第36節
本当にすいません…。
言い訳も思い付かない…。
第36節
アキトは紅葉に赤々と、あるいは黄々と彩られた雑木林を走っていた。
走り抜けていく間にも、深く色づいた様々な形状の葉が一枚、また一枚と目の前を落ちていく。
しかし、その落葉が完全に地に落ちるところを見る事は叶わない。
何故なら彼は、今これでもかと云う程に焦っていた。どれほど焦っているかと云うと、今ならば閉まりかけの電車のドア挟まれてでも駆け込み乗車できるほどに焦っていた。
(ショートカットしようとして、逆に遠回りとか意味が分からないよっ!!)
現在呼吸は人外の疾走速度を維持する為に費やしている為、口には出さず心の内で叫ぶ。
彼が走っているのは、水竜の国と風竜の国の間に横たわる《風水山脈》、その山中。彼が”用事”として出かけていた町と、クラフストンを結ぶ直線の上だった。
しかし、最短距離が常に最速距離とは限らない。
大竜脈路と異なり、整地も整備もされていないこの道―――というか道なき獣道―――は、獣道というだけあって魔獣との遭遇率が異常に高い。
今日出遭っただけでも、熊、猿、兎、虎、狼、犬、猫、エトセトラ、エトセトラ…。ちょっとした動物園が開けてしまいそうな勢いだった。
ただ、急いでいるため流石に討伐はしていなかった。まあ、ヒトの領域を荒らしていない動物を狩るのは流石に気が引けたし。―――面倒だし。
(これがばれたら、またヒカルに根性焼きいれられそうだな…)
ただでさえ、そう…ただでさえ無断で出てきた揚句、予定が遅れに遅れ、既に懲罰が下るのは決定しているようなものなのだ。
(これ以上、面倒事が起きませんように…)
神様は信じて無いので、星に祈りを。星出て無いけど。
そして、祈った次の瞬間に聞こえて来る、怒号と悲鳴と馬の嘶き。
(ああ…)
落涙。ハラハラと。多分周囲を舞う落葉よりも勢いよく。
(こういう時ばかりは、無自覚でいられない自分の性格が恨めしい…)
そうは思いつつも、既に足はそちらを向いていた。
向き直ってしまえば、もう眼を逸らす事はできなかった。
そして、心はとっくの昔に前方を向いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「―――どうしましょう…」
やや途方に暮れた体でフーカが呟く。事実、事態は完全に手詰まりだった。こちらの船は、現在総員4名―――内、非戦闘員3名。
肝心の護衛役は、
「やはり消し炭は駄目なのか…」
どこか残念そうに危険極まりない事を呟いている。そして不意に顔を上げると、フーカに心底申し訳なさそうに告げてくれるのだ。
「フーカ。非常に残念なのだが…」
「ええ、わかってます。とりあえず他の作戦を―――」
「スタート直後に敵船を全て撃沈させる私の策が、はやくも無駄になってしまったようだ」
「その危険な思想を早く捨てて下さい!!」
「私の存在を全否定だと!?」
あなたは自分の存在意義をなんだと…。
逆に彼女を心配するフーカをよそに、ヒカルはヒロインにあるまじき黒い笑みを浮かべている。
「くっ…。かくなるうえは、跡形も残らない程に粉々に…。フフフ…、まだ風竜走の本番ではなく訓練なのだから問題無いだろう…。喧嘩を売って来ているのはあちらなのだしな…」
思考が危険すぎて、もはや着いて行けません…。
「アキトさ―――ん!はやく戻って来て―――!!」
虚空に向けて思わず叫ぶが、そうそう都合良く彼が現れるはずも無く。叫びは虚しく乾いた風にかき消される。
あ、ちょっと風気持ち良い…、とフーカが思わず現実逃避を始めるが、シノの一言が容易にフーカを現実世界に帰還させてしまう。
「で、どうするの?黒いお船、もうそこまで来てるよ?」
シノの言葉通り、黒いお船―――《竜の翼号》―――はその名の示す通り、その翼で風を掴み、着実にこちらに近付いていた。
砂漠の熱気にも似た焦燥が、フーカを焼く。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
恐怖とない交ぜになった焦燥が、その一団を支配していた。相応の覚悟を持って、この任に当たった仲間もその多くが恐慌状態の一歩手前だった。
無理も無い。
