第四話 魔王様の夜の支度は容赦ない
浴室から出ると、アレスとエリスは一枚の大きなタオルを肩にかけたまま、鏡の前でしばらく立ち尽くした。
湯気がまだ肌にまとわりつき、左右で温度の感じ方が違う。
右半身は人間らしい温もり、左半身は魔族特有の熱を帯びた体温。
その差が、融合した身体の境界「境界」を妙に意識させる。
「アレス、髪を乾かすのじゃ。風邪をひくぞ」
「う、うん……でも、左側の髪が……重い……」
アレスが右手でタオルを持ち上げると、左側の長い黒紫の髪が肩にまとわりつき、しっとりと重さを主張してくる。
エリスが左手で髪を持ち上げると、今度は右側の短い金髪が引っ張られて痛い。
「い、痛っ……!」
「お主が変な角度で持つからじゃ!」
「エリスさんが急に引っ張るからだよ!」
タオルが絡まり、髪が肩に張りつき、尾がバランスを崩して棚にぶつかる。
ガタンッ!
「わらわの尾が勝手に動くのじゃ!」
「勝手じゃないってば! さっきも言ったけど、エリスさんの感情が動くと尾も動くんだよ!」
アレスは心の中でそっとため息をついた。
(……僕、今日だけで何回“痛い”って言ったんだろ……)
エリスはそんなアレスのことなどお構いなしに、話を進めていく。
「さて、寝間着じゃが……わらわが用意したのがあるのじゃ」
「え? 用意したって……どこから……?」
「空間収納じゃ。わらわの私室にある物は、だいたい取り出せるのじゃ」
エリスが左手を軽く振ると、空間が波打ち、黒い穴が開いた。
その中から、ふわりと布が飛び出してくる。
「すごい……! さっき、風呂の中でもやってたけど、本当に何でも……」
「うむ。魔王たるもの、荷物を持ち歩くなど野暮なのじゃ」
アレスが感心していると、エリスが取り出した布を広げた。
「……これ、女物の……?」
淡い紫色の、ゆったりしたシルエットのナイトウェア。
胸元にリボンまでついている。
「当然じゃ。わらわの趣味じゃ」
「ぼ、僕の趣味じゃないよ!?」
「お主の趣味は聞いておらん。着るのじゃ」
「ええええええ!?」
アレスが右半身で後ずさると、エリスの左半身が前へ引っ張る。
「逃げるでない。袖を通すのじゃ」
「ちょ、ちょっと! そっちは入らないってば!」
「暴れるでない! 袖が通らんじゃろ!」
「エリスさんが引っ張るからだよ!」
ベッドの上で転がりながら、どうにか袖を通す。
鏡を見ると、左右で全く似合い方が違うのが逆におかしい。
「……似合っておるぞ、アレス」
「ど、どこが!?」
「わらわの隣に立つなら、このくらい華やかでよいのじゃ」
「隣っていうか……同じ身体なんだけど……」
アレスは鏡の中の自分を見て、心の中で絶叫した。
(……僕、男なんだけど……!?)
アレスのメンタルが、どんどん削られていく。
「さて、寝る前のスキンケアじゃ」
「えっ……まだあるの!?」
「当然じゃ。肌の手入れは魔王の嗜みじゃ」
エリスが収納魔法で小瓶をいくつも取り出す。
透明なジェル、香りのよいクリーム、魔界産の美容液らしきものまで。
「アレス、右側はお主が塗るのじゃ」
「え、えっと……こう……?」
「違う! もっと優しく塗るのじゃ! 肌は繊細なのじゃ!」
「エリスさんが言う!?」
「わらわの肌は魔族でも特別なのじゃ!」
右手と左手がぶつかり、クリームが頬に伸び、尾が瓶を倒し、
アレスは半泣きになりながらスキンケアを続けた。
「……もう無理……」
「まだ化粧水が残っておるのじゃ」
「まだあるの!?」
「当然じゃ」
アレスは心の中で静かに崩れ落ちた。
ようやく全てが終わり、二人はベッドに腰を下ろした。
ナイトウェアはふわふわで、肌触りは悪くない。
ただ、左右で感触が違うのが落ち着かない。
「ふぅ……やっと寝られる……」
「うむ。今日は色々あったからの」
布団をかけると、体温が混ざり合うようにじんわりと温かい。
心臓の鼓動が静かに響き、二人の呼吸が少しずつ揃っていく。
「アレス」
「な、なに……?」
「わらわは……お主となら、案外やっていける気がするのじゃ」
「そ、そう……?」
「うむ。お主は素直で、扱いやすい」
「扱いやすいって言った!?」
エリスがくすりと笑い、アレスはため息をついた。
(……僕、今日だけで“男としての尊厳”が半分くらい削れた気がする…… いや、半分どころじゃないかも……)
こうして、魔王に振り回される夜はゆっくりと更けていく。




