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第二章 白銀の白狐

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第五話 白銀の妖狐

 煌仁とともに、梢は街へと繰り出した。賑わう市場、色とりどりの反物、香ばしく漂う醤油の匂い。宝条家に閉じ込められてばかりだった梢にとって、それは眩しいほど鮮やかな光景だった。

 煌仁が「お前に似合う」と選んでくれた淡い藤色の着物を身につけ、口にしたことないようや甘味を味わい、絹でできた滑らかな刺繍糸を抱きしめる。初めて自分が、この世界の一部であることを許されたような心地がした。


 幸せな余韻に浸りながらの帰り道。煌仁はひとり屋敷へ戻るための馬車を呼ぶべく、道中の馬車止めへ向かった。

 ほんの数分、彼を待っている間。林道の奥から、かすかな呻き声が耳に届いた。


「……あ」


 吸い寄せられるように茂みに踏み込んだ梢の目に、真っ白な塊が飛び込んできた。鈴のついた首輪を巻いた、一匹の美しい白狐だ。しかし、その足元はどす黒く、見るも無惨に引き裂かれている。それは、牡丹の痣に(むしば)まれている煌仁の姿と重なって見えた。

 放っておくことなどできず、梢は躊躇(ちゅうちょ)することなく狐を抱き上げた。手のひらを狐の足元にかざし、指先に祈りを込める。蝶が、ふわりとあふれ出した。

 傷口に蝶が触れるたび、黒ずんでいた足から清らかな光が浮かび上がっていった。


「……よかった」


 梢は安堵の笑みをこぼす。彼女は自分の異能の能力がなんなのか、答えを出しかけていた。煌仁の呪いを鎮め、白狐の傷を治した──この力は、誰かを癒やすための力なのだ、と。

 無能として疎まれていた幻の蝶は、誰かの絶望を消し去るため、そして自分のような絶望を誰にもさせないために生まれたのだと、そう思わずにはいられなかった。

 狐は金色の瞳をわずかに開き、自分を抱く少女をじっと見つめている。首元の鈴が、チリンと風に流された。


「梢」

 

 名を呼ぶ煌仁の声が耳に届く。梢は「元気でね」と狐を地面に下ろし、煌仁のもとへと駆け寄った。


「あんな道端で、何をしていた?」

「怪我をした白狐がいたんです、呪いにかかったような。その狐を助けていました」

「……白狐?」

「はい。とても綺麗で……」


 振り返った先に、その狐はもういない。だが梢の胸には、「誰かを救える」という確かな温もりが残っている。いつか、煌仁の痣も消すことができるのではないか。そんな小さな希望を抱きながら、梢はふと隣を見上げた。


 ──煌仁、様……?


 そこには、鋭い眼差しで茂の奥を見据えている煌仁の姿があった。


 *


 それから数日。助けた狐のことは日常の穏やかさの中に溶け込み、梢の意識からも徐々に消えはじめていた。

 朝、任務へ向かう煌仁を門前で見送った日の、昼下がりのこと。自室の縁側で刺繍をしていた梢の手が、ふと止まった。チリン──と、白狐を助けたときと同じ、凛とした鈴の音が風に乗って聞こえてきたからだ。


 ──あの子……?


 梢は不思議そうに立ち上がり、音のする庭先へと歩みを進めた。風もないのに、庭の木々がさらりさらりと不自然な音を立てている。いつもなら側に控えているはずの侍従たちの姿も、なぜか見当たらない。まるで、この空間だけが屋敷から切り離されてしまったかのような、異様とも思えるような静けさだった。

