第34節
時間が無い…。
燃えるごみを出す時間すら無い…。
第34節
満ちてきた月の下、純白の船体の舳先で彼らは語らう。
アキトはフーカを抱く左腕にそっと力を込めると、水滴が零れるように呟いた。
「フーカってさ…」
「な、なんですか?」
その呟きのあまりの近さに、少女は戸惑ってしまう。
実際、フーカの小柄な体躯はアキトの膝上に座ってさえ、彼より頭一つほど小さかった。
それ故、フーカからアキトの表情をうかがい知ることは出来ない。
少女の頭越しに、少年が語りかける。
「なんかさ…」
言葉にしづらいのか、少し躊躇う素振りを見せた後。こう言った。
「…なんか血の匂いがするよね…」
(そういえば、着替えてませんでした――――!!)
なんかも何も、砂避けのマントの下はいまだに血まみれのセーラーだ。
慌ててフーカはアキトから身体を離そうとする。
「す、すいません!すぐに退きますから!って言うか、なんでわたし抱きかかえられてるんですか!?」
「いや…、こっちの方が寒く無いかな、と」
「そうでした!近付くなり、捕獲されたんでした!!」
確かに一人より二人の方が寒くは無いと同意したが、これは想定外だ。
「まあまあ、いいじゃない。―――ぬくぬく」
「な、なにげに満足気ですよこの人――!!」
ジタジタしてみるが、まるで蛇に絡みつかれたかのように抜け出せない。
「左腕、怪我してるんですよね!?」
「そうだよ~、フーカのおかげで危うくポロリするとこだったけど」
その言葉に、ビクリと身体を硬直させる。次いでしゅんと頭を項垂れさせた。
「…すいません。あの時は何が何だか判らなくて。加減なんか考えずに噛みついてしまいました…」
身体に回された左腕へ謝罪するように、そっとその場所へふれる。
その瞬間、僅かではあったがアキトの身体が緊張したのが分かった。おそらく、痛むのだろうが、傷口は長い袖を備えた服飾の上からは見る事が出来ない。
そして、もう一方。
右の肩から先、力無く垂れ下がった袖が、その中身が存在しない事を示していた。
「…ごめんなさい」
謝る事しか出来なかった。
その腕を見る度に、自分が取り返しのつかない事をしてしまったのだと自覚させられる。
どうしたらいいのか分からない。
どうやったら償えるのか。
出ない問いに苦悩していると、背中合わせの彼の胸が震えた。
笑っているのだ―――おそらくまた、あの苦笑で。
それを止めたくて、いつの間にか必死な口調で口走っていた。
「わ、わたしがアキトさんの右腕になりますから!元の腕と違って、全然頼りにならないかもしれませんが、何でもします!お食事だって、お風呂だって、望まれるならそれこそ夜伽だって―――痛ぁッ!?」
バチコ――ン!と派手な音を立てて、フーカの額をアキトの指が殴打した。
「あ、すまん。まだ加減が出来ないから、いいのが入っちゃったな…」
「な、な、な…なにをするんですかっ!?」
衝撃にクラクラする頭で必死に訴える。
その叫びに対して、アキトは嘆息混じりに答えた。
「前にも言わなかったか?女の子が”何でも”とか”身体を売って――”とか言うもんじゃないって」
「で、でも、わたしにはそれ以外…」
「だから、そもそも前提が間違ってる」
「え…?」
そっと、帽子越しに頭を撫でながらアキトは答える。
「フーカは何でも自分のせいにしたいのかもしれないけど、少なくとも俺の右腕の事は俺の責任だぞ?」
「そんなっ!?だって、わたしが馬鹿な事をしたから、そのせいでアキトさんがあの人と闘うことになってしまって――――」
「だーかーらー、その選択をしたのも、そして馬鹿正直に正面から突っ込んだのも、結果として右腕を失ったのも、俺の責任だ。それ以外の選択肢を模索せずに、ただ状況に流された判断をした俺の未熟さのせいでしかない」
