弱者賛歌
暗闇の中、点滅するオレンジ色の電球を見上げて恥ずかしげもなく涼しい足を開くのは間違いなく俺である。
脇にはこれでもかという程握り締めた白い紙。
朧気に見た画面は自分でもわからない謎のショート動画。
何をしているんだろう。
足で揺れる捲って左に寄せた毛布。
俺はなんでこんな暗闇で無気力なのだろうか?
ふざけるなと思う。
だが鼻から息を吸うと、次にはまた指が動いている。
⋯⋯恥ずかしげもなく。
*
半年ほど前の事だ。
俺は死のうと思っていた。
理由は不明。
ただプツンといつの間にか引っこ抜かれた機械のように退職届を出した。
勿論記憶などない。
毎朝詰めてくる上司も。
スケジュールを決めているにも関わらずコミュ力オバケの同期から同じだと思われ勝手にパンパンに詰められて耐えられず残業させられる恥ずかしさと虚無感。
──ふざけるな。
優秀で自分よりも年下の部下が迫りくる恐怖も。
実力が全てだと抜かす新入社員も。
どいつもこいつもが鬱陶しい。
年上に敬意すら持たないカスみたいな年下も。
尊敬されないのにそんな事を思う俺も。
全てが、
非常に、
とても⋯⋯気持ち悪い。
中の中。
下げられる事もないが評価されることもない。
潤滑油だと言われてきた。
⋯⋯だが現実はただのサンドバッグである。
まさしく成人男性の俺でありお前だ。
そう思うと一度髪を掴んで一発入れたいくらいで。
──冗談はよそう。
気付けば腓骨でも折れてるんじゃないかとムカついてくるので後でどうにかしないと。
寝ぼけながら起きる。
ひんやりとした足は虚無を思い出させるのだが、自分の立場を弁える。
ところで今日は初出勤の工場だ。
勤務形態は派遣。
どうやら時間の融通が効くらしい。
初めて知った。
30分前には始まるのではなかったのか?
事前準備をしてスケジュールを埋め、上司の予定を把握し、後輩の仕事を作る事はしなくていいのか?
どうやら違うらしい。
うがいをして、情けない髭面を眺める始末。
朝から気分が悪い。
⋯⋯お前のせいだ。
現実を変えようとしない、な。
乾いた飲み口が残っているコップを眺める。
そうだ。
白湯を飲むと良いとネットで見た。
だが次の瞬間には冷凍庫から摘んでお湯にぶっ込む。
うるさい。
黙って俺は冷水を飲む。
スマホを開く。
SNSには自分好みの素人女子が大量に映る。
いや?
成人しているのだから子はいらないのか?
いやいや。
最近の女の子は年齢詐欺に引っかかりそうなものが多いものだ。
上から下へと滑らせる。
踊ったり、行為中の物もある。
何故こんな刺激物が蔓延っているのだろう。
しかし俺には有り難い。
自分を愛してくれる女性など現れないからだ。
機能的に用意されたものだけが俺を男たらしめるから。
画面に向かって気持ちの悪い呼吸を気付けばしている。
ん?と一瞬困惑するが、すぐに納得する。
まぁ良しとしよう。
それが我々唯一の⋯⋯娯楽なのだから。
お湯を沸かし、塩ラーメンの袋を開ける。
塩ラーメンは○ッポロに限ると思うのだが、そう言った話は聞いたことがない。
それはいいか。
出来上がったのはいいが、早すぎた。
まだ縮れている。
食べてみると思いのほか美味い。
白米でも食べたいところだが、俺には金がない。
なんてザマだ。
くつくつ湧き上がってくる怒りで大家を怒らせることは出来そうだ。
⋯⋯なんて冗談はウザイ。
親に申し訳ない。
成人した息子が就職したのに退職し、挙句こんな一人でこんな思考を巡らせる事しか脳のない阿呆に成り下がってしまったのだから。
──さて。
ボサボサの髪、
髭面、
ジャージ。
なんでも自由だそうなので、行こうと思う。
*
あぁ、空気が美味い。
社会から断絶された世界とはなんて美しいのだろうか。
まるで産声を上げて何も理解していないあの頃のようだ。
早めに到着し時間になる。
やって来た見慣れたスーツを着た担当の人からの説明が始まる。
しかしどれもすぐに疑問が浮かぶ。
何故これしきの事がわからないのか?
当たり前のことではないか?
聞けばこれがわからないという人間がいるらしい。
なんだそれは。
それは人間なのか?
口と行動にしなければ思想など何でもいい。
だがしかし、言霊があるからな。
今のは"ナシ"、だ。
工場と言っても物流センターだ。
施設自体は新しめでセキュリティーもしっかりしている。
就職している時よりも何故か心が盛り上がる自分が恥ずかしい。
⋯⋯「ようこそ」なんて書かれたこともない。
会社の為にサビ残だ。
言葉にしない圧がのしかかって来るいつかを思い出したらムカついてきた。
どうやらゲートを潜る必要があるらしい。
自分の名札を貰い、説明を受けながら入る。
必死に説明してくれてはいるのだが、向こうも仕事だ。
こんな事も分からない人間がいる事に俺は未来を危惧するのだが、自分も情けない自殺願望者である。
そんな事は死んでも口にはできない。
お前は思うのだろう?
