第31節
ああ、《風竜走》。
なんと遠い言葉だろうか。
第31節
半身になり、左腕を前に右腕をやや後ろにした構えで、悠然とレオは雨の中に屹立する。
腕鎧から発せられる熱量は、彼に降りかかろうとする雨粒を全て蒸気へと変換してゆく。
身体強化の術式でその熱から護られているレオは、微動だにせず問いかける。
「ほら、どうした。そのお嬢ちゃんはルルにでも預けとけ」
この私闘の妨げになる唯一の要因であるフーカを手放すように言うが、アキトは首を縦に振らなかった。
「そのお姉さんに預けると、この子が氷像にされそうで怖いんだが…」
その言葉に『確かに…』と思ってしまう自分が居る。当の本人は心外だと顔を歪めてはいるが、あれは平気でそういう事をする女だ。
だがそうなると、少女の置き場が無い。
テストの旦那は論外だし、他の船員も逞しい海の男達ではあるのだが、少々心許無いと思ってしまうのは職業病だろうか。
逡巡するレオに、しかしアキトはこう答える。
「別に良い。どの道、左腕は使えない。それに―――」
ニヤリ、とアキトは初めて笑みを口に浮かべた。
「ここまでハンデ付けられて負けたら、恥ずかしくてこの場であった事を口外したくなくなるだろうし」
その言葉に、レオは一瞬虚を突かれたような顔をして、次いで大声で笑い出した。
「ぶははは!そりゃそうだ!ゴールドランクの冒険者が、ガキぶら下げたガキに負けたとあっちゃあ、面子も何もあったもんじゃねえな!!」
ビリビリと周囲の空気を震わせるほどの大爆笑。しかし、その構えは僅かにも揺らいではいない。
レオはひとしきり笑った後、表情を戻しアキトに強い視線を送ると、「だが――」と続ける。
「勝てたら…の話だ」
語るべき事は語った、言うべき事は言ったとばかりに、両者は口を閉ざす。
僅かに距離を空けた間合いにて、両者は対峙する。
レオは拳を眼前に悠然と掲げた拳闘士のような構え、対するアキトは右腕を腰だめにした正拳突きの予備動作で相対する。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――難敵だ。
アキトはレオをそう評した。
アキトは彼が瞬時の状況判断、戦闘判断において『勘』に頼っている人間であると数回の会合から見抜いていた。
先刻、彼の意表を突きフーカを奪取できたのもそれを利用できたからだ。
だが、その戦法はもはや通じない。
(変わった…?)
驚きと意外さを持って、レオを見る。
先程からアキトは筋肉の制動を利用したフェイントを幾度と無くかけている。
筋肉の微小な動きは、見た目には僅かに肌を粟立たせる程度だが、『勘』に頼り切った相手を騙すのには十分だ。
その動きに反応して、防御なり攻撃なりの動作をとってくれれば容易に後の先を取れる。
しかし―――
(反応…しないな…)
レオはフェイントに反応すること無く、悠然と構えを続けている。
それが示しているのは、彼が完全に『勘』を切り捨てたと云う事だ。
無茶苦茶だな…、とアキトは思う。
なにせ、『勘』とは無意識下から来る感覚だ。
目を閉じたり、耳を塞いだり、鼻を摘まめばある程度は遮断できる五感とは違う。
それら全ての入力を排除しなければ、無意識により勝手に出力されてしまう。
つまり、今の彼は”無意識”を”意識”でねじ伏せている状態だ。
その切り替えの強引さ、柔軟さ、それらを総合して、
(難敵だな…)
アキトはそう評を下した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ひりつくような緊張感が場を支配する。
その感覚に当てられ、フーカは我に返った。
獣のように猛っていた殺意は、それすらも上回る闘気に押し潰され、まるで尻尾を巻いた犬のように萎縮している。
そのおかげでようやく、彼女は自分がしようとした事と、そしてそれが招いた事態を理解した。
お腹の中から背筋を登り、やがて頭の中身がどんどん冷たい物で満たされていく。
”冷静”――、とはよく言ったものだ。
身体全体が冷たさと静けさで満ちてゆく。まるで死体のように。
―――死体。
そのキーワードにより連想したのは祖父の亡骸だ。
思い出すのも辛く苦しい。
救いは、その表情が穏やかで満ち足りていたことくらいだ。
(まるで今の私とは逆ですね…)
死者であるのに満ち足りて逝った祖父と、生者であるのに空っぽな私。
(どうして祖父はあんなにも満ち足りた表情で…?)