我々の想像力は、現実と比してあまりに脆弱だった。たとえ、『誰もが恐怖する地獄を想像しろ』と言われた所で、以前の私達は血と苦痛に彩られた陰惨な情景を―――どこぞの聖書に描いてあるような借り物のイメージを引っ張り出してきて、想像を創造した気になるだけだろう。
だが、今なら分かる。”地獄”という場所には、血も苦痛も絶対に必要な物ではないことが。
そして、知った。『誰もが恐怖する地獄』など存在しない事を。
恐怖するから地獄なのだ。絶望を抱くから地獄なのだ。
想像の上での煉獄など、現実の焚火一つにすら劣る。
地獄は決して想像では語れない。
そしてまさに今、眼前に私達の地獄が広がっていた。
それは奇妙な姿をした猿の群れ。一頭一頭が牛の二倍はあろうかという巨躯。
耳は齧ったようにボロボロ、鼻は口を覆い隠す程に大きい。
なにより醜悪なのは、その眼窩から異様に突き出した目玉。なまじ人間と近い姿容をしているために際立つその異形。
そんな不気味な存在が、群をなして追ってくる。
”群れ”と云うくらいだ、一頭や二頭ではない。
ただ、十頭や二十頭でもなかった。振りかえって確認するのも拒絶してしまうような大群。
それが私達の一団をに這い寄る地獄だった。
一団の最後尾、最も年老いた老馬が牽引する馬車はもう限界が近い。
その馬車の手綱を握る青年は、作戦の前こう言っていた。
『へへっ、俺はもう皆の為に死ぬ覚悟は出来てるんで!地獄だろうと、どこだろうと、お供させていただきますよ、姐さん!!』
そう言って、照れくさそうに鼻の頭を擦り上げていた。熱意に瞳を輝かせ、今回の作戦に関われる誇りと喜びでいっぱいだった。
死ぬ事も厭わない。本気で青年はそう思っていたことだろう。
だが、その時の彼は思っていなかっただろう。想像もしていなかっただろう。
まさか己が、その言葉と裏腹に、瞳からは絶望の涙を流し、狂ったように救いを求め、言葉の通じぬ獣に命乞いをする破目になるとは。
「待って!待ってくれぇ!!置いて行かないでっ、助けてくれよぉ!!俺もそっちに乗せてくれよ、見捨てんなよぉ!?仲間じゃないのかよ!」
ただただ必死な事だけが伝わってくる叫び。だが、決して誰も速度を緩めようとはしない。
皆も彼と同じように、極度の恐慌状態であったためだろう。
しかし、同時に分かっていたのだ。
この局面を、この窮地を、この極地を―――この地獄を、脱する為には”犠牲”が必要だということを。
そして、誰もがその”犠牲”にならないために恐々としていた。自分では無い誰かが”犠牲”になることに深く安堵していた。
追いすがる魔獣の腕が、馬車の荷台を捕まえようとして、しかし幸運にも空を切り、ゴツンと大きな音だけを残して離れた。
青年からしてみれば、それはまさしく地獄からの手招きだった。
「キィッ!?」
奇妙な悲鳴。心の臓を握りつぶされ、肺の腑をボロ雑巾のように絞られて出た悲鳴。
「く、来るな!?来ないでくれ!頼むからあっちへ行ってくれ!!嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だイヤダイヤダイヤダァァァァァァァ!!」
「―――っ!」
ほぞを噛む。唇を噛む。
いつしか馬車の荷台から立ち上がる。もう見てはいられない。
だが、私が行動するより速く、その腕を御者台に座る男に掴まれる。
「どうする気だ」
重く、聞いているこちらが息苦しくなるような潰れた男の声。
その息苦しさに、負けじと私は叫んだ。なにを当然の事を、と。
「助けるのです!!」
その答えに、男は笑う。声は上げない、呼気も吐かない。ただ口唇をまくれ上げさせるだけの笑み。嘲笑。
「どうやってだ」
「どうやっても、です!」
「私は方法論を問うているのだがな」
クックと、今度こそ男は肩を震わせて嗤った。
だが、それが私を激昂させる。
嘲笑されたことに対して、ではない。この男がこうまで冷静なことに対してだ。
「貴方は………っ」
「なんだ?睨みつけているだけでは分からんぞ」
「貴方はっ!…どうしてそこまで冷静なのだ…!共に闘うと誓った仲間が、同朋が、醜き魔獣の餌になろうとしているのに!何故…貴方は!!」
「くだらんな」
とるに足らない。私の激昂も、あの青年の命も、仲間の恐怖も、同朋の危機も。
「実にくだらない」
「何がくだらない!?」
「くだらないさ。ああ、実に馬鹿々々しい。”死ぬ覚悟は出来ている”、そうではなかったのか。私はその覚悟に敬意を表していたのだよ。実に期待はずれだったが」
