其の勇は義によりて尚 参
[其の勇は義によりて尚]参
そこは金東地方の小さな庵であった。
小さな林に囲まれており、人里から離れている。かつては人が住んでいたのが放棄されたのを最低限の修繕を施されたそこが、魏晋に案内された隠れ家である。
本来はもっと離れた場所に逃げるべきであるが、のちに合流する青祥を待機する為隣の州へひとまずの移動であった。
叔玄と陵は、落ち着かない様子で庵の中を掃除でもしているのか微かに音がする。
士學は食料を探しに竹林に踏み込み、魏晋は一旦案内するとすぐに薛子塾へ戻っていった。
星游はそれを憑依させた告死天使の眼で辿っているが、心は出立した間際の出来事で溢れている。
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「薛老子、夫人、捨てられた鬼子の俺をここまで育ててくれて、この大恩はけして忘れません」
監国目付勅使まで来たとなれば、鬼子を逃したことで太老も夫人も只では済むまい。
運良く誤魔化せたとしても、もう薛子塾にいることは出来ないであろう。少春らを連れて他の居場所を探すしかない。それでも監国目付勅使に一度眼を付けられたなら、隠れて星游らを呼び戻すことは不可能だ。
次にいつ会えるかわからぬ、これは離別と同じだった。
ならば、今までの礼を云わねばいつ云えると判断して、叩頭した星游を太老は悲しそうな顔で見つめていた。
「お前には殿下を助けるという荷まで背負わせてしまった。周囲に幾ら手を挙げられても決してやり返すなというわしの言い付けも、さぞ酷かったことであろう」
「いいえ。それに四嬢様が託されたその責務、俺に任せてくれたそのお気持ちを、後悔させません」
「そうか、そうか……利かん坊だったお前も、もう立派な字をもらい大人になったのだな」
呻くが如く云って、太老は星游の手を握った。
かつて何度も叱って頭に落とされた拳骨、一つ本を読めると褒めながら撫でてくれたその大きな手が、もう星游とさほど変わらぬ。
「お前がどう思うているかわからぬ、只一度でいい。わしを父と呼んでくれぬか。わしはお前を、薛翼の一人の息子としてこれからも誇りたいのだ」
何故、こんな忌み子にそんな言葉をかけてくれたのだ。
只の鬼子ですらない、破壊の力ばかり身につけていく恐ろしい子供を。
父として慕っていたがそんな感情は許されないのだと、どこかで感じていた。育ててくれた、それだけでも報いきれないほどの恩義があるのに。
「……父上、母、上……」
初めて口に出した言葉は、涙にまみれほとんど言葉にならなかった。
十六年、星游の知る世界を埋め尽くしてくれた二人に、生まれて初めて涙を流して星游は感謝した。
「育ててくれて……ありがとうございました」
背中から温かい感触がして、薛夫人が抱きしめてくれているのを感じる。
「おまえは大事な息子よ。ずっと傍に居てやれない、情けない親だけれど許してね」
叔玄が兄と呼び、陵も兄と呼び、星游は兄として毅然と生きて、模範となるべく己を常に律してきた。
忌まわしい力を、力で制して、誰かが認めてくれないかと願った。
しかしそれはもう常普段から叶っていたのだ。
夫婦の腕で泣きぬれた星游に少春と泉泉も抱きついて、大声で泣き出した。
ーーこの一生涯かけて、与えられた愛情を忘れない。
もし、監国目付勅使が危害を与えたら、暴走していただろう。以前の星游ならば。
しかし、今は託されたものがある。忠誠を誓った存在が居る。
夫妻のことは青祥と魏晋にひとまず頼むことしか出来ない。
告死天使を宿した星游の紅い瞳に、馬を駆って刻々と薛子塾に近づく監国目付勅使の姿が映る。
そして、その隊列を追う風除けを纏った甲冑の人物がいることも。
***
「陵、少し休みましょう」
「うん、なんだかやる気がでねえや」
竹で急遽編んだ椅子に叔玄が座り、陵は地べたにそのまま座った。
薛子塾なら毛纖が居住場所には必ず敷いてあったが、廃墟に近い庵はむき出しで当然だろう。