何故生きているんだと。
──何を言う。
「情けないから」という一点に限る。
と、言うが別に、今もそこまで変わってはいない。
自分は弱者だ。
欲一つ制御した事を誇りに思い、親を大事にし、世間体を気にする成人男性。
しかしどうやら世間はその大事な人材を無視する。
そんな事で自殺してしまったら世間とは何だったのか⋯⋯革靴を脱いで立った時に我に返ったのだ。
欲を解消する文化。
弱者になれば求められる事もないことに気づいた。
期待される事も、詰められることもない。
あぁ。なんて素晴らしいのだ。
見てみろ。
こうして1+1のような式を淡々と説明され、ウンウン言っているだけで給料は発生している。
休みもくれる。
時給は良い。
素晴らしい世界だ。
弱者である事を誇りに思う。
そうして実際に仕事が始まる。
詳しい事は現場に入らないと教えてもらえないとの事だが、入れば指定されたものをカートの中に入れ続け、完了という貸与された端末に映ればそれで良いらしい。
それを繰り返す。
うん。
これを行えるのは尋常じゃない異常者だと感じるのは30分もかからない。
悪口ではない。
絶望的に自分が向いていないことだと気付いた。
休憩は15分。
貰えるだけありがたいが、それでも仕事をする恐らく定年を迎えた老人、もとい先輩が途中まで吸った煙草を戻し笑顔で働きに出るのを見送る。
⋯⋯何を誇りに思っているのだろうか。
見ればスコア表があり、数字で競わせている。
説明で言っていたぞ。
品質が一番ではないのか?
数字で競わせ、品質を削いでいるのではないか?
しかし笑顔で先人が働いているのを見ていると、そうでもないのかと思いだす。
お昼。
自分の成果は平均以下である。
なんとも恥ずかしい結果だ。
初日とはいえ、あれだけ内心大口を叩いていた自分を殴らねばならない。
だが頑張るという言葉は微塵も浮かばない。
もう十分に自分の人生は努力と継続をしてきたのだから。
これ以上何をすれば良いのだろう?
こんな所で何を頑張る必要があるのだ。
そう頭の中で反芻する。
これまで、自分を平均的な人間として見ていた。
そんな自分がこれしきの事で数字が出ないことに理由と、反省をせず、何より芽生える小さなプライドが邪魔をしているのに苛立ちを覚えながら350円の定食を食べる自分の恥ずかしさたるや。
観察するのは社会で学んだ。
周りは自分と同じ人間ばかり。
何かに追われるように時給外の仕事に戻る意味不明なブラック志望者。
スマホを眺めながら人目もくれずに行儀の悪いジジイ。
ギャハハと笑いながら大人数で赤信号を渡るかのように誰かの愚痴を晒すおばさん連中。
ぼっちを極めてはいるが、絶妙に若い一人の子に話しかけに行くセクハラ予備軍。
自分は若めだからモテている勘違いしているのだろう。
風俗での行いであるかつての気持ちの悪い自分に言いたい。
誰が弱者の客と一緒になりたいのかって。
当時も自分のSNSを見て反省した。
そんな事を考え、お盆を返し労働に勤しむ。
少し頑張る気が起きるのだが、少し滲むこめかみの汗が流れる以上の事は変える気など一切ない。
何故なら品質が一番と豪語しているからだ。
周りを見れば小走りで数字絶対マンが跋扈している。
教育係の先輩に言われた。
「品質は自分が届いた時に嫌なレベルで見ればいいからね」と。
あれは間違いなくベコベコしているではないか。
数字マンはそれでも躊躇なくぶっ込み、突き当りを曲がっていく。
⋯⋯失敬な。
そんな奴と一緒にしないでほしい。
だが現実は違う。
「〇〇さん、早いですね!」
「どうやったらいいんですか?」
午後の休憩の事だ。
⋯⋯死ねばいいのに。
と、喉元まで上がってくる自分の衝動を抑えられるようになったのは社会での必須スキルだ。
アイツはただルールを破ってホイホイ入れてるだけだと言いたい。
だが冷静に考える。
これは別にここに限った事ではないということだ。
社会でも、
学校というスクールカーストでも、
大人でも、
家庭でも、
どれも一緒だなと。
社会でも、誠実に生きている人間は腐るほどいる。
しかし現実、結果を出す人間というのは大きく分けて3つ。
努力なのか才能なのか知らないがハイスペな人間。
もしくはルールを破ってはいるがバレていない人間。
最後に人間関係を掌握してバレていても容認されている人間。
この3つだ。
古来より弱者というのは、誠実であればあるほど生き残れないのだ。
確かにそう考えれば、強いオスというのは引き際を見極め、獲物を獲るという行動を効率的に──最適化する事に長けていたのだろう。
生存において誠実とは?
