無視する視線
制服の群れの中によく知った顔をみつけると、私はそっと目をそらした。
休み時間の混雑した校内でも、特別な人間には気づきやすいようで、男子にしてはさらっと流れる黒髪としゅっとした立ち姿は一瞬で視界に飛び込んできた。
階段の下にいた彼は、私が見えてないかのように無表情に上がってくる。視線を交わすことなく、すれ違った。
私達は学校で会っても、いつもお互いを無視している。
彼、本間由人は、私、渋沢青香の恋人だ。
無視するきっかけとなったのは、高校の入学式前日の些細な口ゲンカだった。映画の感想で珍しく言い合いになった。「青香は少し冷たい」「由人が甘いんじゃない?」と徐々にギスギスし、あげく日頃の不満まで噴出して。空気の悪さに、入学式はそれぞれで行こうか、と私が言ってしまった。別々の中学から晴れて同じ高校へ通える初日だというのに。普段我慢強い由人も「青香がそう言うんなら」と止めもしなかったから、けっこう怒っていたのだろう。
式当日、一晩経って冷静になったけれど、きまりが悪いから本当に一人で先に登校した。せっかく高校の廊下でバッタリ会えても、ついと視線をそらしてしまう。すれ違いざま、かすかに息をつく音が聞こえた。「仕方ないな」と言わんばかりのそれに、向こうはとっくに落ち着いてるのがわかって、(何やってるんだろ)とこちらも引き際を考え出した。
帰りに昇降口で再会した時も、由人が誰か男子と話しているから声を掛けそびれてしまう。すぐそこにいるのに、まるで知らない同士みたいに帰り支度をした。
ちょっと面白いな、ってその時心をかすめてたと思う。
家に帰るとすぐに由人が訪ねてきて、「ごめん」と一言、小さな袋に入ったアイスを差し出してきた。いつもそんな風に先に謝りにきてくれる。それを大事に受け取ると、私もごめんとつぶやき返す。そのまま部屋に上がって、仲直りのアイスを食べた。
「でも、今日のちょっと面白かった」
気持ちもほどけて、アイスを一口食べさせてもらったあと。冷えた口元をほころばせながら由人の顔をのぞきこんで、そう言った。
それからだった。
本当は付き合ってるのに他人のふりをすること。
それが私達の始めた遊びだった。
由人は中学の時に、すぐ近くの町からうちの隣へ引っ越してきた。元いた町の中学へそのまま通い続けたから、私とは別々の学校だったけど。
親しくなったのは塾で一緒になったのがきっかけだった。二人で帰って、毎回家の前まで送ってもらってるうちに、帰り道に手をつなぐ仲になっていた。
その塾から今の高校へ進んだ人間は他にいない。うちの中学から進学したのは話したこともない女子二人。私は、背中まで伸びた黒髪のせいか一部の男子から色っぽいと言われるものの派手なタイプではないし、うちは進学校で彼氏の有無で競うようなこともないので、さして注目されることもないはずだ。由人の中学から来たのは男子が一人。こちらは顔見知りらしい。今のところ、私達が地元で会ってるのを目撃されたことはない。だから、二人が付き合ってることを知ってる人間は皆無と言っていいと思う。
幸か不幸かそんな条件があって、このゲームが成立した。
無視ごっこはあくまで学校だけ。
毎朝、登校は一緒にしていた。一応、三十分早めに家を出て、駅の近くで別れる。こんな中途半端なことをしてるのは、別登校じゃさすがに淋しいからだ。しょせんはお遊びだから、そのくらいのゆるさでいい。
今日も朝早くに教室に到着すると、いつも通り人影はまばらだった。一番後ろの自分の席に着くと、適当にスマホをいじった。
「おはよー、渋沢さん」
メールチェックをしているとジャージ姿の男子に声を掛けられた。同じクラスの人間だ。
「おはよう」
「朝練きつかったー。試合近いからさあ。つっても部内の紅白試合だけど」
「そうなんだ」
軽い挨拶で終わると思ったら、立ち止まって話し続けられて、面倒だなと内心渋る。
「今度の木曜にやるからさ、暇だったら応援来てねー」
ははは、と冗談か本気かはっきりしない口調で言われたので、こちらも曖昧に笑って返す。
「なあ、部の人が探してるよ」
突然さえぎるように、よく知った声が聞こえた。そっちを振り向くと、やはり由人がいた。開きっぱなしの教室のドアの向こうで、廊下のほうを指さしている。目は私の横にいる男子だけを見て。