 池のほとりに立つ、大きな木の下。そこに、一人の男が佇んでいた。

 昼だというのに、月光をまとっているかのような長く透き通った銀髪。その頭には大きな獣耳が生えている。切れ長の金の瞳は、獲物を定めるような視線で梢を射抜いていた。


「ようやく、二人きりになれたな」


 男の背後で、白銀の尾が陽炎のように揺れた。梢はあまりに強大なあやかしの気配に、息をすることさえ忘れて立ち尽くす。


 ──妖狐……。


 鬼と並び称される、最上位の悪妖怪のひとつ。その姿は(おぞ)ましいほどに美しく、忌まわしいほどに神々しい。そんな矛盾を孕んだ存在が、今、目の前にいる。


「見つけたぞ、俺の番」


 男の腰についた鈴が、チリンとまたあの音を鳴らした。その音色が鼓膜を震わせた途端、意識をすくい取られるような、頭がくらりと揺れる感覚に襲われる。


「俺と一緒に来い」


 男の気配が、すぐそこに感じられた。足元がふらつき、意識の糸が切れかかった刹那。梢の周囲から数多(あまた)の淡い蝶たちが桜吹雪のように舞い上がり、一瞬にして彼女を包み込んだ。

 その羽ばたきに意識を引き戻された梢は、弾かれたように顔を上げる。鮮烈に舞う蝶たちは、妖狐が放った妖気を無垢な光へと変えていった。


「私は……煌仁様の、妻です。あやかしには……ついていきません」


 梢は乱れた呼吸を整え、震える唇を噛んで妖狐を見据える。彼は愉快そうに目を細め、一歩、また一歩と梢との距離を詰めた。


「はやり、お前には妖力は効かないようだな」


 低く含み笑いをこぼしながら、男は梢の前で立ち止まる。逃げようとする意思とは裏腹に、足がすくんで身体が言うことをきかない。こちらに伸ばされた指先から鋭い爪が覗き、肩がぞくりと震え上がる。冷たい指先があごに添えられ、抗う間もなく顔を上向かせられた。


「その異能、人間ごときに持たせておくには惜しい。俺の隣で、永劫の安寧をくれてやろう」

「私の異能は、誰かを……あのお方を、癒すためのものです。あやかしのために使う力では、ありません」


 声は震えていたが、言葉は確かなものだった。あごを掴む指を必死に押し返そうとすると、意外にも妖狐はあっさりと手を離す。くつり、と喉の奥で短く笑ったかと思えば、すぐに背筋が凍るほど冷ややかな笑みを端正な顔に浮かべた。


「気づいていないのか? お前の異能は、ただの治癒などではない」

「……え?」

「神の領域にも等しい、すべての呪いや異能を無効化し、無へと還す『還零(かんれい)の力』だ」


 梢は目を見開き、言葉を失った。妖狐は自身の着物の裾をめくり上げ、足首あたりを指差す。薄く残る何かの跡は、梢が蝶を這わせた白狐の傷と同じものだった。


「あのときの……白狐、なのですか?」

「そうだ。人間が放った、あやかしを(ほふ)るための呪術。うざったい呪いで、解くのに時間がかかっていたんだが……無知ゆえの慈悲で、お前がほとんど消し去ってくれた」


 梢の頭に、あの日の光景が鮮明に蘇る。白銀の毛皮に絡みついた、どす黒い呪い跡。梢が慈しむように捧げた無垢な祈りは、大妖怪を(むしば)む呪いさえ、朝日が霧を払ったように澄み切ったものへと還していたのだ。

 救い──などではない。まるで世界の理そのものを書き換えてしまうような、そんな異能。梢は自分の指先が恐ろしいものに思え、無意識にぎゅっと握りしめていた。

 

「あやかしの術も、人間の異能も呪いも、すべてが消える。お前は、ただの女ではない。あの男もその事実に気づき、お前という『力』を利用したいだけなんじゃないか?」


 梢にじりじりと詰め寄り、逃げ道を塞ぐように影を重ねる。


「人間は、あかやし以上に欲深い。いずれ使い潰されるのが目に見えているだろう? さあ、俺と共に来い」


 拒絶を許さない力強さで梢の細い肩を掴み、引き寄せようとした、そのとき。

 弦が弾かれたように、空気が激しく震えた。妖気を切り裂くように、重く鋭い殺気が場を満たす。


「俺の妻に、触れるな」


 翡翠の瞳が、あやかしを射抜く。梢の前に立っていたのは、煌仁だった。

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