第19節
第3章に入ったら、もっとゆっくりじっくり書き込みたいですね~
流石に一日一話投稿だと、そこまで推敲できないからな…。
第19節
ゆらゆらと視界の中の月が揺らぐ。そうしている内に真っ白になっていく。
胸に妙なむかつきを感じる。吐き気にも似た虚脱感。
どれもこれも貧血の症状だった。
俺は座っているベットに片腕をつき、何とか倒れ込むのを我慢する。
たったそれだけの事をしただけでも激しい頭痛を伴う。
こんなにも大量に出血したのは『人狼』の姿の時を除くと初めてかもしれない。
いや、以前じいちゃんとの鍛練の時、無駄にハッスルしまくったじいちゃんの技を受けて左手がぶっ飛んだ時以来かもしれない。
あの時は「やっちゃった♪(てへぺろ)」みたいな顔したじいちゃんをどうやったらこの無くなった左手で殺れるだろうかと本気で考えたものだ。
もげた左腕はちゃんと後でスタッフが(ry
とにかく流石にヤバい。死ぬほどではないが、死ぬほどキツイ。
消えてしまいそうな意識を必死に繋ぎとめる。今、気を失う訳にはいかない。
俺がそんな努力をしている間もナギは丹念に俺の右腕の手首に開いた傷口から血を舐め取っている。
その唇の合間から、チロチロと覗く真っ赤な舌が扇情的で、こんな時だというのに目が離せない。
ナギは舌での愛撫を続ける。舌が肌を這いまわる感触と、耳朶に入って来る粘質な水音が俺の背筋をゾクリと粟立たせる。
しかし、そんな僅かな欲情も、貧血の症状と、切り裂いた手首の痛覚を彼女の舌が刺激する痛みで霧散していく。
まるで飴と鞭、もしくは天国と地獄。
そんな時間を必死に歯を食いしばって耐える。
そうしていると、どうやら手首の血が止まったらしく、ナギがその唇を離す。その唇から覗く舌から、唾液の糸が先ほどまで吸いついていた場所へと繋がっている。
その唾液は月光に照らされながら、輝く玉を作り、やがて寝台へと垂れていった。
「ご主人様」
その唾液の垂れる所を注視していた俺は、声を掛けられてようやくナギに視線を向ける。
ナギの顔色は月明かりでも分かるほどに良くなっていた。
いや、良くなり過ぎていた。
「お身体は大丈夫でしょうか?本来ならばこのように大量な血液は必要無いのです。ほんの少し、指先に傷を付ける程度でよろしいのですよ!?」
ナギはほとんど涙目になって訴えかけて来る。
でも、そんな事言ったって俺はその事を知らなかったんだし、あの時は頭に血が昇っていたのだから。
「ああ、このように大きな傷を…」
そう、うっとりと言うと、再び俺の手首に舌を這わせ始める。
今度は先ほどよりも、もっともっと執拗に、もっともっと淫らに。
必要以上に大きく舌を躍らせ、粘質な水音を立てるのを楽しんでいる。
彼女は欲情していた。
それが、大量に血を飲んだせいなのか、それとも他の要因によるものなのかは分からない。
しかし、俺はそんな彼女を止められずにいた。
さっきから視界はぐらぐらしっぱなしだし、思考は一向にまとまらない。もしかしたら、今自分に何が起きているのか理解すらできていないかもしれない。言葉を発することすら億劫になっている。
だが、それでも危機感を感じて咄嗟に腕を引こうとするが、その腕もあっさりとナギの手に捕まってしまう。
振り解こうとするが、先ほどまでとは逆に力強さを取り戻した彼女の腕に、今や弱り切った俺の腕では太刀打ち出来ようはずも無い。
万力のようにすら感じられる彼女の力によって完全に固定されてしまう。