「死ぬ覚悟は、死にたがっている事の代替ではない!」
「そのようだ。見ろ、あの醜態を。生への執着とは実に不格好だ。どう足掻こうが死ぬのだから、もう少し往生際良くしようとは思わないのか。フム、理解に苦しむな」
『理解に苦しむ』。この男の口癖だ。
理解しようなどと思ってもいないくせに、理解できない苦しみなど微塵も知らないくせに、この男はこの言葉をよく使う。
そう、この男は理解を得ようとしない。
ただ、現実の表面だけを読み取る術だけは飛びぬけていた。それゆえの、だったのかもしれないが。
有能…ではあるのだろう。彼はもはや私達の組織に必要不可欠な存在となってしまった。
今回の輸送作戦を立案したのも、その全ての手配を行ったのも、この…男……。
ささいな違和感。それは周囲を見渡し、この男の能力を鑑みる事で確固たる物となった。
知らず、私は男の胸ぐらに掴みかかっていた。
「貴様…っ!」
「なんだ。突然どうした」
「”敬意を表していた”とは、そういうことか!!”期待はずれ”とは、こういうことか!?」
「何を言っているか、理解に苦しむな」
「ふざけるなぁあああああ!!」
血反吐を叩きつけるかのように叫ぶ。
「貴様はこうなることを予想していたな!?だから、あの青年の馬車だけが老馬なのだろう!そして、その手配をしたのは貴様だ!最初から、”犠牲”にするために!!」
「同じ事を繰り返すが」
だが、男は顔色一つ変えない。相も変わらず、墓石のように冷たく重苦しい声で答えた。
「―――何を言っているか、理解に苦しむな」
「―――っ!!」
激昂は臨界に達し、私は拳を振り上げる。
「殴るのか、私を」
「答えるまでも無い!!」
「私を殴ればどうなるか、理解したうえでそうするのだろうな」
「貴様になにが出来る!」
「知っているだろう?―――”なんでもだ”」
「なんだと!?」
「組織には規律などあって無いようなものだが、同時にそれは制約の少なさも意味している。私がその気になれば、どんな報復でもお前に与えてやれる。例えば、そうだな。お前の大事な”帰る場所”とやらを無茶苦茶にしてやることもな」
「貴様ぁあああああ!!」
叫ぶ。だが、拳は動かない。
「クソォ………!」
力無く、腕は振り下ろされた。
「フン。それでいい。同じ要領で命令しよう。ここを動くな。お前の命は私を護ることのはずだ」
「クソッ、クソッ、クソッ!!」
無力だった。そして、頭のどこかでは気付いていたのかもしれない。この作戦を成功させるには、結局こうするしかなかったのかもしれない、と。
他に方法があれば、私達はこんな危険な場所を経路として選択はしなかった。
恨むべきは、狭められた選択肢を突きつけられる我々の運命なのか。
(それでも…)
諦観に、それでも屈しぬよう胸元からメダリオンを取り出し、両の手の間に祈るように握り込む。
(どうか…)
神様は信じていない。だから、夜の星々に願いを。今は見えないけれど。
けれど、今もそこで輝いているはずの煌めきに。
太陽という巨大過ぎる輝きに遮られて、届かないかもしれない。
それでも、夜になれば諦めずに輝く星々に。
「うわああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!ああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!!」
青年の悲痛な声が響く。巨大な猿は、既に荷台の端を掴み、馬車に引きずられるように走っている。乗り込まれるのも、もはや時間の問題だろう。
(どうか…!)
祈る。それしか出来ない自分が、身を裂きたい程に憎らしかった。
(星よ…!)
誰か。誰でも良い。何者だろうと構わない。
この無力な己を嘲笑うように、誰か!!
(―――大いなる探究の月よ!!)
人間の想像力と云うものは、実に脆弱だ。
我々が、この地獄を予想できなかったように。
これから起こる奇跡を、誰一人。
想像してもいなければ。
真に信じてもいなかった。
「――――――情けない声を上げてる暇があったら、さっさと逃げろバカ!!」
その奇跡を、ただ一人の”人間”の少年が為そうとは。
考える時間だけはそこそこあったので、次章への伏線を織り交ぜつつ。
そろそろ風竜走、始まってもいいのではなかろうか。