「老子とは、もう会えないのかな……」
「どうでしょうね。すぐにはむつかしいでしょうが」
兄貴分である星游があれだけ取り乱した姿を見るのは、二人の義兄弟は初のことで些か動揺していた。
太老と夫人がいないのは確かに寂しい。鬼子とて、十五と十四の少年には変わりはしない。
所詮自分たちのことはどうとでもなる自信がある、老年の夫婦と身体の不自由な子供たちだけでこの先をどうするのかが不憫であった。
「こう考えましょう。鬼子である我々がいなくなったことで、老子たちは厄介払いが出来た。里でも嫌われる理由がなくなったんです」
「すげえ後ろ向きに前向きなこと云うな。でも、そっか。俺らがいなくなればいじわるされないよな」
「そうです。老子が居る場所がすなわち塾。どこかに移動したとしても薛子塾がなくなるわけではないのですよ」
「そうだよな……兄者の力があれば、こっそり会いにいけるよな」
ぱたりと、それでも陵の力なく落ちた姿を叔玄が嘆息しながら指摘する。
「未熟者、また尻尾が出てますよ」
「俺だって落ち込んでるんだ、尻尾くらいいいだろ!」
開き直りの発言に、叔玄は今日だけですよ、と念押しした。
桟のない丸窓を見ると士學が意気揚々と、土まみれになって戻ってくるのが見える。
その手には掘り出したらしい筍と、仕留めてきた鹿を引きずっていた。どんな時でも食べ物を忘れない士學の姿勢に、叔玄は僅かに笑う。
「公子を見なさい、我々鬼子より余程たくましいですよ」
「あ、鹿肉うまそうだなあ。って、なんでまた公子なんて呼び方するんだよ」
「此処より先に何処へいくかわかりませんが、殿下とは呼べません。それに公子は庶子に成り切れませんよ、あの品格では良家の育ちとしか誤魔化せないでしょう。良家の子弟と、その随従として行動するしかありません」
「そうかあ?」
窓の外では丁度士學が鹿をさばき始めた為、叔玄の説得力がやや損なわれたが、士學の言動は常に人を先導することに長けているのは間違いない。
「それに私達は老子の前で、殿下の部下であると約束したのです。以前は同じ塾生としての立場でしたが、今は主従なのですよ。呼び捨てでは、秩序を乱します」
「兄者は呼び捨ててるぜ」
「兄上は別格なので良いのです」
強引に完結させたが、陵の中でも兄は絶対である。その言葉で何もかも納得して陵は立ち上がった。元よりじっとすることは性格に反するのだ。
「誰か、火を炊いてくれ!鮮度がいい内に食べるべきであろう」
「俺やる!」
「あまり煙が出ないようにしましょう、人目を引くやもしれませんからね」
陵が火をつけ、士學が竹串を即興で作って肉と皮をむいた筍を炙り出す。叔玄は笹の葉で煙を散らしながら、庵の茅葺屋根の上にいる星游をそっと見た。
無言で彼方を視る義兄の背中には、静かな殺気がまとわりついている。
「星游はしばらくそっとしてやろう。あれだけ泣いたのだ、男子としての面目もあるゆえ暫し監視に集中させてやろう」
士學は筍のえぐみでむせる陵の背中を叩きながら、晴れやかに笑った。
過去の体験で突如居場所を奪われることに慣れているせいであろう、陵と叔玄より元気な皇太子殿下は動転してる様子はない。
「星游は心配しすぎであろう。青祥は役立たずだが、あれはあれで食えないやつよ。薛老のことはあれに任せれば良い」
「青祥にぃ?」
不信感甚だしいことを云った陵の尻尾を座布団代わりに座りながら、士學は不敵な笑みを佩く。
「あれは繰り言の多いやつだが、やると云った時には必ずやる男だ。其のくらいの取り柄がなくては私の傍に居る資格もない」
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士學様、んなこと云っていいの!なんて前フリなのの次回。
星游と老子の別れのシーンは前の回でいれたかったんですが、切りが悪いのと、やはり長くなってしまい。
叔玄とは違う星游の思い入れが伝わればなぁ、と思います。次回こそ青祥のターン