そんな攻防を繰り広げている間にも、彼女は我関せずといった調子で舌を這わせ続ける。
その舌が這いずる範囲は、もはや手首の傷口に留まらず、腕全体へと及んでいた。
まるでナメクジが這いまわったような粘液の跡が彼の腕に刻まれてゆく。それが月光を反射して、テラテラと光っている。
その、あまりに扇情的な光景がアキトからさらなる思考力を奪って行く。
ナギはアキトが動けないのをいいことに、さらに舌を這わせる範囲を広げていく。
アキトの寝巻である作務衣の裾をたくし上げ、露わになった二の腕に、その唇が吸い寄せられていく。
そして、再びの蹂躙。
アキトの脳がそこまで認識した所で、彼の身体を支えていた片腕から力が抜け落ち、アキトは寝台に仰向けに倒れ伏す。
「………ぐっ」
その衝撃に激しい頭痛を伴いながら、アキトの身体が寝台へと投げ出される。
それはナギにしてみれば、己への供物が祭壇へと捧げられた事と等しい。
彼女は一も二も無く彼の身体に覆いかぶさる。
貧血による低体温のせいなのか、はたまた彼女の興奮のせいなのか、ナギの身体は燃えるように熱い。
そんな彼女が熱っぽい手つきで彼の上着に手を掛ける。
もはや指先一つ動かすのさえ激しい倦怠感に覆われてしまっているアキトにそれを阻む手段は無い。
あっと云う間に彼の作務衣の結び目は解かれ、彼の鍛練によって引き締まった上半身が露わになる。
あまりに無駄なく、限界まで絞られた彼の身体はどこか野生の獣じみている。筋肉によって彫られた深い溝は、窓から差し込む月光によって濃い影を生んでいる。
そんな彼の身体に、ナギは再び舌を這わせ始める。
まず、彼女が狙いを定めたのは幾つにも割れた腹筋だ。
先ほど、俺の話に怯えたシノがそうしたように、俺の腹に顔を埋める。
だが、シノと決定的に違うのは彼女が求めているのは『安堵』ではなく、さらなる『興奮』だと云う事だ。
激しいキスの嵐がアキトの腹筋を襲う。魚や鳥が餌を啄ばむように、細かく、しかし何度も何度も。
ひとしきりそれを繰り返すと、今度は再び真っ赤な舌を覗かせて、浅い呼吸によって上下する谷間を舐め始める。
その動きは徐々に上へと登り始める。
一旦左右の腹横筋へと逸れながら、ゆっくりと大胸筋へと到達し、鎖骨を経由して、とうとう首筋へと辿り着く。
ほとんど耳元と言えるような場所から彼女の荒い息遣いが聞こえる。それが耳朶を震わせ、アキトに快感をもたらす。
ピチャリ、ニチャリ、とナギの舌が音を立てアキトの首筋を這い上がる。
ゆっくりと、まるで焦らすように。
事実、アキトは恐ろしい程の飢えを感じていた。叫び出したいような、暴れ出したいような、そんなもどかしさ。
彼だって男だ。いや、『雄』だ。
たとえ、どんなに訓練によって強い『理性』を持っていたとしても、ここまでされて黙っていられるほど枯れてはいない。
むしろ、そういった事柄に惹かれやすい年頃の彼にとって、今の状況は耐えがたいものが有るに違いない。
彼が己の内の理性と欲望をせめぎ合わせていると、フッとナギの唇が吸い付いていた喉ぼとけから離れる。
「……?」
それに、間抜けにも口を半開きにして疑問符を浮かべるアキト。
これで終わりなのか、と安堵だけでなく物足りなさを感じてしまう。
だが、次の瞬間には言葉を無くし、目を大きく見開く事になる。
何故なら――――
「んっ!んむぅ!」
彼の唇は彼女の唇によって塞がれていた。
これが俺のファーストキス、などと考えている余裕など無い。
いや、果たしてこれはキスなどと云う可愛い代物なのだろうか?
