第三十四話 アーテーの夜
アレスたちが魔道術専門学校で午後の授業を受けているころ、アーテーは今日もマケとともに、日課となった共同浴場で湯に浸かっていた。
彼女は、昼下がりまではアパートで家事を済ませ、湯を浴びて、夜になると繁華街の劇場へ向かう。
人間界での潜伏生活は、魔族として過ごしていた頃とはまるで違う。
オルフェの腕輪で魔力を大きく抑制しているため、自力でどうにかできることは限られ、食費も家賃も、衣装までも人間の貨幣で支払わなければならない。
だからこそ、アーテーはサキュバスとしての自分を活かせる、踊り子として働くことを選んだ。
「……さて、今日も頑張らないと」
楽屋の鏡前で髪を整えながら、アーテーは小さく息を吐く。
サキュバスとしての本能は、舞台に立てばどうしても滲み出てしまう。
それでもエイテという芸名の「人間の踊り子」としての自分を保つために、毎晩、丁寧に化粧を施し、衣装を整える。
そうして出番を全うし、着替えてアパートに戻れば、マケがいつも嬉しそうに迎えてくれる。
「アーテー様、おかえりにゃ! アレス様のご飯最高だったにゃ!」
「そう、よかったわね」
マケはアレスの作る料理が大好きで、最近は毎晩のように献立を尋ねてくる。
アーテーはそんなマケを見て、ハートがほんわかする。
(……今も魔界にいたら私、こんな気持ちになることはあったろうか……)
アーテーはエリスの側近として、古くから彼女を支えてきた。
サキュバス族の村ではエリスが姉貴分で、妹分のアーテーをよく庇ったり、一緒にいたずらしたりする仲間だった。
魔王軍の同じ部隊では、共に戦い、共に魅了し、共に叫んだ。
エリスが素では抜けている部分をよく知っていて、お目付け役としてツッコミを入れる日々でもあった。
エリスが魔王の座を勝ち取った後も、政務からプライベートまで従い、同時にエリスの寂しがりやな部分も気にかけてきた。
だが、エリスに再会できたとはいえ、アーテーはいつまでも守られる側ではいられない。
自分の生活は自分で支える。
その気持ちが、彼女を毎晩の舞台へと向かわせていた。
◆
ある夜、アーテーが楽屋で準備をしていると、劇場の席亭が扉を開けて入ってきた。
「エイテちゃん、ちょっといいかい? 新人を紹介するよ」
その後ろから現れたのは、黒髪を長く結い、深紅の衣装をまとった女。
涼しげな目元、落ち着いた立ち姿。
だが、どこか人間味が薄い。
席亭は満面の笑みで言った。
「街角で踊ってるのを見てね、その腕前と美貌に惚れ込んでスカウトしたんだよ! はははっ」
アーテーは内心でため息をつく。
(……それ、私の時も同じこと言ってたわよね)
だが、彼女と目が合った瞬間、アーテーの背筋に冷たいものが走った。
(……この子、なに???)
彼女のどこか硬さが残った口元が微笑む。
「アンです。よろしくお願いします、エイテさん」
その声は丁寧で礼儀正しいのに、どこか底が見えない。
アーテーも微笑み返す。
「こちらこそ。楽屋では仲良くしましょうね」
だが、心の奥では警戒心が芽生え始めていた。
その時──
「まもなく出番です!」
番頭が知らせに来た。
前座のコメディアンが舞台を降り、客席がざわつき始める。
「次はエイテちゃんだ!」
「今日もやばいなぁ!」
アーテーは深呼吸し、舞台袖へ向かった。
音楽が流れ、アーテーが一歩踏み出した瞬間、客席の空気が変わった。
しなやかな動き、指先から流れるフェロモンの余韻。
抑えているつもりでも、魅了の波動は観客の心を掴んで離さない。
「……すげぇ……」
「今日のエイテちゃん、いつも以上に……」
「なんだ、この胸の高鳴り……」
アーテーは今、自分ができることを可能な限り全力で踊りにぶつけていた。
その様子を舞台袖で、アンはじっと見つめていた。
その瞳は、観客のような憧れではなく──獲物を見つけた捕食者の目。
アーテーの本能たる魅了の波動、サキュバス特有の魔力の匂いを嗅ぎつけた。
すべてを見抜いたように、アンは口元を歪める。
「……みーっけ!」
その声は、甘く、冷たく、そして確信に満ちていた。




