第四十二話 ピュートンの幻術
分断領域によって空間が裂け、アーテーはピュートンと二人きりの領域へと弾き飛ばされた。
白黒の床は波打ち、周囲は霧のような黒魔力で満ちているのは、刺客たちが最初に吸い込まれた時の状況に近い。
その中心で、ピュートンがローブを揺らしながら立っていた。
「……補助専門のサキュバスとサシですか。面白い」
アーテーは身構え、自分の鼓動が速くなっているのを感じた。
(……正直、分が悪い。エリス様ほどの魔力もないし、マケみたいに接近戦もできない。補助魔法で底上げして、どこまで通じるか……)
だが、逃げるわけにはいかない。
アーテーがそう意を決した際、ピュートンが指を鳴らした。
周囲の霧が形を変え、アーテーの背後に、もう一人のピュートンが現れた。
「幻術……!」
「そうだ。わたしは黒魔導士であり、幻術師でもある。一対一なら……お前に勝ち目はない」
二体のピュートンが同時に呪文を唱え、黒い鎖のような魔力がアーテーへ迫る。
アーテーは防御魔法を展開したが、鎖の一部が防御をすり抜け、腕に絡みついた。
「くっ……!」
「サポーターが、前に出るからだ」
ピュートンの声は冷たく、そこには余裕があった。
対するアーテーが抗して鎖を魔力で焼き切った瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
「……え……?」
目の前に、エリスが倒れている。
「アーテー……すまん……」
「エリス様!? なんでここに――」
しかし、アーテーが手を差し伸べようとすると、エリスの姿は黒い霧となって消えた。
「幻術に決まっているだろう」
背後からピュートンの声。
アーテーが振り返るより早く、黒い矢が飛んできた。
「きゃっ……!」
肩をかすめ、血が飛ぶ。
(……まずい……! 幻術の精度が! これじゃ本物がどれか分からない……!)
アーテーが体勢を立て直そうと距離を取ろうとしたとき、耳元でマケの声がした。
「アーテー、危ないにゃ!」
「マケ!? どうして――」
振り返ると、そこにはマケではなくピュートンが立っていた。
「……っ!」
マケの声、マケの匂い、マケの魔力の揺らぎまで再現されている。
(……こんなの……見分けられない……!)
ピュートンが笑う。
「幻術とは、視覚だけではない。音も匂いも、魔力の波形すら偽装できる。多少闇系魔法をかじったところで、お前のレベルでは見破れるわけがない」
黒い矢が再び飛ぶ。
アーテーは転がるように避けたが、足元の床が突然消え、落下しそうになる。
「きゃあっ……!」
落ちる――と思いきや、床は元に戻る。
「……これも……幻……!」
「そうだ。この場では、わたしが『現実』を決める」
ピュートンの声が四方八方から響く。
しかし、ここでアーテーは歯を食いしばり、胸の奥からサキュバスとしての本質を引き上げた。
「……個体魅了!」
紫の光が瞳から溢れ、甘い香りのような魔力が空間に広がる。
ピュートンの動きが一瞬止まった。
「……っ……これは……魅了……!」
「ええ。本来は抑えていたけれど……あなた相手なら、もう遠慮はいらないわ」
アーテーの声は甘く、しかし芯があった。
ピュートンはエリスほど強烈には魅了されない。
だが、魔力の流れが乱れ、幻術の精度が落ちる。
「くっ……視界が……揺れる……!」
「今よ!」
アーテーは自分へ強化魔法を重ねがけした。
「黒力励起! 魔力増幅! 迅速強撃!」
身体が軽くなり、魔力の流れが一気に研ぎ澄まされる。
そこにピュートンが魅了を振り払うように叫び、再び幻術を展開した。
「魔影分身!」
アーテーの周囲に今度は三体のピュートンが現れ、同時に黒い矢を放つ。
アーテーは強化された反応速度で跳び、魔力の盾を展開して矢を弾く。
「はぁっ……!」
「ほう……動きが良くなったな。だが――まだ足りん!」
ピュートンが地面へ手をつき、黒い魔法陣を展開した。
「精神侵食!!」
黒い霧がアーテーの頭へ流れ込み、意識を揺らそうとする。
「くっ……こんなの……お返しっ!」
アーテーは魅了の魔力を逆流させ、精神侵食を押し返し始める。
「……あなたの幻術は強いわ。でも――わたしだって、魔王の側近なのよ!」
アーテーの瞳が強く輝き、魅了の魔力が一気に増幅する。
ピュートンの動きが止まった。
「……っ……身体が……動か……」
「終わりよ!」
アーテーは右手を振り下ろし、紫の魔力を一点に集中させて放つ。
「――魅惑破砕!!」
魅了と攻撃魔法を融合させた一撃。
ピュートンの幻術が霧散し、黒いローブが吹き飛ぶ。
「ぐああああっ……!」
ピュートンは膝をつき、そのまま意識を失った。
アーテーは肩で息をしながら、倒れたピュートンを見下ろした。
「……はぁ……はぁ……危なかった……本当に……」
幻術に翻弄され、何度も騙されかけた。
だが、アーテーは自分の力で勝ち取った。
「……エリス様、マケ……わたし……やったわ……!」
アーテーの声が、分断された空間に静かに響いた。