竜の顎に飲み込まれるがごとく、アキトの唇はナギの唇によって貪り『喰われていた』。
ナギの唇からは間抜けに開かれていた彼の口めがけて舌が伸び、彼が反応する間もなく口内へと侵入される。
熱い。彼女の舌はまるでそれ自体が高熱を放っているかのようにアキトの舌や口蓋を燃やす。
最初の内は口内をただ蹂躙するだけだったそれは、やがてアキトの舌を探し当て、まるで飴玉を転がすかのように舌先で弄び始める。
少しざらざらした舌の感触がアキトの脳髄を焼く。
初めはただ縮こまっていただけだったアキトの舌も、やがて熱に浮かされたようにナギの舌を求め始める。
それを確認したナギは少しずつ舌を引き戻して行く。アキトの舌は、まるで灯りに誘われる蛾のようにナギの舌を求めて引き伸ばされてしまう。
そうして突き出された彼の舌を、
「んん゛っ!!」
ナギが一息に吸い出す。
この時、既にアキトの理性はほとんど焼き切れていた。
だが、理性が焼き切れたと言っても、指先一つ動かせない彼に何か出来る訳でもない。
ただ、抵抗の意志が無くなったのがナギにも分かったのだろう、その動きがさらなる淫靡さを増す。
己の口内でアキトの舌を、まるでお気に入りのお菓子を咀嚼するように、舐め、甘噛みし、味わいつくす。
変化はそれだけでは無い。
アキトとピッタリ密着した状態で、ゆっくりと己の身体を擦り付け始める。
彼女の豊かな胸、腰、太股が、同じくアキトの筋肉質な胸、腰、太股と擦れ、摩擦熱だけでは無い浮かされるような熱を発する。
自分の身体が既に自分の言う事を聞かなくなってしまったアキトは、最後の理性を振り絞り、その目を閉じる。
おそらく、それが引き金となったのだろう。ナギの唇が名残惜しそうに、ゆっくりと離れていく。
そして、彼女が次の行為へと移行していく。
アキトは熱にうなされる頭の片隅で考える。
(まさか、こんな形で初めてを奪われる事になるとは、思わなかったな…)
彼だって男だ。いつかは愛する異性とそういった関係になり、こういった行為に及ぶことを夢見ることだってある。
だが、まさかこんな異世界で、自分を『ご主人様』と仰ぐ、美しい女性から、こんな強姦のような形で初めてを迎える事になるとは。
まさしく、夢にも思わなかった。
だが、抗う事はできない。
指先一つ動かないし、頭は貧血の影響でさっきから思考力が低下しっぱなしだ。
しかも、身体の方はとっくの昔に欲望に流されて、抵抗を止めてしまっている。むしろ、これからの行為に期待し、快楽を貪ろうとしているのが分かる。
心の中でアキトは己を嘲笑う。
結局お前は『拝』では無かったのだ、と。
『獣の皮を被った人』ではなく、『人の皮を被った獣』だったのだ、と。
(滑稽だ…。本当に笑える…)
目を瞑っているため分からないが、わずかな衣擦れの音が聞こえる。おそらくナギがその身に纏った衣を脱ぎ去っているのだろう。
それが終われば今度は自分の番だろう。
その後の事は………、考えたくも無い。
考えてしまえば最後の矜持まで持って行かれるのは分かっている。
ギッと寝台が軋む音がして、再び身体の上にナギの重みを感じる。
彼女の柔らかな肌と、俺の肌が触れ合う。
そして、ぎゅっと堅く目を瞑った俺の頬に彼女の掌がそっと添えられ、息が掛かるほど近くに彼女の顔がある事が分かる。
覚悟を決めようとしても、一体何の覚悟を決めればいいのか分からない。
これがただのナギの暴走だと断じる覚悟だろうか?
(違う!)
これは唯の気の迷いで、一晩だけの夢だと信じる覚悟だろうか?
(違う!!)
だがしかし、そうでないと言うならば。
彼女を受け入れ、受け止める覚悟だろうか?
(本当に?)
………。
(本当に?)
(本当にお前はそれで良いのか?)
ナギは大切な仲間だ。迷い無く己の手首を切り裂いて、こんな風に倒れるほどに出血してでも助けたいと思う程に大事な。
そんな大事な女性に対して、こんなどっちつかずの気持ちで身体を重ねるなど、不誠実極まりない。
そんな事をしてしまえば、俺は『拝』失格では無い、『人間』失格だ。
それでもなお、
なお、お前はこんなだらしなく転がっているつもりか?
(否!!断じて否!!)
だが、
だが、どうすれば…?
「………?」
そこまで考えてから、アキトは気付く。いつまで経っても、一向に何も起こらない事に。
不思議に思い、堅く閉じていた瞳を開く。
そして、彼の目に入って来たのは、
一糸まとわぬ姿で、泣きじゃくるナギの姿だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
実を言えば、ナギはとっくの昔に欲情から醒めていた。
だが、彼女自身この行為に溺れていたのだ。我を忘れるほどに。
だからアキトが自分に身を委ね、己を求めてくれていると感じた時、身体が燃え上がるように嬉しかった。
このまま、感じるがままに、求められるがままに、全てを捧げてしまいたくなるほどに。
だが、それが己の勘違いだとすぐに分かった。
衣類を脱ぎ捨て、彼の前に身体を晒し、身を委ねた時。しかし、彼の瞳は堅く閉じられ、その表情は苦悶と懺悔に歪んでいた。
だから、己の感じていた物が勘違いだと言う事にすぐに気が付いた。
その瞬間、まるで冷水を浴びせられたように頭が『恐怖』に侵食されていくのが分かったのだ。
自分は取り返しのつかない事をしてしまったのではないか?自分は彼に非道なことをしてしまったのではないか?
