第四十八話 そして日常に戻る
路地裏の戦いから、翌々日。
だがアレスの朝は、以前のような平穏とは程遠かった。
薄い朝光がカーテンの隙間から差し込み、ひとつのベッドの上で、ひとつの身体がゆっくりと目を覚ます。
右半身にアレスの意識が、左半身にエリスの意識が宿る。
目覚めの瞬間、二人の呼吸が重なり、胸の奥で魔力が微かに脈打った。
「……おはよう、エリスさん」
「うむ……今日も無事に目覚めたようじゃな、アレス」
アレスの声とエリスの声は、同じ身体から発せられ、確かにここにいる。
半年も続けば、この奇妙な状態にも慣れてしまう。
だが今朝は、ふたりとも普段とは気分が異なり、若干昂っているような気がした。
アレスが起き上がると、身体にまとっているのはエリスが選んだナイティだった。
淡い紫色の、魔族の織物で作られた軽い寝間着。
肌触りは驚くほど滑らかで、魔力の流れを整える効果まである。
「……エリスさん、これ、やっぱりちょっと恥ずかしいよ……」
「何を言う。寝心地が良いものを選んでおるだけじゃ。そなたの身体でもあるのだから、快適さは大事じゃろう?」
アレスは相も変わらず反論できず、ため息をついた。
半年も続けば慣れたつもりだったが、朝の身支度はどうしてもエリスの影響が強く出る。
洗面台の前に立つと、エリスが魔力を流し、肌の調子を整えるスキンケアが始まる。
魔族の香草を練り込んだ化粧水は、ほんのり甘い香りがして、肌に吸い込まれるように馴染む。
「エリスさん、僕の姿で学校行くだけなんだから、そんなに丁寧にしなくても……」
「よいかアレス。身だしなみは戦いと同じじゃ。油断すればすぐに崩れる。それに……そなたの姿で外に出るのじゃから、わらわも手を抜けぬ」
アレスは苦笑しながらも、エリスの魔力が肌を整えていく感覚に身を任せた。
身支度が終わると、アレスは深呼吸し、魔力を集中させる。
エリスも同時に魔力を流し、擬態を安定させる。
「……いくよ、エリスさん」
「うむ。今日も完璧に仕上げるぞ」
魔力が身体の中心で重なり、ひとつの像を形作る。
鏡に映ったのは、いつものアレス。
誰が見ても普通の男子だ。
だが、その内側にはエリスがいる。
半年経っても、この奇妙な日常は変わらなかったはずだが、今朝に限って、お互い妙に意識しあっているような、妙な雰囲気になっていた。
アレスは気分を一新するべく、キッチンに立つと、アーテーがすでにエプロン姿で待っていた。
「おはようございます、エリス様、アレスどの。今日も早いですね」
「おはよう、アーテーさん。今日は僕がスープ作るよ」
「じゃあ私は焼き根菜ですね。昨日の続きで練習したいですし」
アレスが包丁を握ると、エリスが内側で小さく呟く。
(アレス、指を切るでないぞ。そなたは時々ぼんやりするからな)
(だ、大丈夫だよ……!)
(心配なのじゃ。わらわの身体でもあるのだからな)
アレスは少し照れながらも、朝食の準備を始めた。
今日のメニューは、森の香草を煮込んだ緑葉スープと、魔力を帯びた火霊根の焼き物。
アーテーは火霊根を鉄板に並べ、魔力で火霊石の温度を調整しながら焼いていく。
火霊根は焼くとほのかに赤く光り、甘い香りが部屋に広がった。
「アレスどの、味見してみますか?」
アーテーが火霊根をひとつ差し出す。
アレスが口に運ぶと、エリスの側にも同じ味が伝わる。
「……甘いのう。悪くない」
アーテーは火霊根を器用にひっくり返しながら、アレスを横目で見て微笑んだ。
「体が一つになってもう半年経つのに、エリス様は全然料理の場面には出てこないんですね」
「えっ!? な、なんで急に……!」
アレスが慌てると、エリスが割って入ってくる。
「プロの料理人と遜色ないところに、わらわが出る幕はないのじゃ!」
アーテーは何も言わず、火霊根を皿に盛り付けた。
その時、寝室の方からふらふらと足音が聞こえた。
「……にゃぁ……朝……?」
マケが人化変身がかかったまま寝ぼけた顔で現れ、テーブルの上の火霊根を見て目を輝かせた。
「にゃっ! 今日も朝ごはん、豪華にゃ!」
「マケ、顔洗ってからにしなさい」
アーテーが呆れたように言う。
「にゃぁ……わかったにゃ……」
マケはふらふらと洗面所へ向かい、数分後には毛並みを整えて戻ってきた。
「いただくにゃ!」
マケが火霊根にかぶりつくと、アレスとエリスは同時に笑った。
「猫舌ってわけじゃないのか……マケは変わらないねぇ」
「うむ。あやつはあやつで、日常を楽しんでおる」
朝食を終え、アレスは鞄を肩にかけた。
エリスは内側で静かに魔力を整え、擬態を安定させる。
「今日も……よろしくね、エリスさん」
「任せておけ。そなたの姿を保つのは、わらわの役目じゃ」
玄関の扉を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
アレスは歩き出す。
エリスはその動きに合わせて魔力を調整し、ひとつの身体を自然に動かす。
半年続いた奇妙な日常。
だが、アレスにとってもエリスにとっても、それはもう「日常」になっていた。
そして今日も、ふたりでひとりの「アレス」として、魔道術専門学校へ向かう。