「まじで? あ、じゃあ」
軽く手を振ると、男子は足早に去っていった。由人は何くわぬ顔で反対方向へ歩いて行く。
一瞬、ルールを破るのかと思った。偶然……? を装った? と考えていると、スマホが震えた。由人からのメッセージの着信だ。
「次の休み時間、階段で」
短い暗号みたいなメッセージだった。それは二人にだけわかる場所への呼び出し。内容を確認して画面を切る。気づけばクラスメートも続々と登校して、にぎやかな朝の教室になっていた。
ぼんやりと受けた一時間目が終わると、校舎の端の階段へと向かった。最上階近くまで行くと、由人が踊り場の手すりにもたれてこちらを見下ろしている。
屋上へ続く扉は締め切られていて、行き止まりのここへ人が来ることはまずなかった。だから私達は、秘密の待ち合わせ場所として時々利用している。このくらいの息抜きはいいことにしていた。まるっきり会わないなんて、さすがにない。
「ごめん、呼び出して」
「ううん」
「……ナンパ、されてたね」
薄暗い踊り場へたどり着くと、由人は目をふせたままさっそく本題に入った。ドアのガラス窓から射す明かりを背に、目だけがかすかに光っている。
「そうだね」
「あの後あいつすぐ戻ってこなかった?」
「大丈夫。戻ってきた頃にはチャイム鳴ってたから」
「そうか、よかった」
うっすらと微笑むと、私の左手を取って、口づけそうな持ち方で指先だけ握った。
「嘘だからすぐ戻るかと思った」
「嘘?」
「うん、嘘」
私の指先を愛おしそうに見つめたまま、親指の腹でそっとなぞった。
「変に思っただろうね。行ってみたら誰にも探されてなくて」
普段の真面目そうな顔からは想像できない意地の悪さが瞳に浮かぶ。
やっぱり故意か、と確認した私の口元にもいやらしい笑みが浮かんでないだろうか。
「……ありがとう」
「いいえ」
満足そうに薄く笑うと、由人は私の指先を、きゅ、と一回押した。
それを合図に、私は「もう行くね」と、するりと手を引く。
「うん……」
名残惜しそうな目に見送られながら、足早に階段を下りた。時間差をつけて戻ることになってるルールが、今だけ少しありがたい。
廊下で、階段で。
すれ違うたび目も合わせない。皆に挨拶する中、一人だけ口もきかずに通り過ぎる。友達と談笑する横を、存在しないかのように通り抜ける。
知ってる人間の中で、私だけが無視される。
それは何という特別。
まるで他人に見える私達が恋人同士だと知ってるのは二人だけ。私と由人だけがコントロールできるゲーム。それが絆だった。
無視が二人をつなぐなんて。
気がつくと口元が微笑んでいる。
中休みも半分近く過ぎて、トイレから教室へ戻ると、話し声や笑い声でざわつく中に由人の姿があった。友達に会いに来たようで、うちのクラスの男子と喋っている。
わざわざ私の席に座って。
由人は私が提案した無視ごっこにも忠実に付き合ってくれるような人だ。けれど、決して大人しいわけではない。地味な優等生みたいな顔して、その実こうして踏み込んで攻めてくる。
口が緩むのを抑えながら彼のすぐ後ろを通った。体温を感じられる距離まで近づけないのがじれったい。
窓際の女友達のところまで行って声を掛けると、適当に彼女が見てたスマホアプリの話をした。
「あ、青香、席取られちゃったんだ」
私の席が視界に入ったのだろう、友達の亜美がそう言った。
「うん、取られちゃった」
少し困ったような顔をして笑ってみせる。亜美も、はは、と笑うとまた元の話題に戻った。相づちが上の空になっていく。
向こうは全くこっちを見ない。ちょっと憎らしくなるくらい。
ついそのことに気づいてしまうのは、きっと少しだけ、ちらりと由人に目をやるからだ。離れている分、私の机に腕を置かれることさえこそばゆく意識されてくる。
休み時間が終わるチャイムが鳴ると、何事もなかったかのように由人は帰って行った。私もそろそろと自分の席に戻る。椅子にはまだ、彼の熱が残っていた。
丸きり接触なしだったら、とっくにこのゲームをやめていただろう。けれど、こんな風に触れられると、それはそれでもどかしくなる。寄せては引いていくから、よけい。