事実、彼女がこのまま行為を続けていれば、彼は『自分』という物をバラバラにされていただろう。
『拝』とはそういう生き物なのだから。
かと言って、
かと言って、だ。
この行為を止める事など彼女には出来なかった。
彼女にとって、『恐怖』から逃れる方法はこれしか無かったのだから。
だから、彼女は泣きながら懇願していた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ナギが泣きながら懇願して来る。
「ご主人様、どうか私に御子を、御子を授けてください…!」
聞き様によっては、行為を望む言葉。
だが、そこにはすでに淫靡さの欠片も無い。悲痛な願いとでも言うべき必死さで彼女は懇願していた。
「どうか、どうか御慈悲を…!」
彼女の頬から涙が滑り落ち、俺の頬を濡らす。
俺はあっという間に取り戻した『理性』でもって、瞬時に理解する。
理解すると同時に、頭をハンマーか何かで叩かれたような気分になる。
いや、実際にこの手が動いて、近くにハンマーが在ったなら己の頭をかち割っていたところだ。
己の馬鹿さ加減に。己の自分勝手さ加減に。
何が指先一つ動かないだ!!何が貧血で頭が回らない、だ!?
お前はそう言って、『諦めようと』しただろう!!
この『真実』を前にして!!
『拝』のくせに!!何故それが分からなかった!!何故もっと早くにそれに気付いてあげられなかった!!
彼女がこんな行為では無く、『救い』を求めている事に!!
己への怒りを必死に抑えつける。そんな事をする前にやらなければならない事が有ったから。
動かない腕に命令する。血管がブチ切れても、神経がズタズタになってもいい。
ただ、『動け』と。
その命令に、動くはずの無い腕が動き始める。ぎこちなく、危なっかしく。
それはゆっくりと天井に向けて差し出されていく。
そして、いまだに涙を流す彼女の頬にそっと添えられる。
彼女の肩がびくりと震える。いや、とっくの昔から彼女の肩は震えっぱなしだったのだ。
俺は、添えた手の親指でそっと彼女の涙をぬぐってあげながら、謝罪する。
「ごめんな、ナギ。気付いてあげられなくて」
「…え?」
アキトと同じく罪悪感に苛まれていた彼女は不思議そうな顔をする。何故、自分が謝られているのか理解できない、といった顔だ。
思った通り、彼女自身も気が付いていないのだ。
アキトはそんなナギに優しく、見る者を安心させる微笑みを浮かべて、こう言った。
「でも、もういいから。もう、怯え無くていいから」
「ご主人様…?」
ナギは俺が突然何を言い出したか意味不明だろう。
だから、と云う訳ではないが、彼女に『それ』を自覚させなければいけないようだ。
俺は一息いれて、明滅する視界の中のナギの顔をしっかりと見据えて言う。
もしかしたら、これは彼女にとってのパンドラの箱なのかもしれないと思いながら。
「もういいんだ。もう、『死の霧』に怯える必要なんか無いんだ」
「…っ!」
彼女の肩がひと際大きく跳ねて、その息を詰まらせる。やはり、そう云う事だったのだ。
ヒントはあちこちに在ったのだ。それに俺が気付かなかっただけで。
例えば、ナギがこの部屋に来てからした『大事な話』の時、大水竜の所へ行こうと言った俺に彼女はこう答えた。
『嫌です!!私は死ぬまでご主人様のお側に仕えます!!』
と。
だが、変ではないだろうか?