分からなかった。
何故なら、彼女の思考には”己は無価値である”という大前提の基に行われていたから。
彼女の祖父の人生の最期、その大部分を占める”フーカ”という少女の存在が欠落していたから。
無意識に、”無自覚”に。
けれど、それをフーカが理解することは無い。
ただ、気付く事が一つあった。
雨と虚無感に冷え切った身体を、何か温かいモノが包んでいく。
それが己を抱きかかえるアキトの物だと気付いた時、彼女は強烈な飢餓感を覚える。
本能が教えてくれる。
―――彼は貪られる為に存在している事を。
―――彼が、望めば誰にでもその身を差し出すであろう事を。
己の内の虚無を埋めて欲しくて、無価値な己を欲してほしくて―――。
(―――たすけて…)
救って欲しくて。
そのぬくもりに、その身を委ねる。
否、委ねてしまおうとして…、
―――気付いた。
己の砂避けのマントの下、純白だったセーラー服は、”真紅”に染まっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
先に動いたのはアキトだった。
拳を固め、右足一本の力でレオに向かって跳躍する。
直線的な動き、そして続く攻撃も直線的なものだ。
レオとアキト、両者の間合いへと侵入したアキトは浮いていた右足が着地すると同時、正拳突きを放つ。
それも、ただの正拳突きでは無い。
この場に飛び込む前に、戦闘を想定していた彼があらかじめ溜めていた”気”の乗ったそれ。
アキトが宣告する。
「《拝無神流》、”奥義”が一、《拳》!」
全てを砕く正拳突きが放たれる。
それに相対するように、レオの拳も唸りを上げて放たれた。
腕鎧によって護られた腕と、ただの素手。
それらが競り合えばどちらが勝利するかは明白だが、この素手はただの素手では無い。
それは腕鎧を砕き、レオの右腕を粉砕する破壊の《拳》だ。
炎獅子の拳と銀狼の拳が交差する。
その時、獅子が吼えた。
「爆ぜろッ!《獅子心王》ォッ!!」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
その時のアキトを、普段の彼が見れば『拙速だ』と評しただろう。
相手の手の内も分かっていない段階で、正面から挑みかかるような行いに対して。
しかし、この時のアキトが最も恐れていたのは”長期戦”だった。
左腕の出血に加え、激しい雨が容赦なく体温を奪って行く。
そんな状況下で、彼が選択したのは正面突破の”短期決戦”だ。
左腕が動かない事も考慮し、下手な小細工よりも有効だと判断した。
その為に腕鎧ごと相手を砕ける、”奥義”《拳》を選択したのだ。
しかし、アキトはこの時一つ読み違えていた。
否、読み違えるも何も、情報自体が少ない内に勝負をかけた。
だから、その時になるまで気付かなかったのだ。
レオの赤熱し、陽炎すら立ち昇らせるほどの熱量を秘めた腕鎧。
それが”待機状態”であったなどと。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「爆ぜろッ!《獅子心王》ォッ!!」
レオの咆哮に応えるように、装甲表面に刻まれた魔術刻印が”待機状態”から”行使状態”へ移行する。
右の腕鎧に蓄積された膨大な熱量が、獅子を模した拳の頂点へと集約してゆく。
そして獅子の開け放たれた口蓋から、一気に射出された。
固形化されたような炎熱の塊が放出→膨大な熱量による空気膨張→それに伴う衝撃波の発生。
つまりは、大爆発を引き起こした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
しまった、と思った瞬間には全てが遅かった。
”奥義”《拳》は、多種多様な”物”を粉砕する汎用性の高い技だ。
しかし、それを行うのは拳に集約された”気”であり、アキト自身の拳はただの拳でしか無い。
《金剛》のように硬化されているわけでも、《握》のように何らかの力場が生じているわけでもない。
腕鎧の表面はもともと赤熱してはいたが、接触は一瞬。せいぜい火傷程度で済むと思っていた。
だが、その見立てからして甘かったと言わざるを得ない。
レオの拳の先、集約してゆく熱量を感じながらアキトは考える。
そして、一つの自戒が脳裏をよぎる。
それは、がむしゃらに挑みかかり、打ちのめされた自分に祖父が口を酸っぱくして言っていた言葉。
『相手を観ない《拝》など、その程度よ』
《拝》の技は千差万別、千変万化。
それ故に、相手の観察が必然となる。
今回、自分は”短期決戦”を望むあまり、それを怠った。
己の未熟を叱咤したいところだが、今はそれどころでは無い。
既に回避は間に合わない。
しかし、今己の腕の中にはフーカがいるのだ。
アキトは必死に、突き出した右腕を左に逸らす。
そして、その腕で少女を抱きしめるように庇う。
次の瞬間、アキトの右肩を巨大な熱量と衝撃が襲い、身体が宙を舞う。
そのまま横倒しに地面に叩きつけられ、しかし勢いは失われず身体が横転し、水飛沫を上げながら弾き飛ばされていく。
少女が傷付かぬように腕で庇い、一方で己は激しく地面に殴打される。
自己犠牲を大安売りするつもりは無いんだけどね…、と考える一方で下が砂の地面で良かった…と思考する。
そして、冷静に―――あくまで冷静に理解する。
―――右腕…吹き飛んだな…、と。
少女の行いにより、
流れるはずの血は流されず。
少女の行いにより、
流れるはずの無い血が、流れた。
―――その時少女は何を想うのか。