卑怯?ルール?
一体なんぞや?
ということだろうか。
金持ちになる人間の脱法はバレなければいいというが、まさしく今の自分ならばその通りだと言いたい。
因果応報と説教したいところではあるが、誠実に真面目に恋愛も真っ直ぐ行ってきた自分とチャラチャラして浮気をしまくってはいるがグレーな稼ぎ方をして両手に華を抱える男を見るとムカつくが、そのムカつきは結局自分の魅力がないということだろう。
ほら。なんと情けないことか。
少なくとも金を稼げる能力すらない自分とどうにかして稼げるという土俵についた人間。
自分が女性ならばどっちに付くのかななどと、考えなくても答えは出ている。
紙コップを3つほどグシャとゴミ箱に捨てた。
──それが今の俺の気持ちだ。
結局のところ、俺は情けない死に際も見極められないクソな人間だろう。
こんなカートを引きながら、人を見下し、しかし現実は魅力もないのだから女性も寄らなければ金があるわけでもない。
性格が良いのかと言われれば、誠実ですとしか言いようがない空っぽな潤滑油。
サンドバッグそのもの。
まさしく俺であり、お前である。
弱者というのはこんなものだろう。
色んな商品を入れながらそんな事を考える。
反芻して巡らせて。
自分は何をしているんだろうと虚無感を感じ、ただ汗を流す。
結局死にたかったのは自分でも理由がわからない。
ただ、衝動というのはそういうものだろう。
わけもわからない地獄を感じながら、どうにかして体を動かす為に思いついた「最善」だったのだろうと。
鐘が鳴る。
どうやら終わりの時間らしい。
歩いていると、一人のムキムキマッチョマンが俺に声をかけてきた。
「初日っすか?」
「あ、はい」
爽やかそうで、いわゆる陽キャ的な人間だ。
なんでこんな所にいるのだろう。
彼は20代後半で、これから夢を目指すために会社を辞め、一本でここで時間作りながら目指しているらしい。
「何かやらないんすか?」
いつもならば話を聞かない自分。
しかし、何故か今日は違かった。
初日というのもあったのだろうか。
ともかくここで何を言うべきだろう。
自殺志願者だと言えばそれまで。
しかし理由があるわけでもない。
渇望があるわけでもないし。
「特にないですかね。
ただ、何もやる気が起きないというか」
彼は首を傾げた。
そうだろう。
俺の思考はきっと彼には分からないだろう。
理解できるものではないのだろうから。
「だったらとりあえずジム行きません?」
突然だ。
思わず困惑した。
「ジム?」
「ええ!
俺、元々上司にイジメられていたんすけど、筋トレしていつか目の前に立って見下ろしてやろうと思って始めたら⋯⋯向いてるって事が分かったんすよ!
才能よりも継続っす!
ワンパンでシメられるぞって心の中で叫んでました」
上機嫌に笑いながら、彼はそう言ってくれる。
確かに。
想像しただけでご飯を10杯は食えそうだ。
「失礼だけど何処のジム行ってるの?」
「あー駅前のところっす!24なんすよね」
⋯⋯ふむ。
セキュリティーゲートを潜り、俺の画面には興奮材料のSNSではなく、ジムの契約画面だった。
「さて───」
衝動というのはいつだって抑えれると思っていたのだが、そうか。
アイスピックで空気を殴りつけた感じがする早朝だ。
だが、今までとは違う。
情けなくも、理由などなんでもいい。
──駐輪場に向かいながら思う。
「とりあえず来年になる前まで筋トレ頑張ってみるか」
しまいながら、呟く。
弱者というのは何にでもなれる。
今の自分に、幸せという言葉は程遠いが、幸せというのはフォーマットが決まっている。
しかし俺のようなやつにはフォーマットがない。
⋯⋯あら、そう考えるとなんて響きが良いのだろう。
どんな道も行けるのではないか?
そう思ったら漕ぐペダルの音が爽快になってきた。
嫌な事は無数にあるが、良くなる事も無数にあるのだ。
信号待ち。
下を向く自分はまるで、初めてダウンロードした後にメールアドレスとパスワードを登録するゲームみたいに正確かつ滑らかに動く指。
ネットの契約は終わった。
さぁ、情けなくも。
理由などなんでも良い。
たまたまでも。
脳裏によぎる。
⋯⋯死に損なった。
しかしそこには、スマホ首末期の自分の目線ではない。
"まだ見ぬ新しい自分なのだ"──。
死に損なっても良い。
来年になる前まで。今はそれでもいい。
それが積み重なって、天寿を全うしているかもしれないと想像した目の前を走り抜ける車を眺める自分。
僅かに灯る希望。
いつもとは違うキラキラ輝く青緑色の点灯。
いつもなら気付くのに遅れる自分が、重いペダルを即座に踏み出す。
人生を変えるのはいつだって自分の気持ちと意味不明な衝動なのだ。
何故かって?
それは。
たった一日でこんなわけわからない思考回路になる事もあるのだから。
どうだ?
──人間って、面白いだろ?




