第五十話 アレスのカットモデル
エースターの街角にある小さな喫茶店。
昼下がりの柔らかな光が差し込む窓際の席で、アレスは久々にヴィーナと向かい合っていた。
ヴィーナは美容師になるために上京し、今は街でも評判の職人の店で修行している。
とはいえ、ヴィーナ自身は魔法の素養を一切持たない。
魔力を「感じる」ことも、流れを「読む」こともできない。
ただ、手先が器用で、観察力が鋭く、そして何より、人の変化に敏感な少女だった。
「アレス、久しぶり。元気にしてた?」
ヴィーナは明るく笑い、手を振った。
アレスは笑顔を返した。
だが、その笑顔にはどこかぎこちなさがあった。
「うん、元気だよ。ヴィーナちゃんこそ、仕事はどう?」
「まあまあかな。師匠が厳しくてさ。でも、やっと手が慣れてきたところ」
ヴィーナは紅茶を口にしながら、アレスの顔をじっと見つめた。
その視線は、懐かしさよりも観察に近い。
アレスは昔から素直で、表情に出やすい性格だった。
だが今のアレスは、どこか落ち着きすぎている。
言葉を選び、感情を抑え、距離を測るような仕草が増えていた。
(……なんか、変。アレスって、こんなに「間」を置く子だったっけ?)
ヴィーナは首をかしげた。
アレスは笑っているが、その笑顔の奥に誰か、の気配がある。
まるで、アレスの中に別の意識が寄り添っているような――そんな奇妙な感覚。
彼女は魔法が使えなくても、人の表情や仕草の変化には敏感だった。
アレスがカップを持つ手が、ほんのわずかに胸元へ触れた。
その仕草は無意識のものだが、ヴィーナの鋭い視線は見逃さなかった。
(……誰かを意識してる。それも、すごく近い相手。まるで恋……かな?)
アレスの視線の揺れ方、言葉の選び方、そして時折胸元に触れる癖――
それらすべてが、誰かの存在を隠しきれていない証拠だった。
ヴィーナはアレスの変化に気づきながらも、無理に踏み込むことはしなかった。
けれど、胸の奥に残ったざらつくような違和感は消えない。
アレスが何かを抱えている。
それは確かだ。
だが、本人が言わない以上、無理に聞き出すのは違う――
そう思って、ヴィーナは別の形でアレスに近づくことにした。
「ねぇアレス。ひとつお願いしてもいい?」
アレスが顔を上げる。
「え? なに?」
「カットモデルになってほしいの」
「カットモデル? な、なんで……?」
「師匠にもっと経験積めって言われててさ。お金はいらないから、練習させて?」
アレスは一瞬驚いたが、すぐに笑った。
「いいよ。ヴィーナちゃんの頼みなら!」
その返事に、ヴィーナは胸の奥が少しだけ軽くなった。
踏み込みすぎず、でも距離を置きすぎず――
その絶妙な距離感が、今の彼女には必要だった。
◆
数日後、ヴィーナの勤める美容室の裏スペース。
練習用の椅子に座ったアレスの首にクロスを巻きながら、ヴィーナはふと手を止めた。
(……あれ?)
アレスの首筋に触れた指先に、言葉にできない「違和感」が走った。
ただ肌に触れた瞬間、まるで「もう一人の誰か」がそこにいるような感覚。
(なんだろ……これ。アレスの肌なのに……アレスじゃないみたいな……)
ヴィーナは首をかしげながらも、ハサミを持ち直し、慎重に髪を切り始めた。
アレスは気づいていない。
胸の奥でエリスが静かに息を潜めていることも、ヴィーナの指先がその存在に触れかけていることも。
髪を切りながら、ヴィーナは何度もアレスの表情を盗み見た。
アレスは落ち着いているようで、どこか緊張している。
まるで、誰かに見られているような――そんな不自然な硬さがあった。
(アレス……やっぱり変だよ。誰かを意識してる。それも、すごく近くに……)
魔法の素養はない。
寄生や融合なんて想像もできない。
それでもヴィーナの、人を見る目は鋭かった。
アレスの近くに、誰かがいる。
それだけは確信に近かった。
カットが終わり、鏡を見たアレスは素直に喜んだ。
「すごいよヴィーナ! もうプロみたいだね!」
「ほんと? よかったぁ……!」
ヴィーナは照れながら笑ったが、その笑顔の裏では、アレスの変化が頭から離れなかった。
そんなヴィーナの気持ちなどつゆ知らず、アレスは軽い調子で言った。
「ねぇ、班の仲間にも声かけてみようか? 男だけじゃサンプル偏るでしょ? みんな協力してくれると思うよ」
「えっ……」
ヴィーナは一瞬言葉を失った。
アレスが抱く恋のような感覚に、他の女子が加わるとなると……
だがアレスは無邪気に続ける。
「ほら、人数いた方が練習になるし! みんな髪型違うし、いい経験になるよ!」
「……うん。ありがとう。考えてみるね」
ヴィーナは笑顔を作った。
しかし同時に、せっかくの厚意を素直に喜べていない自分も露にし、それが嫉妬心からくるものだということを彼女はまだ気づいていない。




