誰かと共に居るということ
人は誰かと繋がることを懇願する。
少なくとも、わたしはそうだ。
わたしは誰かと繋がっていたい。
だから、繋がっていることを自覚するための何かが欲しい。
例えば会話。
共通の話題があれば、それだけでもつながりを自覚できる。
否、会話に限らず、共通の話題さえあれば、様々なところで繋がりを実感することができる。
同じ代物を持っていても、繋がりを実感できる。
お揃いというだけでも十分大きな繋がりだ。
もしも赤の他人と同じだったとしても、それが共通の話題となって、新しい繋がりができるから。
わたしは寂しがり屋だ。
誰かに構って欲しいと願う。
それを間違ったことだなんて、思いはしない。
年齢不相応、というのは自覚がある。
だが、繋がりを求めることに、誰かに構って欲しいと願うことに、年齢なんて関係ないとも思っている。
幼い子供は無垢故に、自ら繋がりを広げることが得意だ。
様々な物事に興味を持つから。
自発的に、その興味ゆえに行動を起こすから。
だから、繋がりを作りやすい。
けれど、歳を経てくるとそうはいかない。
たとえ興味があったとしても、心のうちに築いた自尊心や、他者への劣等感、人の目を気にする心が、その興味を表ざたにすることを苦手にしてしまう。
だから、繋がりが築き難い。
だからこそ、繋がりを求める。
今ある繋がりを確かめたがる。
繋がりは人を強くする。
他者が同じだと、共に居ると思うだけで、それだけでやる気が沸いたり、勇気になったりするから。
自分が少しでも必要とされていることを認識できるから。
たとえそれが、嘘偽りの友情や信頼であっても。
そして、繋がりは人を弱くもする。
他者が共に居ない、自分は一人きり。それだけで、酷く恐怖を煽られるから。
自分が必要とされないことを、認識してしまうから。
たとえそれが、一時的な嘘偽りであっても。
だからこそ、わたしは繋がりを望む。求める。
強くなりたくて。弱いままでいたくなくて。
きっと、構ってちゃんなんて言われる人たちは、皆。
誰かと繋がることで、自分の存在を認めたいんだ。
自分が必要とされることを、ここに居てもいいのだと、思いたいんだ。