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第五十二話 いざ、トリナ島へ

 トリナ島への出発を翌日に控えた夜、アレスとエリスは湯気の立ちこめるシャワー室で、鏡に映る自分の姿を眺めていた。

 半分は自分、半分はエリス。

 境界は曖昧で、互いの感覚が自然に混ざり合っている。


「アレス、そこ泡が残っとるぞ。ほれ、もう少し左じゃ」

「え、あ、ほんとだ……エリスさんが見えてるんだから早く言ってよ」

「言ったじゃろ? お主が気づくまで待つのも修行じゃ」


 そんな軽口を交わしながら、二人は温水を浴びる。

 身体はひとつでも、心は二つ。

 この時間は、互いの距離を確かめる大切な習慣になっていた。


 シャンプーからコンディショナーへと髪を洗う流れの中で、アレスがふと思い出したように言った。


「そういえばアーテーさん、仕事変えるって言ってたよね?」


 エリスは湯の温度を確かめるように腕を動かしながら答えた。


「うむ。踊り子のままでは目立ちすぎるからの。しばらくは身を隠すため、ハウスシッターに転職するそうじゃ。依頼主の家に入っても怪しまれんし、情報も集めやすい。あやつらしい選択じゃな」

「確かに、スコルピアに見つかって、踊り子のままだとユノーの目に触れる可能性もあるし……」

「それに、魅了漏れ対策も必要じゃ。アーテーは魔族の中でも魅了の素質が強いから、普段からお主やわらわにかかぬよう、人間界では抑制具をつけておるからのう」


 アレスは思わず苦笑した。


「アーテーさん、あれで結構気を遣ってるんだな……」

「当然じゃ。お主に余計な誤解を与えたくないのじゃろうて」


 エリスの声が少しだけ柔らかくなった。

 アレスはその変化に気づきながらも、あえて触れなかった。

 そして湯から上がり、身体を拭きながらアレスは明日のことを思い出した。


「そうだ、明日からの合宿……ネプトと同じテントで寝ることになるんだよねぇ……」


 エリスはタオルを肩にかけたアレスの動きを見ながら、真剣な声で言った。


「その件じゃ。お主が眠っておるとき、わらわの気配が表に出やすいのじゃ。ああ見えてネプトはなかなか思慮深いやつじゃ。同じ空間で長時間過ごせば違和感を覚えるやもしれん」

「う……それは困るな」

「だから、カムフラージュの確認をしておくぞ。まず、魔力の流れを抑える。眠る前に深呼吸して、わらわの魔力を内側に引き込むのじゃ」


 アレスは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えた。

 胸の奥でエリスの気配が静かに沈んでいく。


「……こんな感じ?」

「うむ、悪くないのじゃ。あとは寝返りじゃな」

「寝返りって……そんなの意識できないよ」

「できるわい。わらわが支えてやるから安心せい」


 エリスの声は落ち着いていて、どこか安心させる響きがあった。

 湯上がりの身体を整えながら、アレスはエリスの気配に軽く触れた。

 エリスも応えるように、アレスの動きに合わせて意識を寄せてくる。


「明日、ちゃんとできるかな……」

「できるに決まっとるじゃろ。半年もわらわと共におるのじゃ。自信を持て」

「……エリスさんが言うと、なんか安心する」

「当然じゃ。お主の半身じゃからな」


 その言葉に、アレスは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 エリスもまた、アレスの感情が伝わってきたのか、少しだけ照れたように気配を揺らした。


「……ほれ、もう寝る準備をせい。明日は早いぞ」

「はいはい」

 二人はひとつの身体で、いつものように言葉の応酬を続けつつ、明日への不安と期待を胸に、夜を迎えた。


 ◆


 後期入学組は、朝の光が差し込むエースター港に集結していた。

 制服姿の生徒たちが荷物を抱え、班ごとに点呼を受けながらざわざわと列を作る。

 アレスは第3班の仲間――ネプト、ディアナ、ヴェスタと並ぶ。

 港には、魔道術専門学校マジクラフト専用の大型船が停泊していた。

 魔力蒸気機関と帆を併用した船で、百名以上を乗せても余裕があり、当然、大統領警備隊も同乗することになっている。

 ネプトは目を輝かせながら船を見上げた。


「うわぁ……でっかいな! これで島まで行くんだよな!」


 ディアナは荷物を抱えながら、少し不安げに眉を寄せる。


「半日以上も船に乗るなんて……酔わないといいけど」


 ヴェスタは緊張で何度も眼鏡を押し上げながら、若干挙動不審になっている。


「し、しっかり……しないと……」

 

 アレスは三人の様子を見守りながら、心の中でエリスに話しかける。


(エリスさん、忘れ物はないよね?)

(大丈夫じゃ。昨夜のうちに全部確認したであろう? 落ち着くのじゃ、アレス)


 その声は、海風の中でもはっきりと胸の奥に響いた。

 乗船が始まると、生徒たちは班ごとに甲板へと上がっていく。

 海面が朝日に照らされ、白い光が揺れていた。

 ネプトは手すりに駆け寄り叫ぶ。


「見て見てアレス! 海めっちゃ綺麗!」


 ディアナは慌てて腕を掴む。


「落ちるからやめなさいってば!」


 ヴェスタは揺れる船にふらつきながら、遅れて後をついてくる。


「みなさん、待ってくださーい……」

 

 アレスはそんな三人を見守りながら、胸の奥でエリスの気配が揺れるのを感じた。


(潮の匂い……懐かしいのう。魔界にも似たような海があったのじゃ)

(へぇ……魔界にも海があるんだ)

(あるとも。お主にもいつか見せてやりたいものじゃ。まぁ、真っ黒じゃがな)

(うっ……ま、魔界だもんね……) 


 汽笛が鳴り、船がゆっくりと港を離れる。

 甲板には歓声が上がり、海風が生徒たちの髪を揺らした。

 サジタリウス班は甲板の端に集まり、合宿の話で盛り上がる。


「初級モンスターって、どれくらい強いんだろうな?」

「油断しなければ大丈夫よ。わたくしたち、もう実技も慣れてきたし」

「で、でも……森って……迷わないですかね…?」

「そういう時こそ、僕の補助魔法の出番だよ!」


 半日ほど経った頃、船の前方に緑の島影が見えてきた。


「見えた! あれがトリナ島だって!」

 

 ネプトが指をさす。

 島は濃い緑に覆われ、中央には小高い丘がある。

 森の奥には古い遺跡の影が見え、大都会からそんなに遠くない場所にこんなところがあるのかと、驚かされる雰囲気だった。

 ディアナは息を呑む。


「……なんか、すごい場所ね」

「こ、ここで……実戦を……」


 ヴェスタは肩をすくめるが、そこでアレスが安心させるような言葉をかける。


「まぁ、慎重に。でもみんなで助け合って、ね!」


 船が港に接岸し、生徒たちは班ごとに上陸していく。

 砂の感触、森の匂い、湿った風――すべてが実戦の空気を感じさせた。

 教師たちが先導し、生徒たちは荷物を背負って森の入り口へ向かう。


「ここから少し歩いた場所に宿営地がある。班ごとにテントを張り、初日は環境に慣れることを優先するように」


 第3班も列に続き、アレスは仲間たちの歩調を確認しながら進む。

 エリスは静かに囁いた。


「アレス、気を引き締めるのじゃ。ここからが本番じゃぞ」


 アレスは深く息を吸い、仲間たちの背中を追った。

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