その言葉に、フーカは呆然としてしまう。
その内容に―――ではない。
知らず、フーカは絞り出すように声を発していた。
「な…んで、ですか…?」
「ん?」
「なんでそんな事が言えるんですか?」
「え~と?」
フーカの問いの意味が分からず、首を傾げるアキト。
そんな彼に、フーカは体ごと振り向いて叫んでいた。
「なんでですか!?なんで自分のせいだって言えるんですか!?誰かのせいにしてしまえばいいじゃないですか!わたしの所為にしてしまえばいいじゃないですか!!なんでそうしないんですか!?」
―――そうした方がきっと楽なのに。
―――自分は正しいままだと思えるのに。
それはきっと、自分との対比として彼の言葉を認めたくないだけだ。
ずっと見ない振りをして、誰かのせいにして、やっと生きてきた自分を否定されるのが怖いから。
無意識に彼の胸ぐらに掴みかかっていた手に、強張ってカチコチになったその掌に、アキトの手が添えられる。
そして弱々しく告げられる言葉は、『他の皆には見せられない』と言った時のそれと同じ響きを持っていた。
「俺は…自分の責を他の誰かに押し付けて、”無自覚”でいられるほど”強く”無いから…」
「”強く”ない…?」
呆然と問い返すフーカに、アキトはポツポツと語る。
「だってそうだろ?”それ”を押しつけるって事は、それに付随する苦しみや悲しみも押し付けるって事だ」
それが出来るほど強くない、そう言って彼は笑う。
「しかも、さ。自分が負うべき責任を他者に押し付けるっていう事は、本当は存在しないはずの苦しみを生んでるんだ」
「存在しない苦しみを生む…」
「そう、責任を転嫁した時。そこで、本当なら在るはずの無い『責任を押し付ける”誰か”に対する負の感情』が生じているんだから」
他の誰かの所為だ、と思う気持ち。それこそ、本来なら存在しないはずの感情。
私達は責任転嫁をする度に、少しずつ苦しみを増大させているのだと彼は言う。
「俺はそんなの嫌だし、それこそ”責任”取れないから。だから、俺の責任は俺の物だ、って意地でも言い張るよ」
それが己の”弱さ”だと。
苦しみを、せめて最小限に止めようとする、”強く”ない己なのだと。
(なら、”強さ”ってなに…?)
フーカは、ふと思う。
苦しみを、これ以上大きくさせまいと歯を食いしばる彼は己を”弱い”と称す。
ならば、苦しみから逃れる為に、必死に他の誰かの所為にして生きてきたわたしは”強い”のだろうか?
(そんなわけ、あるはず無い…!)
彼よりわたしの方が”強い”わけが無かった。
知らず、問うていた。
「なら、”強さ”ってなんですか…?」
「”弱さ”の逆だろ?」
何を当然の事を、と彼は言う。
「”弱さ”の逆、ですか?」
「逆は、逆だ。《苦しみ》を《最小限》にしようとするのが”弱さ”なら、《歓び》を《最大限》にできるのが”強さ”に決まってる」
ぐわし、とフーカの頭を帽子ごと彼の手が撫でる。
「少なくとも、俺が欲しい”強さ”はそれだ」
そう言って、少女の頭を撫でる動きはそのままに、彼は空を見る。
そんな彼に、フーカは問いかけた。
「…わたしも、”強く”なれるでしょうか?」
すると、彼は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でこちらを見た。
え?え?、とその反応にこちらが戸惑っていると、いきなり左頬を引っ張られる。
「ふぁ、ふぁひふぉふふんふぇふふぁーーー!!」
ポカポカと彼の胸を叩いて抗議する。
しかし、彼はこちらを軽く睨んだままこう言った。
「なーにを馬鹿な事を言ってるんだ、この犬耳ロリッ娘(17)は?」
「えぇ――――!?」
人が気にしている事を!!
