第33節
暑いですね…。
ああ…と、溶ける…。
第33節
―――かつて私は罪を犯し、罰としてそれを手にした。
以来、私はそれを自ら意図して使った事は無かった。
それが、贖罪であると信じて。
しかし、復讐に駆られた私はそれを自らの意志で行使した。
―――結果、私は再び罪を犯した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「―――んっ!?」
大きな虚、そこに墜ちかけ、抗おうと身体を反らせる。
それは夢の内側だけに留まらず、現実での彼女も同じように身体を動かす。
そこでハッと意識が覚醒する。
眠気もなにもかも吹き飛ばすような、そんな目覚め。それは彼女にとっては、悪夢から醒める時の常だった。
「………はぁ―――…」
現実、本物の布団の上。確固たる存在感を持つそれの上で、崩壊の危機も崩落の危険も無いそこで、ようやく安堵の息を吐く。
安心したらしたで、再び眠気が湧きあがって来た。
それに任せ、目を瞑ろうとする。
「…あれ?」
そこでようやく、その布団が己の物ではないことに気付く。
そして、その主であるはずの青年の姿が無い事にも。
「アキトさん…?」
声をかける。しかし、薄暗い部屋のどこからも返事は無い。
重ねて問うまでも無く、フーカはアキトがここに居ない事を理解する。
だが―――
(どこへ行ったの!?右腕が無いのに―――、死んでもおかしくないくらい、いっぱい血を流してたのに!)
フーカの頭に冷たい焦燥が満ちていく。
それはアキトが右腕を失った時の”冷静さ”に似ていたが、ある一点で決定的に違っていた。
あの時は、全てが冷たく重たくなり、あらゆる動きが遠くなった。それこそ、まるで死体のように。
しかし、今の彼女の内に在ったのは、”焦り”だ。
焦りとは、現状が継続することへの恐怖だ。
その恐れに突き動かされるように、フーカは周囲を探す。
台所、風呂、客室、蔵―――――。
しかし、アキトの気配はどこにも無い。
(…足りない。こんなのじゃ、全然足りない!!)
その不足に、憤りすら覚えた。
その憤りのままに、フーカは帽子を外す。
決して、眠る時ですら外した事の無いそれを。
戒めとして己に科したそれを。
そこで、ようやく気付く。
…ああ、私は――――、
(私はこんなにも、彼を”見失う”のを恐れてる…)
―――雑音。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「アキトさん!!」
声に振り向く。そこには肩で息をするフーカの姿が在った。
「やっと、見つけ…ましたっ…!」
息も整えずに、彼女はアキトに詰め寄る。これ以上、どこにも行かせない為だ。
そんなフーカを見るアキトは、見つかった事への驚きよりも得心の色が強い。
そこに疑問を差し挟む余裕も無く、フーカは問う。
「どうしてこんな所へ!?まだ安静にしてないと駄目ですよ!」
右腕が一本吹き飛んでいるのだ。おまけに多量の出血をしている。
アキトの体質を知らない彼女にしてみれば、無事であることが奇跡と思える程だろう。
しかし、必死の形相のフーカを他所にアキトはと云えば、やはり暢気な調子で答えるのだ。
「ああ、うん…」
気の無い返事。
彼がいたのは街のはずれ。《かざはな号》が停留してある場所だ。
急に降り出した雨の為、家に運ぶ事も出来ず放置してあったそこにアキトは居た。
砂船の停留は通常の船とは違い、二本の錨で両側に引っ張るようにして、船を”固定”する。
水の上程に喫水が深くはならないのでこうして泊めているのだ。
そうして停泊している船の上、その縁から足をブラブラさせながら考え事をしているようだった。
「早くうちに帰りましょう!皆さん心配されますよ!?」
「う~ん…」
フーカの言葉にも芳しい返答は無く、視線もフーカから外され再び宙へと泳ぎ始める。
「もうちょっと、ここに居たいというか…」
「考え事なんて、うちでも出来るじゃないですか!」
「まあ、そうなんだけどね…」
「―――なら!」
言い募るフーカの視線と、アキトの視線が交差する。
急に注意を向けられて、フーカは焦った。
(―――つ、強く言い過ぎちゃった!?)