せっかく同じ高校に入れたのに、馬鹿な遊びをしてるとは最初から思ってた。
いつまで続けようか……とも。
「クラスに友達いないのかってきかれたよ」
学校が終わってから、いつものようにうちに遊びにきた由人が苦笑しながらそう言った。
「誰から?」
「今日話してた相手」
私はチョコレートの包みを開けながら、教室で男友達と談笑してた姿を思い出す。
「やたらと三組の周りうろついてるから、自分のクラスで居心地悪いんじゃないかって心配された」
自嘲気味に言うと、マグカップからココアを一口すすった。
「私の席に座って、何してるのかと思った」
「漫画返しに行ったら椅子空っぽでさ、奴の席も近いから座ってやれって」
平然とした顔で言ってのける。
「青香も意外と近く通るから面白かったな。友達のとこ行ってそ知らぬ顔してるし」
「見てたの?」
「まあね」
ちらっと横目でこちらを見てゆっくりと笑う。
そ知らぬ顔をしてたのは彼のほうかと思いきや、私が視線を外してる間に盗み見ていたのか。他の人と笑う私を見て、少しは遠く感じただろうか。
てっきり見てないと思ったのに。見て、たんだ。
やわらかくとけるチョコレートをひとつ、舌の上に乗せた。
放課後、学校の図書室へ向かう道すがら。一階の廊下の角を曲がると、由人がこちらに来るのに行き当った。静かに視線をずらして、そのまま歩を進める。目の端に映る由人は、少し壁よりに身を寄せて歩いていた。
部活のない生徒はほとんど帰ったようで、遠く運動部の掛け声と足音だけが響く。人気がないのをいいことに、私はちらりと彼に目をやってみた。
と。
その瞬間、目が合った。
一秒だけ視線をからめると、同時に目をそらす。
いつか足をからめた時のことが思い出された。心に浮かんだものを引きずったまま、今度は近づく人影など見えないかのように前方を見て進んだ。お互いが幽霊にでもなったみたいに。あと二メートルまで近づいたところで、由人は昇降口のロッカーを目指して、ついと曲がった。
知らない同士として自然なようで、廊下の先にいる互いを全く意識しないそぶりは、近づくにつれ不自然になる。いる人間を、いないかのように扱うのは。
相手を見ない視線は、ひとつのコンタクトだ。
ロッカーの近くを通る時に、再びあちらを盗み見てみた。ガラス張りの扉を開けて出て行くところだった。
このゲームを楽しんでいるけれど、私を置いて帰る後ろ姿を見送る時だけは、少し淋しい。
昼休みの廊下は、教室から吐き出された生徒たちでごった返している。
喧噪の中、友達と連れ立って購買へ飲み物を買いに行こうとしたところで。教室のドアから数歩進んだ途端、お財布忘れた! と亜美が慌てて引き返す。私はその場で戻るのを待とうと、廊下の端へ寄った。すると、隣の教室からふいに由人があらわれた。ただ普通に友人と連れ立って出てきただけなのに、気を抜いていたから突如に感じて体に力が入る。反射的に目をそらして、ななめ下に視線を落とす。二人はすぐそばで立ち止まり、連れの男子が「早くー!」と教室に向かって叫んだ。向こうも友達を待ってるようだった。手を伸ばせば触れられる距離に由人が背中を向けて立っている。
「で、由人は彼女とかいないの?」
何の話の続きなのか、友人男子がそう問うた。いきなりの核心をつくような質問が心臓に刺さる。
「好きな人ならいるよ」
そっとした口調で答えた。きっとそれは私への告白。傲慢にそう思う。炭酸の海にでも包まれたように、じわじわしみる……。
「ごめん、お待たせ!」
亜美がお財布を手に戻って来た。
「ううん」
海から顔を出して現実へ引き戻される。由人以外の人たちの姿が再び目に映った。私は反射的に笑顔を作ると、亜美と並んで歩き出した。
「うっそ! 誰だよ、おしえろ!」
「そのうちな」
後ろから由人達の声が聞こえてくる。きっとアルカイック・スマイルを浮かべているんだろう。見なくてもわかる気がした。
誰もいない生物室に身をひそませた。電気もつけない部屋の中から、ほの明るい廊下へ目と耳を集中させる。静まりかえった硬い床に、上履きのキュッキュッと軋む音が聞こえてきた。開け放たれた後ろのドアから足音の主が通るのを確認する。前のドアへさしかかったところで、ぐいっと中へ引き込んだ。