あまりにも、あんまりです!と反撃をしようとした所で、彼の瞳が凄く優しく細められている事に気付く。
そして、彼はこう言ってくれたのだった。
「フーカのおじいさんにとって、フーカは”最強”だったに決まってるだろ?」
その顔は、”苦笑”ではなく月が満ちたような満面の笑みだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「わたしに操舵士をやらせて下さい」
開口一番に、フーカはそう告げた。
そんな彼女の変わりように、ヒカル・シノ・ナギは眼を丸くして息を詰まらせた。
ヒカルが問う。
「どういう心境の変化だ?それに…」
彼女は琥珀の瞳を細め、流れるように周囲に視線を巡らせた後、フーカに聞いた。
「アキトはどこへ?」
―――朝。
目覚めたヒカル達を待っていたのは、妙に気合の入ったフーカとアキトの不在だった。
そんなヒカルの疑問に、フーカは言い難そうに答えた。
「え、えーとですね。アキトさんなら、『説教はしたからね?したんだからね!?』と伝言を残されて、気になる事があるからと、夜の内にどこかへ行かれてしまいました…」
「気になる事?それは?」
「わたしにも分かりません…」
「っ~~~!まあいい…。どの道、アキトの左腕が治るまで二・三日必要だったしな」
ヒカルは歯噛みした後、溜息を一つ吐き頭を振った。
あの腕では操船の訓練もままならないだろう。
あれは殺しても死なないような男だから、放逐しても…まあ問題無い。
―――それよりも、だ。
「重ねて問おう。どういう心境の変化だ?昨日はあんなに嫌がっていたはずの役目を、自ら買って出るとは」
そうだ、そちらの方が腑に落ちない。
その問いに、フーカは昨夜の事を思い出していた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「”強い”…?わたしが…?」
「ああ」
彼は力強く頷いた。
しかし、フーカはその言葉を信じられない。
「そんな、嘘です!?わたしが”強い”はずありません!!」
無意味で無価値で、どうしようもなく虚ろなわたしが”強い”はずがない。
そう思い、言葉を放つ。
だが、その否定に対してアキトは否定を重ねる事も肯定を押し付けてくる事も無かった。
「別にフーカがそう思うのなら、それで良いさ。俺は”真実”の押し付けはしたくない」
――けど、と彼は言葉を繋げる。
「けど、もしその答えが自分の内側だけで出したものだとしたら、それも決して”真実”じゃない」
「”真実”…?”真実”ってなんですか?」
「”真実”が欲しければ、”世界”と向き合うしかない。その眼で、耳で、手で足で。惑い、彷徨い、苦しみ焦がれ。そうやって、掴むしかない」
「じゃあ、どうしてアキトさんはわたしを”強い”って言えるんですか?そんな証がどこに…!?」
その言葉に、アキトは自分達が座っている白の船体を指して言う。
「ここに」
「え…?」
「”風花”と”風華”。単純な符合だ。この船は―――」
―――微笑み。
「―――君だけの為に造られたんだ」
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何を想って、何を願って、祖父がこの船をわたしに遺したのかは分からない。
でも――いや、だからこそわたしは理解したいのだ。
祖父の考えていた事。そして、アキトさんが言っていた”真実”を。
《かざはな号》がわたしの事を誰よりも理解していた祖父が、わたしの為だけに造った船だとしたら。
それはつまり、この船がわたしにしか扱えない事を示していた。
朝日に《かざはな号》の白い船体が美しく映えていた。
その船首の近くは、進砂式の時にぶつけた葡萄酒で真っ赤に染まっている。
結局、洗っても色が落ちずに随分と後悔したものだが、今は少し違って見えた。
わたしの物ではない血で真っ赤に染まったセーラー服を見てそう思う。
わたし自身の進砂式もようやく終わったのだ、と。
ようやく…ようやくわたしは、この子と同じ場所に立てた。
そんな気がした。
走り出す白の船と少女。
同じ想いと、誰かの覚悟を乗せて。
奔り出す白銀の少年。
彼が求めるのは、常に”真実”のみ。