もしかして、反感を買ったのではないかと不安になってしまう。
なにせ、彼がこんな所で思索に耽っているのも、おそらくは自分に原因が有るのだろうから。
(というか、片腕失ってしまったんですよね…。それは一人で思案に暮れるのも無理無いというか…、将来とか、これからの事とか、色々…。ハッ!?もしかして、わたし責任を取るべきなのでは!?お世話とか、養うとか…。アレ?何故でしょう?わたし、片腕のアキトさんより稼げる自信がありませんよ…?で、でも、そうですね、ここは一つ一念を発起して、身体を売るしか!?で、でもでもっ、甲斐甲斐しくアキトさんのお世話をするうちに、若い二人が結ばれちゃったり、しちゃったりした日には、『そんな軽率なことは止めるんだ!』とか言われちゃって、二人で幸せな家庭を―――アレ?結局わたしがアキトさんに養われてないですか?)
「………」
明るい未来のはずなのに、フーカは目の前が真っ暗になってきた。
わたしって…。わたしって…ッ!!
(今すぐ”orz”したい…。”orz”ってなんの事か分からないけど…)
しかし、そんな諸悪の根源とも言うべき己から、口喧しく説教されれば流石の彼も苛立つのかもしれない。
そう思って、恐るおそる見上げ返した彼の表情は、しかし苦笑をかたちどっていた。
「確かにここ、けっこう寒くて傷口がしみるんだけどね。でもこんなとこ、他の皆には見せられないしね…」
困ったもんだよ、と苦笑混じりに呟く。
「それって…」
”わたしには見せても平気って意味ですか?”
そう訊ねそうになり、慌てて口を噤む。
だって、それは…。
(…卑怯だ)
答えが『否』だと判っている問いをするのは、なんだか自分が安心したくてするみたいで。
自分だけが安堵を得て救われた気持ちになるのは、絶対に違う。
―――だって。
だってその表情は笑ってはいるものの、それでも苦しそうで。
本当に苦しそうで。
でも、本当はもっともっと苦しいはずで。
わたしが来たから、なんとか苦笑で取り繕っているって意味で…。
―――胸が、苦しくなった。
彼が苦しんでいるのは自分の所業に因るところが大きいから、というのも勿論ある。
しかしなにより、彼がその苦しみを独りで抱え込まなくてはいけない事に対して、だ。
きっと、今わたしの家で眠ってる彼女達は知らない。
彼の裡にそんな”弱さ”が在る事を。
否、知ってはいてもそれが彼の一部である事を理解できない。
ほんの数週間の付き合いでしか無いが、そんなわたしにも彼女達が彼を精神的な柱としているのが解る。
それも”支柱”ではなく”主柱”として、だ。
彼がいるから、彼女達はどんな風も前へ進む力へと変換できる。
そんな彼が”弱さ”を見せると云う事は、その柱が折れてしまう事と等しいのだ。
だからこそ、彼はこんな街のはずれで冷たい夜風に吹かれながら、独り苦しんでいるのだ。
それがたとえ嘘でも虚構でも、彼女達の前では真っ直ぐ立ち続けなければいけないから。
一本の今にも折れそうな帆柱が、いまだに去ろうとしない少女を不思議そうに見て、言う。
「まだ冷えるから、フーカは家に帰った方が良いよ。どの道、船の見張りは必要だし」
―――もう、見ないでくれ…と。
だから少女はこう言ってやった。
「なら、わたしはアキトさんの見張りをします!」
「俺の見張りって…」
「船を見張るより、ずっと大切です!」
「…これ君の宝物じゃなかったの?」
―――ですけども!ですけども!!
「わたしはアキトさんが心配なんです!!いけませんか!?」
「いや、いけないって事は無いけどさ…」
呟き、フーカを見やる。彼女がこれ以上退く気が無いのを理解すると、溜息を一つ吐く。
そして、再び苦笑を浮かべた。
「仕方ない…のかな?帰るつもりが無いのなら、上がっておいで。一人よりは二人の方がきっと寒く無いと思うし」
でもその苦笑は、どこか安堵しているようにも見えて、わたしはこう答えたのだった。
「はいっ、きっと!」
月と砂漠と砂船と。
そこにいたのは、一人の少年と少女だけ。
そこで彼らは何を語らう。
そこで彼女は何を語ろう?
思索に思案、多くが未定。
大体そんな感じ。