「あっ」
廊下からの死角になる位置まで引っ張ると、そのまま腕にぎゅうっと抱きつく。
「せ……」
「好きな人って、誰?」
私は、ささやくようにそうきいた。
由人は図書室へ行く時はいつもこの廊下を通る。お昼休みにあんなことがあった後に、『今日は図書室に寄っていきます。ごめん』というメッセージが来て。それなら待ち伏せしてやろう、と衝動的に決めた。
声で私だと確信して警戒を解いたらしく、腕から少し力が抜ける。薄暗がりで後ろから絡みついたまま、もう一度きいた。
「誰?」
腕に押し付けた頬から、笑ってることが伝わってしまっただろうか。
「知らない人」
下を向いてる私に由人の顔は見えないけれど、やわらかく笑ってるのがなんとなくわかる。
「……っていうことになってる人」
私はもう一度笑うと、腕を抱く力をきゅっと強める。そして、すぐさま離れて、暗闇に彼を残したまま足早に立ち去った。
土曜日はよく晴れていた。休日の解放感とあいまって一層すがすがしい空気の中、由人と二人、家から一番近いコンビニにお菓子を見つくろいに来ていた。うららかな日射しだというのに、家でまったり海外ドラマの続きを見る約束になっている。箱入りのチョコレート、小さなプリン、チーズ味のスナック菓子を買ったら、偶然にも会計が666円だった。「オーメンだね」「もう一個買ったら777円だったのかな」なんて笑いながら、コンビニを後にする。
あれこれ買う物を相談すること。並んでのんびり歩くこと。当たり前の日常が帰ってくる休みの日は好きだ。遠くに小さな雲が浮かんでるだけの空を見てると、学校での緊張感が嘘のようだった。
「本間?」
突然、ななめ後ろから由人を呼ぶ声がした。振り返ると同い年くらいの男子が立っている。
なんだか見覚えあるような……あ、まずいかもしれない、と瞬時によぎった。
「ああ、高橋」
由人は軽く笑みを返した。おそらく同じ学校の生徒だろう。
「渋沢さん……だよね?」
「……はい」
私のことも知っていた。私達二人ともを知ってるのは塾か高校の人だけ。そして、彼は塾生ではない。
ああ、終わりか、と思った。
「コンビニ?」
ごく自然なテンションで由人が高橋くんに尋ねる。こういう時に堂々とできる姿勢には毎度感心してしまう。
「あ、うん」
「今日、肉まんとか20円引きだったよ」
「そうなんだ」
「じゃあ」
にこ、と手を振ると、由人は歩き出した。私も笑顔で会釈をしてそれにならう。高橋くんはまだ何か言いたげな顔をしていた。
終わる時ってこんなものか、と予想外のあっけなさに脱力しながら歩を進める。
「さっきの、同じ中学だった高橋だよ」
「ああ、だから見たことあったんだ」
由人の中学からうちの高校へ来た唯一の人。以前、卒業アルバムの写真を見せてもらって、翌日学校でこっそり確認した記憶がある。
「ここのコンビニ圏内じゃないはずなのに。何してたんだろ」
「ほんとにね」
少しの腹立たしさと解放感と。さてどうしたものか、と考えながら歩いていると、隣の由人から、私の出方を待ってくれる気配を覚えた。その安心感に、ふふ、と笑みがこぼれる。
「ばれちゃったね」
「うん」
「とりあえず亜美から言わないとかなぁ」
「ばらすんだ……」
「まあね」
「そうか」
由人がほんのりと嬉しそうに口元をゆるませていた。
「嬉しいの?」
顔をのぞきこんで問うと、何か言いたげにこちらをみつめられた。そして、再び前方に視線を戻すと、
「……あんな風に抱きつかれたら、追いかけたくなる」
熱のこもった瞳を宙に向けて、そうつぶやいた。脳裏に生物室でのことがよみがえる。
「そっか」
由人がそんな風に思ってくれる、このタイミングで見られるなんて。
「ちょうど、潮時なのかも」
二人の仲をこれからオープンにするとしたら。校内で話したり待ち合わせたりできる。今まで隠したかったわけじゃなく、遊びで嘘をついてただけだから。その先には自由が待っている。
「……いいの?」
思いがけず由人が引き止めるような確認をしてきた。本当に? と瞳が迷っている。
そう、新しい日常。甘い日常。
それは楽しい、ただの学園生活だ。
遊びを失う日々。……思ったより彼もゲームを楽しんでいた?