永遠の命を持つ彼女ら『竜』が、『死ぬまで』などと云う言葉を使うなんて。
そして、さっきの言葉もそうだ。
彼女の好意を疑う訳ではない。
だが、いきなり『子供が欲しい』と言われるほどの何かが有ったか、と言われると首をひねるしかない。あまりに性急過ぎる。
それはつまり。
「一年後に自分が死んでしまうんじゃないかと思ってるんだろ?」
「………」
そう、俺は彼女を救えてなどいなかったのだ。
たとえ『死の霧』本体を討ち祓おうとも、彼女の中から『死の霧』は消えてなどいなかったのだから。
もちろん、『死の霧』は討ち祓った。それは間違いない。あの『死の霧』は再び『世界』によって再生されるまで、彼女にちょっかいを出す事など出来ない。
だが、彼女の中から『死の霧』への不安が消えることなど無かったのだ。
なにせ、『死の霧』から逃れたのは彼女が初めてなのだから、頭では分かっていてもやはり恐怖が無くなる事など無いのだろう。
その不安、恐怖はおそらく俺が考えるよりもずっと深く、暗い。
なんせ、彼女は『永遠』を生きるのだ。
そんな彼女が、いきなり『あんた一年後に死ぬよ』と宣告されたとしたら。
文字通り、『永遠』に続くと思っていた『未来』が、突然一年という期間で閉ざされたとしたら。
その不安、恐怖、もっと言うなら『絶望』は果てしないだろう。俺みたいな有限の命を持つ者にとって想像すらできない程に。
だからこそ、彼女は子供を欲しがった。何かを残したくて。
けれど、
それが悪い、なんて口が裂けても言えないけれど、
けれど、これだけは言える。
「子供を欲しがる必要なんて無いんだ。ナギはちゃんと『永遠』を生きるんだから。むしろ、子供が出来た方がきっとナギは苦しくなってしまうと思う」
「そんな、こと…っ!」
ナギが否定しようとする。
けれど、それは弱々しくて、俺の反撃を許してしまう。
俺の指が彼女の唇を塞ぎ、言葉を封じている内に俺は言う。
「一年後に死ぬと思って子供を産んでしまったら、きっと苦しくなる。だって、自分の子供だぞ?その『未来』が気にならない訳が無い」
「―――っ!!」
俺の言葉に息を飲み、言葉を詰まらせるナギ。
しかし、それも一瞬。
彼女は大きくかぶりを振り、叫ぶように言う。
「でも!!でも、私にはそれ以外無いんです!例え一年後に死ななくったって、それまではずっと『死』の恐怖に怯え続けなければならないんです!!それなら!それならまだ、子供を残して死ねると思って恐怖に耐える方が良い!!」
「………」
今度は俺の方が沈黙する番だった。
彼女の言っている事は正しい。例え、本当は一年後に死ななかったとしても。
それが間違っている、なんてとても言えないし、思えない。
けれど。
けれど、俺はそんな風に、例え一年であろうとも、彼女にそんな風に過ごしてなんか欲しく無かった。
これは俺の我が儘だって、分かっている。
けれど、そう思ってしまったんだ。そう、願ってしまったんだ。
それこそが、彼女を救い、救い切れなかった、俺の責任。
俺の贖罪。他の『誰か』になんて、俺以外の『誰か』になんて救わせたくないから。
だから。
だから、俺は『世界』に牙を剥く。
それが、目の前の大事な女性であろうとも。
俺は、彼女の頭を引き寄せ、抱きしめる。
そして、『世界』すら騙す狼は一つの約束をする。
それは、とても幼稚で自分勝手で、でも心から守ると誓える約束。
「騙すから。俺が、騙すから。ナギは絶対に死なない。そう信じてくれるまで、何度だって騙すから。だから、怯えないで。そんな顔で一年も過ごして欲しく無いんだ。ちゃんと騙すから」
「………」
ナギは沈黙したままだ。
沈黙したまま、俺の胸に顔を埋めて嗚咽を堪えている。
「…ほ、んとに?」
か細い声。
けれど、それで十分。
俺は頷く代わりに、彼女を強く抱きしめる。
「本当に。絶対。必ず。この一年間、ナギを騙す。ナギは絶対死なない。俺が絶対護るから」
そう言って、何度も何度も繰り返す。まるで、子供に言い聞かせるように。再び涙があふれ出した彼女の頭を優しく撫でながら。
それはナギが泣き疲れて、眠ってしまうまで続けられた。
罪悪感に押し潰されそうな俺を、唯一救ってくれたのは、その寝顔が安らかだった事だけだった。
ナギはヒカルとの対比というべき存在です。
ヒカルは『過去』に怯え、ナギは『未来』に怯えています。
ヒカルは『騙すな』と言い、ナギは『騙して』と言います。
アキト君はこの二人(+一人)の為に東奔西走する事になるでしょう。




