第七話 ヴィーナ、来訪
「……アリスとして歩いた感覚、全部残ってる……」
アレスは胸に手を当てた。
村の空気、ヴィーナの笑顔、風の匂い――
どれも鮮明で、胸がざわつく。
「当然じゃ。アリスは、わらわとお主が完全に重なった人格じゃからな。どちらかが奥に押し込まれたわけではない。わらわとお主がひとつになって、アリスになったのじゃ」
エリスは淡々と言う。
アレスは複雑な顔をした。
「……でもあの状態だと、僕として生活できないよ。僕もエリスさんも自分じゃなくなるし……」
「ふむ。確かに、アリスは強烈じゃったな。日常使いには向かぬ。変身魔法は使いどころが難しいのじゃ」
エリスは軽くこぶしを握った手を顎に当て、珍しく真面目に考え込んだ。
「では、別の手段を使うのじゃ。見た目だけを変える――幻惑魔法じゃ」
「幻惑……?」
「うむ。姿形だけ『アレスのまま』に見せる魔法じゃ。人格はそのまま、魔力の負担も少ない。ただし、実際の身体は融合したままじゃから、動かすのは相変わらず左右別々じゃ」
アレスは頭を抱えた。
(……村で普通に生活するだけでも大変なのに……)
「まあ、見た目がアレスなら怪しまれぬ。アリスの姿よりは安全じゃろう」
アレスがため息をついたその時――
コン、コン。
玄関の扉を叩く音が響いた。
「えっ……誰……?」
「む……客人か?」
アレスの心臓が跳ねる。
エリスの尾がぴんと立つ。
(どうしよう⁈)
緊張が走る中、アレスは小声で叫んだ。
「エリスさん、幻惑魔法! 早く!」
「心得た。幻惑擬態!」
エリスが指を鳴らすと、融合体の身体が淡く揺らぎ、見た目だけが「いつものアレス」に戻った。
中身は相変わらず左右別々に動かしているのだが、外からは普通の青年にしか見えない。
アレスは深呼吸し、おそるおそる扉を開けた。
「アレス、いるー?」
そこに立っていたのは、さっきまで村を一緒に散歩していたヴィーナだった。
アレスは一瞬で背筋が凍る。
(や、やばい……! アリスのこと、何か気づかれて……!? 僕、絶対口走る……!)
エリスも同時に悟った。
(……こやつ、絶対にボロを出すタイプじゃな)
アレスが口を開きかけた瞬間、エリスがアレスの声帯を乗っ取り、先に喋った。
「ど、どうしたの、ヴィーナ?」
声は完全にアレスのもの。
しかし中身はエリスの冷静な判断だ。
(えっ!? 僕の声で勝手に喋った!?)
(黙っておれ。お主は秘密を隠すのが壊滅的に下手じゃ)
ヴィーナは小さな髪留めを差し出した。
今朝、エリスの前髪を留めるためにつけた、蒼色のピン。
先程、時間切れで慌てふためいた際に外れてしまったのだ。
「さっき村で会った、アリスって女の子が落としていったの。アリスちゃん、こっちの方に歩いていったから……もしかしてクロノスさんのお客さんかなって思って」
アレスの背中を冷たい汗が伝う。
(ひぃぃ……! どうしよう……!)
エリスはアレスの声で、自然に返した。
「そ、そうなんだ。ありがとう、ヴィーナ。預かっておくよ」
(すごい……僕より自然……!)
ヴィーナはぱっと笑顔を咲かせた。
「さっき一緒に村を歩いてお話したら、ものすごーく楽しくて。まだ村にいるそうだから、返しにきたの。アリスちゃんいる?」
「あ、まだ帰ってきてないんだ。近くで散歩してるのかな?」
「あれ? さっき急用かなんかあるって言ってたのに、どうしたんだろう?」
ヴィーナは柔らかい物腰ながらも容赦なくツッコミをいれてくる。
このあたりは昔からそうだ。
一方、アレスがいまだ対処できず固まっているので、かわりにエリスがその場凌ぎで誤魔化す。
「ま、まぁ本人もいないし、わかんないけどきっとそのうち帰ってくるよ。心配しないで……!」
「そっか。じゃあアレス、アリスちゃんにこれ渡しておいてね。すっごく大事そうにしてたから」
「うん、任せて」
「それと、明日仕事お休みだから、クッキー焼いて遊びに来るね! アリスちゃんとお茶したいから!」
「ひゃっ!?」
ヴィーナからの予想外の提案に、さすがのエリスも仰天して思わず変な声が出た。
「どうしたの......?」
「あ、うん、じゃあ伝えておくね! 時間は、午前中とかかな?? ぼ、僕はまたじいちゃんに自主練するよう言われてるから、二人で楽しんでね」
エリスがアレスの声で無難に返すが、流石にその奥底の動揺は隠せなかった。
ヴィーナは手を振って帰っていく。
扉が閉まった瞬間、アレスは膝から崩れ落ちた。
「……エリスさん、僕の声で勝手に喋った……!」
「当然じゃ。お主は絶対に慌てふためいて会話すらならんと思ったからな」
「否定できない……!」
エリスは満足げに頷いた。
「ふむ。あの娘、なかなか鋭いのう。観察眼といい、物事の筋立てといい、ただ者ではない」
「褒めてる場合じゃないよ……! 明日もアリスとして約束とか!」
アレスは髪留めを見つめた。
魔族のイメージカラーに近い、蒼色――
また明日も今朝みたいな、いやもっとそれ以上のドタバタになるに違いない。
「……明日、どうしよう……」
「決まっておる。せっかくの誘い、大いに甘えようではないか」
「エリスさん、やっぱり楽しみなんだ……!」
アレスの嘆きが、家の中に響いた。