「んー……。それなら」
すっと目を細める。
「ちょっと、やってみたいことがあるんだけど」
いたずらっぽく笑って、私は由人にある提案をし始めた。
休みが終わった週明け、私は学校の一時間目が終わると教室を出た。廊下の向こうには由人がいる。コンビニの前で会った高橋くんも一緒だ。近くまで行くと、二人が私に気づいた。
ぺこり、とそつのない微笑で由人が会釈をくれる。私もそっけなく返す。内心、知り合いレベルの人にはこんな感じなんだな、と自分に向けられたそれを新鮮に感じながら。壁がある態度なのに、他人のふりを捨てた関係性に、カーテンを開いたような気分がわいてきた。午前の日が射す廊下がより一層まぶしく映る。
「あのさぁ……」
そのまま通り過ぎようとした私を止めるように、高橋くんが声を掛けてきた。
「二人は、付き合ってんの?」
やっぱり気になっていたのか、遠慮がちにそう尋ねられた。
「え? ううん」
苦笑といった顔で答えてみせる。
「近所なだけだよ」
同じ様に由人も続けた。
「あ、そうなんだ」
高橋くんの声は、ちょっとがっかりしたように聞こえる。
「うん。あのコンビニでよく会うんだよね」
「うん」
「そっかぁ」
話が一段落して少しの間が生まれたのをきっかけに、それじゃあと三人散り散りに別れた。
おそらくうまくいった。
恋人でないことを伝えられた。
私達は新しいゲームを始めた。
他人ではないとばれた状況下で、顔見知りのふりをすることにした。
そう、新しい設定は「近所の顔見知り」だ。会えば挨拶はするけど親しい友達じゃない程度の関係。コンビニで会って話しててもおかしくなく、いきなり恋人だとカミングアウトする不自然さもない。二人で話し合って決めた設定だった。
無視し合うじれったさは減って、ごっこ遊びは続けられる。一歩進んだ距離のステージ。
まだゲームはやめたくなかった。
「高橋くん信じたかな?」
「うん、たぶん大丈夫」
“駅で偶然会った”由人と地元の道を一緒に帰っていた。
「青香が本当にそっけなかったから」
「顔見知りならあんなもんだよ」
少し嫌味っぽく笑う由人に、そのほうがいいでしょ? とばかりに挑戦的な瞳を返した。
「うん。恋人じゃない、んだもんね」
「そうだよ。由人の決めた通り」
あの時。これからのことを話し合った時、片思いにでもしようかと提案した私に、顔見知りがいいと言ったのは由人のほうだった。まだ遠い距離感を続けたいと。おかしな関係を捨てなかった。
「そうだね」
ふふっ、と照れた笑い顔をする。それを見ると何だか慈しみのような思いが芽生えてくる。
「嫌になったら、また変えたらいいし」
「うん。オレが青香に片思いしてもいい」
そういえば、好きな人がいるって以前友達に言ってたな、と思い出し笑いがこぼれる。由人もうっすら笑って、熱を含んだ視線をこちらによこす。
「もう一度告白しようか」
「悪くない」
日が傾いて、辺りがオレンジ色に変わってゆく。道沿いの線路の影も濃さを増してきた。
「どうなるか楽しみ」
私は、ふふっと笑みをもらす。
「色々できそうだな」
由人も快さげにそうつぶやく。そして、くるりとこちらを向いた。
「ね、渋沢さん」
私を見る瞳が、夕陽に染まってやわらかく赤く光る。
「うん、本間くん」
由人を名字で呼ぶ嘘の言葉。よろこぶ私の顔は夕焼けの中どんな風に映ってるだろう。暮れる影の色ではっきり見えないといいと思った。
ゲームを楽しんでいるのは誰? このばかな関係を手放せない。手放さない。
いつもそうするように、私に歩調を合わせてくれる由人と並んで、深くなる影の中をゆっくりと歩いた。