星游は肩に下げていた荷物を開けた。早朝に夫人に持たされた握り飯が幾つも竹皮に巻いてあった。
「これ、食べるか?馬にのったら食べる時間がない」
「おお、助かった。遠慮なく馳走になろう。青祥、貴様を食べずに済んだぞ。おおいに喜べ」
「そりゃあありがたいですよ。俺は非常糧食として命を終える覚悟はないですからね」
放られた握り飯を受け取って、青祥は憮然としたまましばらく中断していた独り言を吐き出した。
「大体十数年お仕えしてる俺には貴様呼ばわりで、年少の子供には『貴卿』なんて云って、俺にも字はあるのに、一度として呼んだこともないのに、初めてあった子供には字をあげようとか、扱いの差別化が激しくて俺は泣きたいですよ」
「米に味噌が薄く塗って焼いてあるのか、日持ちもするし、香ばしくて良いな」
「夫人が型くずれしないようにと、あと腹持ちがするって」
「思えば最後に食べたのは何だったか思い出せんな、昨夜仕留めた魔物も試しに食べてみようとしたが、臭くてまるでいかんな」
「俺、妖魔を殺したことはあっても、食べようと思ったことない。……酷い旅だったんだな」
石に腰掛けて握り飯をほおばる士學を、星游が呆れたように見る。両者とも青祥の呟きは黙殺しつつ。
竹筒の中に汲んできた冷水を士學に渡すと、嬉しそうに一息で飲み干した。
「しかし、星游はよく私をみつけたな。貴卿、鬼子であろう。そういう特殊な能力があるのか」
「うん、まあ、そんなもの」
緊急だから、昼間でもいいだろう、人もいないし、と星游が影から召喚したのは千里眼の妖魔、告死天使である。
無闇矢鱈に飛び回っていたら驚異的な脚力でも何日もかかる上に目立つ。
呂元帥の間諜、黒尾が不吉事を予言する人妖と称していたが、それは微妙に間違っている。
告死天使が持つのは千里眼のみ。但し鳥型の状態と人型の状態を使いわける、妖魔と人妖の区別が難しい魔物だ。人には見えない遠くの物事が見えるので警告を発することはあるが、賢い魔物なので滅多に人目のあるところには出現しない。
古の時代、貴重とされ臣下の悪事を王に申告したとされるが定かではない。いつしか伝承はねじ曲がり、死を告げる天の使いという名がついてしまった。
「士學様、握り飯は大変美味ですが、味噌で喉が乾くので私にもお水が頂きたいと思っているんですが」
「星游、大変うまかった、礼を云う。出立するか」
「士學、後のやつがなんか云ってるけどいいのか」
「俺は青祥!字は伯明!士學様に云われたからといって粗末に扱うにも程がある。俺は十八で立派な男だ。年長者だから、青大哥と」
「青祥って馬乗れるのか」
「青祥にも少しは取り柄があってな、馬と駱駝には乗れたはずだ」
出立前に不毛なやり取りがあったものの、例によって無視された青祥が一人で文句を云い続け、星游がふたつの馬の手綱を持って疾走しだすとさすがの青祥も無言になった。
険しい山道を、抑えつつであるが星游の足で走るのである。激しい揺れで口を開いていればたちまち舌を噛んだだろう。
最短の路を進んだが、薛子塾に三人が到着したのは夜であった。常人であれば翌日に日を跨いだであろう。
門戸に青ざめて立っていた大老が星游と士學を見て、安堵のあまり土に座り込む。
星游の無茶な動きに耐え抜いた馬が泡を吹きかけているのを、出てきた叔玄が手回しよく厩屋に連れて行った。
「薛翼……貴公の娘子には、命を救われた。礼を云う、そして、無念であった。豊かな才能のある才女であったそうだな、私のせいであたら若い命を散らしてしまった」
「殿下……そのお言葉で十分でございます。憎むべきは呂破国、殿下をお救いできたとなれば娘も本望でありましょう」
太老が深く叩頭する。
その姿と士學への呼称で、星游も厩屋から出てきた叔玄も事情を察した。
しかし、察したからといってどうしたら良いのかわかるはずもない。薛老がかつて朝廷に居たことは知っていたが、生きるのに必死な鬼子たちに雲上人の存在は妖魔より内情を知らぬ。
「しばらく世話になる、今は母の姓の蘭、字を士學と名乗っておる。供は青祥、林撻将軍の部下だった父親を彼奴に殺されて行き場がないのを私が拾った」
「はっ」
「耳目がある故、これより星游らと等しく扱ってくれて良い。親に捨てられたとでもしておいてくれ」
「承知いたしました。では、僭越ながら士學と呼ばせて頂きますゆえ」
士學に支えられた太老は、滂沱の涙を流していた。
奥から走り出てきた夫人も士學の姿を見て夫の腕にすがって嗚咽をもらす。
邪魔にならないように後ろに下がっていた星游に、叔玄が声をひそめた。
「兄上、どうして大変なことが起きたものですね。ここに皇子がいると知れたら元帥が刺客をさしむけてくるでしょう」
「その時は、俺達で倒すさ」
叔玄が秀麗な顔を向けた。星游の言葉が存外に重かったのだ。
「かの皇子、兄上がそれほど見込む方だったのですか?」
「鬼子の俺を見ても顔色ひとつ変えなかった。我ら鬼子よりよほど怖いものに追われてきたせいかもしれないが」
「それは……なかなか度量の高い方のようですね」
「それに、なんだかうまくいえないが、何かを感じる」
二人は無言で家の中に入る太老たちを見送った。
明日から、また賑やかな日々が始まる。
運命の歯車が小さく動き出した。